五 割り込み



 最初に目を覚ましたのは伸一でした。そして彼は直ちに考えます。なんで俺は床で寝てるんだ。節々が固まった体をゆっくりと起こし、伸一はベッドに目をやりました。そこには波子と優が眠っています。体を豪快に大の字に開く優の奥で、波子が静かに寝息を立てていました。
「こいつ寝相最悪だ」
 優を見て伸一が呟きます。どうやら彼は優の寝相によって床へ弾き出されたようでした。家主なのに、なんて目覚めだ、起きない俺も俺だけど。時計を見ると朝の七時前でした。起きるにはちょうど良い時間です。
「……おーい」
 伸一は眠り続ける二人に声を掛けてみました。起きないと遅刻だぞ。しかし二人は変わらず寝顔を晒すばかりです。伸一は優の頬をつついてみました。
「んー」
 優は唸るだけで起きようとしません。伸一は眠る波子と優を覗き込みます。無防備な寝顔でした。昨日のことなど無かったかのように、二人は穏やかにまどろんでいました。まさか自分の部屋で女の子二人が寝ているとは。新しい靴に履き替えたような、他人の自転車に乗ったような、どこかむず痒い思いが伸一を巡りました。伸一はふたりを踏まないように跨り、そっとベッドの奥にあるカーテンを開きました。昨日の雨は上がったらしく、青い空から朝の埃っぽい日光が部屋に入ってきます。
「うえーまぶしいー」
 優は朝日から逃れるように身をよじりました。そして目を開き、呆けた顔で自分の上に跨る伸一を見ます。伸一はしまった! と身の危険を察知しました。
「お」
 優が伸一を睨みます。
「犯す気? こわいわー」
「おかさねーよ! どっかで聞いた台詞だなおい!!!!」
 伸一はベッドから降ります。優は「冗談だよ寝起きギャグだよツレないなぁ」と起き上がり、そして波子を揺さぶりました。
「ほら起きろ波子。三島にやられちゃうぞ」
 伸一は苦言を呈したかったのですが、起きかけた波子のあどけない顔を見ると、その気持ちも萎んでいってしまいました。波子が目を覚まし、二人の顔を交互に見やってから腰を起こします。
「……おあおーおあいあう」
「波子さん今なんと?」
 波子は体をゆらゆら揺らして、
「おはおーおあいます」
 と言いました。寝起きが良くないようです。
「三島。この子ちょっと可愛すぎね?」
 そう優が言うと、伸一は目を逸らして誤魔化します。
「……いいから起きろよ。学校行くぞ」

