四 前編 茶番


 
 三島伸一は柏崎波子を乗せて、ひたすらに走りました。信号を全て無視し、一時停止でもブレーキを握らず、人の目もクラクションも雨の冷たさも、何も感じないようにしました。伸一にしがみつきながら、波子は問います。
「あの、どこ行くの?」
 伸一がアクセルグリップを戻し、排気音をすこしだけ小さくして言います。
「俺んち」
 波子はその言葉に少し怖くなりました。
「まぁ大丈夫。とりあえず俺んち」

 伸一の住居は町はずれにある古びたアパートでした。細い市道からさらに脇道へ入り、コンクリートが砂利道に変わるとそのアパートはありました。伸一は波子を気遣いながらヴェスパを停めます。
「一人暮らしなんすよ」
 波子がヴェスパから降ります。鋭い痛みとは裏腹に、左足の出血は治まっていました。
「まじっすか……」
 波子はなんとなく伸一の口調に合わせてみましたが、その声色は恐ろしいほどに枯れていました。
「……まぁ、とりあえず怪我をなんとかしねーと。あがってよ」
 波子は逡巡します。
「や、でも……」
 伸一はわざとらしくため息をつきました。
「でもも何も。もう来ちゃったし」
「……うん。ごめんね」

 波子は生まれて初めて男の部屋に入りました。
 伸一のアパートは玄関を上がるとすぐ右手が台所となっていて、左手にはトイレと風呂のドアが向かい合っています。玄関の正面にはリビングへ繋がる遣り戸があり、リビングは八畳ほどの洋室でした。
「汚くてわりーね」
 伸一は申し訳なさそうに言いながら靴を脱ぎます。
「ううん。や、綺麗だね、片づいてる」
 波子が靴を脱ごうと屈むと、左足に裂けるような痛みが走りました。
「いったぃ……!」
 このとき波子は初めて自分の左足の怪我を見ました。屈んだ拍子に傷口が開いたようで、左足の膝が血を垂らしています。膝の左半分がえぐれていました。所々斑点のように皮膚が残っていました。傷跡が残るかもしれないと波子は憂います。
「大丈夫か?」
「うん、けど、あの」
「なに?」
「ちょっと靴脱ぐの手伝って?」
 伸一が頷くのを見て波子は玄関に腰を下ろしました。すると伸一は波子の靴をゆっくりと脱がせました。波子は驚きます。ふらふらするから支えてもらおうと思ったのに! 波子は恥ずかしくなりました。
「よし、俺の肩に掴まって」
「うん」
「そんで立つ」
 波子は伸一に引き上げられるように立たされました。またぞろ左足に痛みがありましたが、波子は唇を噛んで我慢しました。
 伸一は波子よりも背が高く、彼は背中を丸めて波子を支えました。
 二人の濡れた制服を通して、お互いの体温が伝わります。
「待った、そうだ、とりあえず風呂入れよ柏崎」
「え? いやでも……」
「でも……とかいいから。風呂入って、しみるだろうけど傷口ちょっと洗って、あとびしょ濡れなんだから暖まって……」
 波子は滔々と話す伸一を見ます。
「……んで、その間に包帯とか買って、来ますので」
 敬語でした。
「……来ますので?」
 波子がのぞき込むように伸一を見ました。波子の目に伸一の顔が映ります。その顔は波子からしてみれば一般的な男性の顔つきでした。すこし痩せていて骨を感じさせるところはありますが、健康的な男性でした。
「待ってて」
 伸一は急に恥ずかしくなりました。
「ま、まぁほら、安心? つーのかね」
「うん?」
「とりあえず、俺んちは大丈夫だから。待ってて」
「あ、はい……待ってます」
 波子も急に恥ずかしくなりました。
「うん、よし、じゃータオルは脱衣所に置いておくから、風邪引かないうちに、な」
 波子は脱衣所へ案内され、伸一は買い物に行くからと部屋を出ました。鍵が落ちる音を聞いてから波子は脱衣所へ向かいます。脱衣所には洗面台と洗濯機があり、洗濯機の脇に洗濯かごが置いてありました。そのかごは小さく、波子は伸一が本当に一人で暮らしているのだな、と思いました。それはどこか寂しそうな境遇だと感じましたが、しかし波子はそれ以上考えないことにしました。

