四 後編 刈羽優


 

 刈羽優は自室のベッドの上で携帯電話を閉じ、大きく息を吐きました。そしてそのまま横たわり、しばらく目を瞑りました。
「助けますとも」
 彼女は自らに語りかけます。
「絶対に、守りますとも」
 人間の決意の標榜などままならないもので、とても脆弱で矮小であることが常ですが、しかし刈羽優のそれは違いました。彼女は柏崎波子を守ると誓っていました。柏崎波子を守るために生きていました。生きるために柏崎波子を守っていました。それが最も真に迫った、彼女の生きている理由でした。
「行くかな」
 そして彼女は立ち上がります。バッグに衣服を詰めて、悪戯のためにサイズの合わない下着も入れて、家を出る前にリビングに居る母親に言いました。
「ああ、お母さん。あたししばらく帰らないから」
 母親は極めて抑揚の無い声で言います。
「そう」
「ん、あと車使うね」
「優」
「なに?」
「事故に気をつけて」
 優は何も言わずに家を出ました。

 玄関を出ると雨はその勢いを弱めていませんでした。優は雨をよけて車庫に入り、日産のステーションワゴンに乗り込みました。ドアを閉めると雨音が遠くなります。優は波子に渡す荷物の入ったバッグを助手席のシートに置き、それから自分の荷物の入ったバッグを助手席の足元に放り投げました。
 エンジンを掛け、優はシートに深く腰掛けます。ガソリンメーターを見るとほぼ満タンでした。優はカーナビを操作して伸一のアパートを探しました。中央病院の先のコンビニの近くね、こんな田舎じゃそうそうアパートなんて無いっつーの。地図でコンビニの近くに細い道を見つけると、優はカーナビの画面を消しました。彼女はナビに頼るのをあまり良しとしていません。どの道をどう通るかは自分で決めた方が気楽だったのです。

 優は人気の少ない道を選んで走りました。雨で視界が悪く思うようにスピードが出せません。いっそ速度規制を完璧に守って行ってしまおうか、そう思い彼女はアクセルを緩めました。細い生活道路に街頭は少なく、ヘッドライトの薄黄色い明かりが雨の路面に反射します。フロントガラスに雨が垂れて景色はゆがんでいました。
 それにしても、と優は考えます。
 あの波子が助けて、ね。うん、そうか、助けてか。じゃー助けなきゃね。
 優は今まで一度も、波子から助けてと言われたことはありませんでした。それどころか、何かを要求されたことも数えるほどしかありません。弁当の箸を忘れたときと、雨が急に降り出し波子が傘を持っていなかったとき。優がすぐに思い出すことができる、波子から頼られた経験はその程度の些細なものでした。しかし今回波子は明確な意思を伝えてきました。実に端的に助けてほしいと、優にそう求めてきたのです。優にはそれが嬉しく、なにより不安でした。波子のためなら優はなんだってする気でした。それが優の生き方でした。その生き方に則って行動する機会が、やっと優に巡ってきたのです。しかし優は波子の放った一言が気がかりでした。おじいちゃんに酷いことをされた。その一言が、なによりも不安でした。
 優が波子のおじいちゃんについて考えようとすると、目の前の大きな交差点の信号が赤色だったので車を止めました。ブレーキを踏みながら優は小さく首を振りました。
 やめやめ、とりあえず波子に会ってからだ。うん、音楽でも聴こうか。
 優がアイポッドにFMトランスミッターを付け、ラジオをチューニングします。交差点だったので特に操作をせず、そのまま曲を再生させました。
 ギターのアルペジオが静かに流れ始めます。
「はは」
 優は笑いました。
「ほんと、クリープだよな」

 歌が始まりました。
 すると、運転席の右横に、右折のための原付が止まります。
 優はなんともなしにその原付を見ました。ホンダのカブでした。カブには老人が乗っていました。
 ギターが大きくヒズミ、二度鳴ります。
 優は老人の顔を見て声を失いました。老人も優の顔を見ていました。信号は、とっくに青でした。
 曲が一際大きくなり、憂鬱なメロディが広がります。
 老人は、優の顔を確かめるかのように、窓ガラスにぴったりと顔を近づけていました。
 老人の鼻息でガラスが曇ります。
 それは、波子のおじいちゃんでした。