 伸一は部屋から追い出されてしまいました。優が「女子の着替えだよーん」と遣り戸を閉めてしまったのです。仕方がないので伸一はコーヒーを淹れてあげることにしました。なぜ家主である自分が朝のコーヒーの用意までしているのか彼には甚だ疑問でしたが、毎朝飲んでいるコーヒーの延長線だと納得することにしました。
 やかんに水を張り、火にかけます。お湯が沸くまでの間、伸一は顔を洗い歯を磨きました。いつもより少しだけ念入りに磨きました。口を濯ぎ終わるころ、ちょうど良くやかんが鳴きます。火を止め、インスタントコーヒーの粉が入ったマグカップにお湯を注ぐと、たちまち台所に香ばしい匂いが充満します。
 伸一がマグカップを部屋に運ぼうとすると、制服を着た優が遣り戸を開けて出てきました。
「おっ、コーヒーじゃないっすか。気が利くね」
「ああ、いま部屋に持ってくから」
「ちょいまち。波子まだ着替え中。なかなか寝起き悪いみたいで、さっきやっと動き出したんだ」
 そう言われて伸一はマグカップを調理台に置きました。
「飲んでいい?」
 優が伸一に聞きます。
「ん? ああ、どうぞ」
「わーい。いただきます」
 伸一もコーヒーを飲むことにしました。二人は並んでマグカップに口をつけます。
「波子のことなんだけどさ」
 優が横目で伸一を見ました。
「なに?」
「あの子、学校には行かせないほうが良いよね。ほら、家から連絡とか……」
「ああ、そうだな。しばらく俺んちに居るほうが良いだろうな」
「だよね、波子にもそういった」
 そうか、と伸一が言おうとしたとき、外から大きなエンジン音が聞こえました。太鼓をいくつも同時に打ち鳴らしているような爆音です。
「うわ。うるさ。こんな朝早くに」
 伸一はその音に聞き覚えがありました。伸一がマグカップを置き玄関に向かいます。
「え? だれ? 三島の知り合い?」
 エンジン音がぴたりと止みました。
 伸一はドアに向かったまま、平らな声で言います。
「俺の保護者」
 その伸一の発言に優は霞がかった違和感を覚えましたが、それがなぜか考える間もなく玄関のチャイムが鳴りました。伸一は魚眼レンズで外を確認してから、一度ため息をつき鍵を解除し、ゆっくりドアを開けました。
 そこには朝日を背に浴びた男が立っていました。優からはその男が影でしか確認できません。
「よっ、伸一。元気してるか?」
「はい、相変わらず……ってわけじゃないですけど」
 男が家に入り、優を見つけました。
 身長は伸一より十センチ以上高く、袖を捲り上げたシャツからは筋肉がはっきりと乗っている腕が見えます。胴と足のバランスが日本人離れして美しく、彫りの深い整った顔には無精ひげが生えていました。その男を、優は美しいと思いました。彼女は男性にそのような気持ちを抱くのは初めてでした。
「ん? あの子は?」
 低く張りのある声で問います。
「え、ああ、友達ですよ、友達。なぁ刈羽」
 伸一が優を振り向きました。
「え、あ。うん。ともだち、です」
 優は男に会釈しました。
「やぁ、彼女かな?」
「えっ、や、あたしはそういうんじゃ」
「うんうん。恥ずかしがらなくても良いんだ。いやー伸一もやるようになったね、こんな美人を」
 伸一は男を見上げて、
「いやもうほんと違うんで」
 と思ったことをそのまま言いました。その否定ぶりには優も若干驚きました。そんなに嫌か!
「えーっと」
 伸一が優を見て言います。
「この人は俺の保護者の石地万代(いしじばんだい)さん」
「よろしくね、なんて呼べばいいのかな?」
 優はまだ自分がマグカップを持ったままだったことに気づき、慌ててそれをおきました。
「刈羽優です。名前でも苗字でも、てきとーに」
「……刈羽?」
 石地が優に確認しました。優は「ええ、刈羽ですけど」と返します。
「そっか、よろしく優ちゃん。ところで伸一」
 伸一は石地を見上げました。
「あと一人、誰が居るのかな?」
「え……いや、俺と刈羽の二人ですけど?」
 伸一と優は理由のわからない焦燥感にかられます。
「おいおい。サイズの違うローファーが二足あって一人って事はないだろ。それともなにか、ついに伸一は女装の趣味に目覚めたのか。そしたら写真屋でバイトしろよ、ウェディングドレス着た写真を店頭に飾るんだ」
「……俺はサッカーしませんよ」
 石地は笑いました。
「まぁいいさ。ちょっとお邪魔するよ」
 伸一の了解を得ることなく石地は家に上がりました。そして制服を着た優の前に立ち、その高い背をかがめ、優の顔をまっすぐ見ました。
「いいね、制服。ちょっと襟が変だけど」

 そういって石地は優の襟に触れ、その形を直しました。

「あ、ありがとうございます」
 優は頬を赤らめました。なんだこの人! いい匂いする!
「石地さん。今日はどうしたんですか? こんな朝早く」
 波子の存在を悟られ、その上部屋に上がりこまれた伸一は若干苛ついて問います。
「あ、忘れてた。伸一、玄関開けてみ。差し入れあるから」
 伸一が玄関を開けると、通路に大きなダンボールが置いてありました。
「あの、これは?」
「差し入れ。この前はウィダーインゼリーで悪かったな。今回はなんとインスタントカレーだぞ」
 伸一がダンボールをあけると、言われた通り大量のインスタントカレーが入っていました。
「石地さん」
「なんだ?」
「俺んち、米ないんですよ?」
「ウィダーインゼリーがあるじゃないか」
「掛けろと?」
「馬鹿いうな、混ぜて食え」