 脱衣所にある洗面台に映る自分を見た波子は絶句しました。やばい、これ、ちょっと泣きすぎたのかな、うわ、目とか超腫れてる! ていうか髪! 束になってるワカメみたい! お風呂借りられてよかった!
 波子は雨でそぼたれた制服と下着を、脱衣所にある洗濯かごに丁寧に畳んで入れました。浴室は綺麗に掃除されていました。シャンプーと石けんと身体を洗うタオルと剃刀しか置いていないシンプルな浴室でしたが、波子には十分でした。
 熱めのシャワーを身体にかけると左足に酷くしみましたが、その痛みも耐えていると次第に薄らぎ、波子はようやく嘆息することができました。初対面の人間の部屋でシャワーを浴びる経験など、波子には当然ありませんでしたので、嘆息の割に安息できているとは言いがたいのもまた事実です。
 ものすごい状況だな、と波子は思いました。
 うん、状況を整理しよう。私は、おじいちゃんから、逃げたんだ。それで三島君のバイクに轢かれて、で、怪我した。警察とか病院とかはまずいから、三島君のバイクに乗って、三島君の家まで来たんだよね。バイクって寒いんだなぁ。しかも超信号無視。夜だからいいのかな、駄目だよね。夜か、今何時かな。
 波子は脱線し始めました。
 てか明日からどうしよう……! 学校とか、行けないよね。せっかく優ちゃんと一緒のクラスなのに。あ、優ちゃんだ、優ちゃんに電話しよう! でも何て言おうかな……。家出しましたーとか、通用するかな。怒られるかなぁ。ケータイ壊れてないかな。あ、後で制服のポケットから出さなきゃ。うん、あれ? 私、服無くない? うわ、やば、どうしよう!
 波子は完全に脱線しました。
「パンツもない!」
 大ピンチでした!