「        !」

 おじいちゃんが何か言います。
 優の首筋の血管が拍動にあわせてギュクギュクと動きました。
 嘘でしょ。
 優は思い切りアクセルを踏み込みました。
 エンジンがうなり声を上げ、優の体がシートに吸い寄せられます。濡れたアスファルトで後輪がすこしだけ空転し、一気に前進しました。甲高い排気音と共に景色が高速で後ろに吸い込まれていきます。優はルームミラーを見ました。右折をするはずだったカブが、ウィンカーを明滅させたまま優を追ってくるのが見えました。優は更にアクセルを踏み込もうとしましたが、すでに底まで沈んでいました。速度計が一二〇キロを超えたところでもう一度ルームミラーを見ると、そこにはすでに何も映っていませんでした。
「なに!」
 優はアクセルを離します。
「なんなの!」
 ブレーキを踏み速度を落とすと、優はたまたま進路にあった角を曲がりました。鼓動は未だに平常を取り戻していません。優はオーディオの音量を上げ、大きく深呼吸しました。何度も何度も深呼吸を繰り返しました。まだ追ってくるかもしれない。優は思いつく限りの迂回をし、伸一のアパートを目指しました。
 ああ、もう。最低だ。最低だ!

 優はコンビニの奥にある砂利道を通り、ヴェスパの停まっているアパートを見つけました。道から見えない建物の裏に車を停め、優は波子の携帯電話に発信しました。少しの間電子音が鳴り、間もなく波子の声がします。優はようやく安堵しました。
「あぁ、波子? 今ついたわ」
「え、早いね」
「まぁね、でさ、部屋どこかな」
「一階の二号室だよ」
「うん。待ってて」
 優はエンジンを止めギアをパーキングに合わせ、サイドブレーキを踏み込みました。雨音だけが優に届きます。
「よし、いこう」
 優は平静を装うことにしました。
 平静を装うことは得意でした。



 優が伸一の部屋の呼び鈴を鳴らすと波子が出てきました。
「優ちゃん!」
 波子が優に抱きつきます。優は突然の抱擁に動揺しました。
「おお!! 波子! 家出ムスメ!」
 波子は優にくっついて離れませんでした。ああ、優ちゃんだ! 優ちゃんの匂いだ! 波子は優の胸に何度も顔をすりつけました。優はとても暖かく柔らかく良い匂いでした。
「おいおい。おっぱいすりおろされちゃうよ」
 それでも波子はやめません。優にしがみついて離そうとしませんでした。
「ね、波子」
「うん?」
「上がっていいっすかね」
「あっ、ごめん。そうだね、どうぞどうぞ」
 言うと波子は優の手を握り部屋に招き入れました。優は思います。こんなにくっついてくることなんてなかったのに。よほど不安だったのかな。優は手を強めに握り返しました。
「ところで波子、三島は? あいつ家主なのに出迎えないの?」
「あ、三島君は今ね、シャワー浴びてるの」
 波子の顔が赤くなりました。
「なんで照れてんの」
「え、いや……なんとなく?」
「まぁいいか。ちょうどいいや、パンツとブラ持ってきたから今のうちに着ちゃいなよ」
 そういうと優は不敵に笑いました。
「ありがとう!」
「いやー、今波子ノーパンノーブラか。どうなの、三島とかもうドッキドキなんじゃないの?」
「ばれてないよ!」
「波子がそういうんならそうなんだろうね、波子の頭の中ではね」
 優からバッグを受け取ると、波子はばれてないよ! ともう一度言ってリビングへ入りました。優もそれに続いて入ります。
「おお、男の部屋だ。なんも無いね」
「片付いてるよねー」
 波子がバッグの中身を確認します。女物の服や下着が入っていました。
「服、あたしのじゃちょっと大きいと思ってさ。昔着てたやつ引っ張り出してきたんだ」
「ううん。ありがとう」
「あ、下着はちゃんと上下セットを持ってきたから」
「ありが……」
 波子が固まりました。
「あ、あの、下着も昔のやつ?」
「ううん。バリバリ現役」
 波子がバッグからゆっくりとブラを取り出し、自分の胸にあてました。
 見るからにブカブカです!
「わざと?」
「いや、わざと胸は大きくならないからね」
「私だってわざと小さいわけじゃないんだよ!」
「小さいのは認めんだね」
「小さくないもん!」
 波子は必死でした。小さくない小さくない! なんとか真実を改竄しようと優に必死に訴えかけています。そういうことなら直接触ってやろうじゃないか。そう思い切った優が、波子の控えめでおしとやかでつつましく可憐な胸を両手で鷲づかみにしたその時、三島伸一がタオルで髪を拭きながらリビングへと入ってきました。
「……」
 伸一はがっちり掴まれた波子の胸を凝視しました。
「……!!」
 波子は何も言えません。
「よう三島」
 優は飄々としていました。
「あれ、気まずい感じ?」
 優が波子と伸一を交互に見やります。
 しかし波子と伸一は微動だにしませんでした。
「……喋れや」
「うわあ揉まないで!」
 伸一が大きく嘆息しました。
「よう、刈羽」
「なにがよう、刈羽だ。波子轢きやがって。ちょっと説明してもらうからコーヒーでも淹れなさい」