 伸一は諦めてダンボールを家に運び込みます。石地はキッチンに余っていたコーヒーを手に取りました。
「マグカップ三つか。優ちゃん、悪いけど保護者としてもう一人の女子高生を拝見させてもらうよ」
 石地が優の答えを聞かずに遣り戸を開けました。そこには気まずそうに立ち尽くす波子が居て、突然入ってきた石地とその後ろに居る優を見ていました。
「やぁ、俺は伸一の保護者。石地万代。キミは?」
 優の私服に着替えた波子は怯えるように答えました。
「か、柏崎波子です」
 その名前を聞いて、石地は唇をゆがめて笑いました。
「柏崎と刈羽ね」
 石地は言います。優はその台詞を聞いて心拍数を上げました。
「ふたりとも……」
 石地は伸一を見ました。その目は伸一を品定めするようないやらしい目つきでした。
「めっちゃ可愛いなおい!」
 しかしそんな目は一瞬で消え、石地ははちきれんばかりの笑顔で三人を見回します。
「うんうん、とてもいい。女子高生はいいなー。女子校生とは違うからな、女子高生は、なぁ伸一」
 三人はあっけにとられて何もいえませんでした。
「いや、悪い。失礼。年取るとどうも若いのが羨ましくてね」
 コーヒーを一気に飲み干し、石地は笑い声を含んだため息を漏らしました。
「ま。なんか事情があるんだろ。伸一が女たらしこむ度胸を持ってるとは思えないし」
「一言多いんですよ石地さん」
「ヴェスパはぶっ壊れてるし。小さいローファーには血も付いてる。外に隠すみたいに停めてあるステージア、あれは優ちゃんのかな?」
 優は思わず首肯してしまいました。すべて見透かされているのではないか。三人は一様にそう思いました。
「波子ちゃんだけ私服だし、立ち方も妙だ。左足の怪我は酷いのか?」
 言いながら石地は波子の前でかがみました。そして急にズボンの左足をめくり上げました。
「ちょ、あの!」
 波子は焦ります。優は思わず駆け寄りました。
「ちょっと!」
 包帯に触れないように石地が波子の足を眺めます。
「包帯は優ちゃんが?」
「え、いえ、三島が」
「そっか。上出来だな。痛み止めとか飲ませたのか伸一」
 部屋の遣り戸まで来た伸一が
「いえ、俺んち薬とかなくて、買ってくるときも忘れちゃって。消毒とかはしましたけど」
 と言いました。その声は自信なさげでした。
「あそ。あとで鎮痛剤と抗生物質やるから家まで来い。これじゃ膿むぞ」
「……はい」
「ちっとは頼れ、伸一。ヴェスパのウィンカーも直してやる」
 伸一は俯いて何も答えません。優はこの二人の関係を不審に思いました。三島は石地さんの事を保護者と言ったが、だとしたらなぜ三島は保護者である石地さんと一緒に暮らしていないのだろう。高校生を一人暮らしにさせるか?
「あ、ごめんな波子ちゃん。おっさんに足触られたからって訴えないでくれよ?」
 そういって石地が波子のズボンから手を話します。
「う、訴えないですよ」
 石地が微笑み立ち上がりました。
「なぁ伸一。俺はもう仕事行くけど、お前と優ちゃんは学校だろ?」
「ええ。そうですね」
「ま、波子ちゃんはお留守番かなんか知らんが、優ちゃんはどうやって学校行くんだよ。こっから歩いたら何時間かかるか。それにヴェスパのニケツは捕まるぞ」
「あたしは車で行きますよ」
「駐車場のアテはあるのかい?」
 優は少しだけ考えるそぶりをしました。
「ま、適当に。どっか安全圏に停めます」
「キミは結構やんちゃだな」
 石地が笑いました。やんちゃ、と言われて優は恥ずかしくなります。なんだかさっきから子ども扱いされてないか、あたし。
「学校の近くに新都パーキングってのがあるんだがわかるかい?」
 優は考えます。
「あーっと、大体判ります。ちょっと路地入ったところですか?」
「そうそう。そこの13番が俺の契約してる駐車場だから、ま、使うと良いさ」
「え?」
 優は思いもしなかった提言に驚きました。
「いいんですか?」
「ああ。かまわないよ、しばらく使う予定のない場所だから」
 伸一が横から皮肉っぽく言いました。
「金持ちなんだよ、石地さんは」
 石地は笑いました。
 伸一はつまらなそうにしていました。