 風呂から出たところで穿くパンツはないのですが、かといって他人の浴室を占拠し続けるわけにもいかないと思い、波子はとりあえず浴室から出ました。伸一が渡した黄色のバスタオルで全身を拭きます。左足からの出血はいい加減止んでいるようでしたが、血液の代わりに今度は透明の体液が傷口の肉を覆っていました。傷口を拭けばタオルを汚してしまう。波子は傷口の周りだけを丁寧にタオルで撫でました。それから目の前の洗面台に映る体を確認します。バイクに轢かれて道路に叩きつけられた割には怪我は少ないようです。左足の怪我の生々しさに波子は辟易していましたが、それを凌ぐ頬の内出血を見るとまた涙が出そうになりました。波子は左頬を指でなぞりました。頬というより頬骨の周辺が腫れていました。
 波子は鏡から目を逸らします。見ていられませんでした。おじいちゃんの顔や猫のカレーライスなどが、その頬から飛び出してくるように感じていたのです。だから波子は思考を無理やり捻じ曲げました。
「うん、よし、とりあえず服だよね」
 波子は洗濯かごに入れた制服を持ってみました。降りしきる雨をずっしりと吸収していて冷たく、とても着れたものではありません。
 困ったな、ほんとに着れないよ。波子が制服をひっくり返したり振ってみたりしていると、ポケットに入れっぱなしだった携帯電話を思い出しました。取り出すと青い携帯電話は濡れていましたが、ボタンを押すときちんと画面に光が点り、機能の無事を確認することができました。よかった、絶対壊れてると思った。波子は安堵します。これで優ちゃんに電話を掛けられる。ああ、そうだ、そしたら優ちゃんに服を借りよう。
 波子が携帯電話の電話帳から刈羽優の名前を見つけます。
 しかし通話開始のボタンを押下することはできませんでした。
「おーい、ただいまー……」
 ドアが開く音と同時に伸一の声が聞こえました。波子は焦ります。
 服着てない!
「柏崎、あがったか?」
 伸一が脱衣所の扉をノックしました。
「あ、あがったよ! お風呂ありがとう!」
 波子は高速で体にタオルを巻きつけました。出し巻き卵のようでした。
「ああ、いいよ。てかさ、お前さ」
 伸一は言います。
「服、無くね?」
「なっ……」
「無ぇよな?」
「うん……あ、いや、濡れてるけど着れるっちゃ着れるし」
 波子は本当は濡れた服など着たくありませんでしたが、どうしても服が無いと言うのを恥ずかしく思ってしまいました。
「おいおい」
 伸一が笑います。波子にはドア越しで見えませんでしたが、しかし彼の笑い声は波子の緊張を緩めました。
「お前、さすがにそりゃ無理だろ。風邪ひくって」
「うん、……服無いの」
「だよな。えーっと、ジャージとシャツでいいか? でかいだろうけど、俺の貸すよ」
 伸一の提案に波子は急に申し訳なくなりました。私が飛び出したせいで事故みたいになっちゃうし、急に家に押しかけて、しかもお風呂まで借りちゃって、そのうえ服も借りるなんて!
「ん? 遠慮してる?」
「うん、さすがに……」
「いいから。じゃー乾くまで着てろよ」
 そう言うと伸一は波子の返事を待たずにその場を離れました。波子はまだ遠慮していましたが、しかし実際の問題として、お風呂を借りたのに濡れた制服で体を冷やすのはどうかしているとも思っているようです。
 すぐに伸一は戻ってきました。
「じゃ、ドアの前に置いておくから。俺部屋に行ってるわ」
 それだけ言うと伸一はリビングへ移動しました。
 波子は恐る恐る脱衣所のドアを開け、頭だけ出して誰もいないことを確かめ、そしてようやく服を拾いました。黒い生地の両脇に二本の白い線が入ったジャージのズボンと、キャラクターがプリントされた薄桃色の長袖のシャツでした。そのシャツには葱のようなものを背負った鳥のようなものが描かれていました。独特なぐにゃぐにゃ歪んだ線で描かれていて、葱の青葉の部分が数字の「6」の形を表しているようです。波子はちょっと可愛いなこの子と思い微笑みました。
「でもなぁ」
 波子は困ります。下着が上下とも無いのです。下着を着けずに服を着るのか。波子には抵抗感がありましたが、かといって着ないままのほうがよほど危ないので、ここは意を決して着てみることにしました。ズボンは明らかにサイズが合っていない事以外はあまり気になりませんでした。多少荒っぽい布の感触が慣れませんが、それでも裾を捲くれば見た目は普通です。サイズが大きく余裕があるので、左足の傷にはあまり触れませんでした。次にシャツを着てみました。サイズはMとあったのですが波子の体には少しだけ大きいようです。波子は鏡で服だけを見ました。
「……!!」
 波子は慌てました。
 やばい、これ、だめだこれ、やばいやばい!
「み、三島君!」
 波子はドア越しに伸一を呼びました。慌てて伸一が飛び出してきます。
「どうした!?」
 波子はドアを開けて、顔を真っ赤にして、とても小さな声で言います。
「あの、ごめん、シャツもう一枚ないかな……?」
「シャツ? あるけど、あ、一枚じゃ寒いか?」
「うん? そう、そうそう! ちょっと寒くて、できたらもうちょっと生地が厚めのやつがいいな!」
「そっか、じゃちょっと待ってて」
 
 波子は伸一が持ってきたシャツを肌の上に着て、その上にキャラクターが描かれたシャツを着ました。波子はその鳥のようなキャラクターを少し気に入っていました。
 波子は鏡を確認します。
 うん、よし、大丈夫。これで安心。
 早く優ちゃんに服を持ってきてもらおう。
 波子は脱衣所を後にし、リビングの遣り戸を開けました。
 