 伸一が渋々コーヒーを淹れている間、波子は大急ぎでパンツだけ穿きました。優はブラはいいの? と茶化しながら波子の左足の怪我を見ていました。包帯が綺麗に巻かれています。しかし包帯が左足の膝蓋骨から足首までを覆っていたので、優は怪我の範囲が相当広いものだと察しました。
「どう、足は痛むの?」
 パンツを穿いた波子は安心した様子です。
「うん。やっぱ痛いけど、でも包帯巻いたし」
「そっか、まー痛いだろうね。包帯は三島が?」
 優は波子の左足を指差しました。
「そうだよ。消毒とか薬とかも塗ってくれたの」
 そういうと波子は左足を撫で、キッチンにいる伸一を見ました。伸一は三人分のコーヒーを淹れているようで、インスタントの粉末をマグカップに分けていました。
「へぇ……」
 優は伸一を一瞥しました。どこにでもいる平々凡々な高校男子。優は伸一をありふれたクラスメイトのひとかけらとしか認識していませんでした。彼への印象の中で唯一特筆するべき点はヴェスパに乗って登校していることくらいです。
「あ、波子ヴェスパに轢かれたのか。レアだね」
「ねぇ優ちゃん、そのヴェスパっていうのはあのスクーターの名前?」
 波子の発言を受けて優はのけぞりました。
「おおう。波子さん。ヴェスパをそこら辺のスクーターと一緒にしちゃ駄目よ」
「え、え? 違うの?」
「違うも何も別格よ。そもそもミッションだし、超遅いし、超かわいいし……」
 優は波子の呆けた顔に気づきました。
「うん、まぁいいわ。とりあえず形的にはスクーターだしね」
 そこに伸一が入ってきて、
「いやヴェスパをそこら辺のスクーターと一緒にしちゃ駄目だ」
 と言いました。
 すると波子は笑いました。伸一は波子の笑顔の理由が判然としないようで、黙々と三人分のマグカップをテーブルに並べました。
「ありがと三島。じゃ、聞かせてもらおっか。波子の家出とヴェスパ事故の話」