「じゃ、帰りにでも寄れよ」
 そう言うと石地は伸一の家を後にしました。ドアの向こうから車の大きな排気音が聞こえ、少しずつ遠ざかっていきます。完全に音が聞こえなくなると、伸一は肩を落として投げ捨てるようにたくさん息を吐きました。
「あの人、三島君の保護者なの?」
 波子が左足をかばいながらキッチンに出てきて言います。
「うん。まぁ、いろいろあって。あの人に世話してもらってる」
 伸一は言葉の最後に「あんな人だけどね」と小さく付け足しました。排他するような語調でした。波子と優はそれ以上なにも聞く気にはなれず、一瞬の音の空白を持て余します。
「あーっと」
 優がわざとらしい口調で話を変えました。
「波子、あんた今日はお留守番だけど、私たちは学校に行くのね」
「え、うん。さっき聞いたよ?」
 優はうろたえます。いや言ったけどさ、この重い空気を変えたいじゃない。それは波子には伝わっていませんでした。
「う……。あ、波子、あんた今日のお昼ご飯はどうするの?」
「それならさっき石地さんが大量のレトルトカレーを持ってきてくれたから」
 伸一が床においてあるダンボールを指差しました。
「ルーしかないけど食ってくれ」
 波子がダンボールのふたを開け中身をのぞきました。
「うわ。本当だ、ルーばっかり。インド人みたい」
「いや波子さんインド人もルーだけじゃ食べないと思うよ」
 波子はルーだけかぁ……と呟いていました。伸一がそんな波子を見て、
「今日買ってくるよ、米とか。カレーばっかりじゃ嫌だろ。日本印度化計画じゃあるまいし」
 と提案しました。伸一もカレーのルーだけで食事を取るつもりはないのですが、しかし今までウィダーインゼリーだけで過ごしてきた伸一を波子と優は今ひとつ信用できませんでした。三島伸一という人物は食に無頓着なのではないだろうか。それが波子と優の共通した見解です。
「あ、材料あれば私がなんでも作るよ?」
 そう言ったのは波子です。
「なんかお世話になりっぱなしも悪いから、出来ることならなんでもするよ!」
「波子の料理はおいしいぞー?」
 優が伸一をからかいます。伸一は、それこそ願ってもいない報酬を受け取った気分でした。
「え、まじでか? 柏崎って料理できるのか?」
「うん、ずっと作ってきたからね。」
 そういうことならぜひお願いしよう。伸一はそう思いました。これを自室を拠点とされる対価としても良いくらいでした。
「ああ、頼むよ」
 
 優と伸一は、帰るついでに石地の家に寄り薬を貰ってくることと、スーパーで食材を買ってくることを波子に伝え家を出ました。二人が家を出る際、波子は強烈な不安感を抱き、優の手を掴みたくなりましたが耐えました。それじゃあ私は待ってるから、気をつけてね。それだけを精一杯の笑顔で口にすると、閉じたドアに錠を落とします。優の運転する車の気配が無くなると、波子は部屋の静寂に耳が痛くなりました。
 二人はちゃんと帰ってきてくれるかな。
 波子は部屋で一人、ただじっと待つことにしました。


sage