 波子はなかなか切り出せませんでした。どこから話し始めるべきか見当がつきませんでした。思えば事の発端は、四〇度の熱を出した日でした。それ以前を遡っても、波子の記憶にはおじいちゃんの奇行の引き金となるような要素は見つかりません。それはつまり突発的におじいちゃんはおかしくなった事を意味しますが、その荒唐無稽な結論に波子はちっとも納得できていませんでした。
「ごめん、どこから話せばいいのか……」
 波子が申し訳なさそうに俯きました。
「うーん。三島はどこまで知ってるの?」
 優が伸一を見ました。マグカップに口をつけていた伸一は、一度テーブルにそれを置いて答えます。
「そうだな……。柏崎が逃げてる、ってことくらいだな」
「逃げてる?」
 優は訝しそうに伸一の顔を見ました。
「いや、俺もよく知らないんだよ」
 波子が優と伸一の顔を交互に見やります。
「ごめんなさい……」
 優は「大丈夫」といってコーヒーを一口啜りました。
「よし波子。やり方変えよう」
「え?」
「遡って話してみて。今ここでこうやってコーヒーを飲んでいるけど、こんなのほほんとした時間のひとつ前は何をやっていたか」
 優はもう一口飲みました。
「そうやっていけば大体わかるから」
 わかった、そういって波子もコーヒーを啜ります。やはりブラックは苦いだけでした。
「えっと、さっきも言ったけど、足の怪我は三島君に手当てしてもらったの」
 波子は伸一を見ました。
「ああ、俺が轢いたからな」
 波子は笑いました。優が笑い事じゃないんだけどね、と冷やかします。
「えっと、そうだ。バイクに乗ってここまできたんだ。結構遠かったから寒かった」
「三島んちって変なところにあるよね。あたしも来るの大変だった」
 すると伸一が優に、この雨の中どうやってこのアパートまで来たのかと聞きました。
 優は少し迷って、素直に答えます。
「あたしは、まぁ車だよね」
「送ってもらったのか?」
「あー、自分で運転してきた」

 優は途中でおじいちゃんと出会ったことを伏せました。

「運転してきたのか!?」
「まぁね」
 波子が驚いて優を見ます。
「優ちゃん免許あるの?」
「いや、あたしたちまだ車の免許は取れないよ」
「おまえそれって……」
「勝てば負けないんだ理論よ。ばれなきゃ捕まらない。オートマだし、誰にでも運転できるよ」
 波子と伸一は「そういう問題じゃない」とか「勝てば負けないとか強引だ」とか優に言いましたが、今はそんなことどうでもいいでしょ、と一蹴されてしまいました。
「そんで? 仲良くタンデムスタイルする前に轢かれたの?」
「タンデム?」
「ニケツよ」
「あぁ、うん。そう、轢かれたんだ、私」
 優は伸一を見ました。伸一は申し訳なさそうに頭を下げます。
「なんで轢かれたの?」
「こういうと俺の言い訳っぽいけど……」
 伸一が言います。
「雨で視界悪くて、柏崎が急に飛び出してきて」
「いいから。人轢いたんだよ、あんた」
 優は怒気をはらんだ声で言いましたが、すぐに「ごめん」と謝りました。伸一も「いや、いいよ、間違いなく俺の不注意だ」と言ったものの、二人の間には重い沈黙があります。
「え、えっと!」
 波子がわざと明るい声を出します。
「私が飛び出したからね!」
 優はもう一度伸一に謝りました。
「ねぇ、波子。どうして飛び出したりしたの?」
 優はこの質問が核心を突くことになんとなく気づいていたので、努めて優しい口調で波子の答えを促しました。
「あのね……おじいちゃんにね、あの……」
 優と伸一は何も言いません。沈黙は時として本音を聞きだすために有効なのです。
「酷いこと、されて」
「酷いことって?」
 優はすかさず聞きました。
 その後、しばらく誰も何も口にしませんでした。優と伸一はあらゆる想像を巡らせ、何を言われても動揺しないように心を構えます。
「カレーを」
 波子が口を開きました。
「カレーにね、猫が、入ってて」
「なによそれ……」
「だよね、意味わかんないよね」
 優と伸一は互いに目を見合わせました。カレーに猫が入っているとはいったいどういうことだろう。
「意味わかんないんだ。」
 波子がジャージのズボンを握りました。声が震えていました。
「なんかね、死なないとか、いっちゃだめとか、ずっとそんなこと言ってるの」
 おじいちゃんの言っていたこと。それを波子は可能な限り思い出します。いってはいけない、いかないでください、猫を食べると死なない、髪を掴まれて連れて行かれる、月のもので力が弱くなる。思い出せば思い出すほど馬鹿馬鹿しく曖昧模糊としています。
「それでね、私ね、猫のカレーとか食べるの嫌だったから。嫌だって言ったの。そしたらね……」
 優は波子の左頬を見て、「それ?」と問います。
「うん。叩かれた。いっぱい、叩かれたんだ」
 伸一が「最低だ」と呟きます。優もそれに同感でした。
「あと、その、髪も」
 波子が自分の髪を撫でました。優に寒気が走ります。嘘でしょ、そんな、それはあんまりじゃないか。
「ほんとは切られちゃったんだ。ごめんね、嘘ついて」
「……そんなこと気にしないで」
 たまらず優は波子を抱きしめました。
「そっか、そうだったんだ。ごめんね、あたし、気づけなかったんだね」
 小刻みに震える優の声に、波子も目頭が熱くなるのを感じます。波子は優を抱き返しました。優はそれよりずっと強く、波子を抱きしめました。
「切られた日はね」
 優の肩に頭を乗せて波子は語ります。
「風邪引いちゃって、熱がでたの。四十度の。それを言ったら、おじいちゃんが急に、怒って」
 波子はその先も言うことにしました。
「柱に、縛られて、髪切られて、おじいちゃんね、私の髪の毛全部食べたんだ。もうそういうの怖くて、いやだったから、逃げちゃった」
 それから先は誰も何も言いませんでした。リビングには優が鼻水をすする音と、波子の小さな嗚咽だけが聞こえています。伸一は波子に何か言ってあげたかったのですが、しかし今声を出すと間違いなく震えてしまうので、彼はそれを我慢しました。
 三人はそれぞれ、昔を思い出しています。
 三人がそれぞれ、昔を思い出さずにいられませんでした。



 刈羽優は波子を抱きしめながら涙をこらえていました。波子が可哀想で、気づけなかった自分が情けなくて、助けられなかった自分が不甲斐なかったのです。優は自分を責めました。助けるとか護るとか決めておいて、結局あたしは事が起こってから駆けつけただけじゃないか。終わったあとに来る助けにいったい何の意味がある。始まったときに居ない助けにいったい何の意味がある。助けるということは、護るということは、それに専心しなければ意味を成さないじゃないか。潜心して専心して、それでやっと助けられるはずなのに、考えるだけで何もしないなんて、なんて慢心だ。
 優は自らに唾棄し、涙を零さず思索の燃料に変換しました。
「三島」
 優は言います。その目にはもう涙は浮かんでいませんでした。
「あんたんち拠点ね」
「拠点? なんのだよ」
「波子まもるんだよ。保護(まも)って庇護(まも)って防護(まも)るんだ」
 伸一は波子と優の視線を受けてたじろぎます。
「いや、なんで俺んち?」
「一人暮らしじゃん。しかもあんた、波子轢いてるんだよ? これ、人身事故なわけ。任意保険には入ってる? この子怪我させたら」
 優は微笑みました。
「一億円だから」
「はぁ!?」
 あきれ果てる伸一を見て波子が言います。
「あ、いや、さすがにね、困るよねっ! ごめんね、三島君……」
 伸一は波子の目を見ました。大きな瞳が蛍光灯の光を反射しています。
「いや……」
 帰る場所が無いってのもかわいそうだ。そう伸一は知っています。
「かまわないよ」
「ほんとに!?」
 波子が笑顔になりました。伸一は照れました。喜ばれる喜びに、伸一は慣れていません。
「ああ、本当に。でも、あれだぞ、二人っきりに……まずくないか?」
「そ、そっか……確かに」
 波子と伸一は二人とも似たようなことを考えていました。二人暮し。高校生男女の二人暮し。なんとありえない生活でしょうか。これから食事も就寝も一緒なのです。私がごはんとか作るべきなのかな、と波子は考えます。やっぱ俺は柏崎の後に風呂入るべきか、と伸一は考えます。ていうか着替えるときとかお洗濯とか、別々にしてなんて図々しくて言えないよね。波子は焦ります。やべー布団俺用しかねーぞ、てことは今日は一緒に……。伸一はもう波子が一緒の布団に居るところまで考え始めました。
 波子と伸一は頭の中が大変です。
「いやあたしも泊まるけどね」
 そう優が言うと、二人からは妙な間が生まれました。
「あ? あれ、なになに。二人っきりで同棲だぜ、一緒の布団で寝るんだぜ、ってか」
 伸一はあからさまに舌打ちをしました。
「で、波子はあれか。わたしがご飯作るの、おかえりなさいって言うの! ってか」
 波子は大慌てで「そこまでは考えてないよっ」と優を遮ります。
「あんたら男女が二人っきり現象を舐めちゃだめよ。おっと、舐めるってのはベロ的な意味じゃないから」
「お前もう帰れよ」
 伸一が毒づきました。
「だーから。帰らないっつーの」
「優ちゃん、おうちの人何も言わないの?」
「別に?」
「いや、さすがに男の家にとまるっつーのは」
「いいっしょ」
「本当に何にも言われないの?」
 そう波子が問うと、優は肩を落として、心底軽蔑した口調で言います。
「あたしが家を出るとき、しばらく帰らないって言ったら、なんていわれたと思う?」
 冷たい口調で、言います。
「車に気をつけて、だってさ。ほんっと、笑えない」
「そっか……」
 伸一は言います。
「結構、ドライなんだな」
 優は笑いました。
「そうだね、まぁそれよりしばらくお世話になるっつー事で」
 伸一は盛大にため息をつきました。
「はいはい、流されてやるよ。いっきに三人暮らしとか、部屋狭いけど文句言うなよ」
 波子は笑いました。今日一日の出来事をなるべく考えないように、笑いました。
「よっし。波子防衛本部の設立を記念して、三島、腹減ったからごはん」
「おまえ態度でかいな」
 言いながら伸一は立ち上がり、キッチンからダンボールを持ってきて二人の前に置きました。
「俺んちの食料はこれだけだ」
 ダンボールをあけると、溢れんばかりのウィダーインゼリーが詰まっていました。
 優と波子は絶句します。
「ロボかよ三島……」

 三人は黙々とウィダーインゼリーを吸引しました。波子は普段このような食品を口にしないので、目新しさにご満悦の様子です。優は思いきり不貞腐れていましたが、ピンク色のパッケージを三袋も飲み干しました。
「あのさ、俺んち布団がベッドのやつしかないんだよ……」
 優が飲み干して潰れたパッケージを銜えたまま答えます。
「一緒に寝よう」
「まじ!?」
「喜んでんじゃねーよ三島。一緒に寝ような、波子」
「え? でも三島君は?」
 波子はまだパッケージを吸っていました。
「俺は床で寝るとかマジで嫌だからな」
「固い事いうなよ。掛け布団とタオルケットくらいあるだろ? 少なくとも二組は布団があると考えても……」
「ないぞ」
 伸一が布団をめくって言いました。掛け布団の下にはシーツしかありませんでした。
「ないぞ!!」
 優は波子と伸一を見て、すこし考える素振りをしました。
「じゃ、仕方ないね。やむなし。一緒に寝ますか」
「え、え、優ちゃん、本当に?」
「たりめーですよ波子さん。寒いの嫌だし」
 優は銜えたままのパッケージを口から離し、吸引口を伸一に向けました。
「三島あたしの右」
 今度はそれを波子に向けます。
「波子あたしの左」
 そして再び吸引口を噛み、ぶらぶらと上下に振りながら
「あたし真ん中異論は認めない」
 と決め付けました。
「なんて勝手な」
 伸一はそう言いましたが、確かにそれなら波子の左足は誰ともぶつからずに済むことを考え、とっさにそれを考え付いた優を見直しました。優の代わりに伸一が中心でも良いのですが、優は伸一の両脇に女子が居るという構図が気に入らなかったので自分を中心としました。それに伸一はまったく気づいていませんが、もちろん気づく必要はありません。

 まもなく三人はシングルベッドに入りました。そこは高校生三人が一度に寝るにはとても手狭でした。
「せめー」
「文句言うなよ。これ、すげーラッキーな構図なんだよ三島」
 優が右肘で伸一のわき腹をつつくと、伸一は何も言わずに優に背を向けました。
「おっぱい触ったらあんた粉々にするからね」
「うっせ! 寝る!」
 優は鼻で笑いながら、左手で波子の右手を握りました。すると波子も柔らかくその手を握り返します。
「ありがとう、ふたりとも」
 波子は静かにそう言いました。優と伸一は、ただ黙って眼を閉じていました。
 ほんとうにありがとう。
 波子は口に出さずに言いました。

 雨音が不規則に窓を叩き、夜はゆるりと更けていきました。



sage