 伸一の部屋はとてもシンプルなものでした。遣り戸を開けると部屋の奥に大きめの窓があり、部屋の奥から順にシングルベッド、ガラステーブルがあります。波子から見て右側にブラウン管の小さなテレビがあり、左側には白いソファが置いてあり伸一が座っていました。八畳の部屋はそれだけの家具ではとても広く感じ、波子は自分の部屋と見比べて羨ましくなりました。戻れるはずも無い自室ですが波子は恋しくなりました。
「やっぱでかいな、服」
 伸一も服を着替えていました。波子と同じジャージのズボンと半袖のシャツです。シャツからのぞく二の腕は男性らしく筋肉を感じさせました。
「うん、でもありがとう。ごめんね、いろいろ」
 伸一は波子の頬を見て少しだけ黙りました。
「座ってろよ、ソファ。コーヒー淹れるから」
 伸一がソファから立ち、波子が入れ替わって座りました。皮製の白いソファは少しだけ硬く座り心地のよいものでした。リビングの遣り戸は開け放されたままで、ソファに座る波子からキッチンに向かう伸一の後姿が見えました。波子は猫を調理するおじいちゃんの姿を思い出してしまいそうになったので、かぶりを振ってそれを誤魔化します。
「なぁ、柏崎」
 キッチンから伸一が言います。
「足どーよ、痛むか?」
「あ、うん。けっこー痛いけど全然大丈夫だよ!」
「なんだそれ、痛いから大丈夫じゃないだろ」
 コーヒーの香りがリビングに流れてきました。
「うん……でも血は止まったし、ごめんね、私のせいで、その、いろいろ……」
 伸一がマグカップを二つ持ってきて、ソファの前のガラステーブルに置き、テーブルを挟んで波子の正面に座ります。
「轢いたのは俺だし、これ、人身事故だからな、俺のほうこそごめん」
「いやいや! 違うよ、私が」
 私がおじいちゃんから逃げてたからだよ。波子は言えませんでした。
 リビングにコーヒーの香りと静寂が漂います。
「コーヒー、インスタントだけど、よかったら飲んで」
 波子が頷くと、二人は黙々とコーヒーを飲みました。波子はコーヒーにはたっぷりの砂糖と牛乳を入れるのですが、伸一がブラックのまま飲むのを見たら砂糖も牛乳も要求できなくなりました。ブラックのインスタントコーヒーはとても苦く、とても暖かく、波子の空っぽの腹に熱を与えてくれました。
「なぁ柏崎、ちょっと足見せて」
「え!?」
「え、いやほら、怪我してるところ」
 あ、ああ、そうだよね、怪我してるもんね。波子は早まる心臓を無視できません。
「俺さ、包帯とか薬とかとりあえず買ってきたから」
「うん、なんか本当にありがとう、ございます」
「敬語て」
「いやほら、私たちって実は初対面じゃないですか」
「ああ、まぁな。俺は今日のお前の自己紹介で知ってたけど」
 再び静寂が訪れました。伸一は落ち着かない様子で、波子を見たりコーヒーを飲んだりしています。
 静かな部屋に雨音とコーヒーを啜る音だけが聞こえました。
「よし」
 伸一は言います。
「足、ちゃんと手当てしよう」
「う、うん。どうすればいい?」
「えっと、そうだな、とりあえず怪我してるほうの足だけ捲ってもらえるか?」
 波子はジャージの左足をめくりました。赤黒い肉と微量の血が溶けた体液が見えました。
「……ひどいな」
「うん、でも、大丈夫だよ」
 大丈夫ではありませんでした。この怪我はとても痛く、跡が残るかもしれない不安もあります。波子は嘘をつきました。
「とりあえず消毒して、えーっと傷に塗る軟膏? みたいなの買ったから」
「うん」
「で、ガーゼ当てて、包帯巻いて……って風にやる。大丈夫か?」
 波子が首肯すると、伸一は作業を開始しました。
 痛いのは消毒液を傷口全体に流すときだけでした。その時だけでしたが、それがとても痛くて、波子の目じりには涙の粒がたまりました。私は本当に泣き虫だ。波子は自嘲します。きっとこんなに泣き虫で、弱っちいから、おじいちゃんは怒ったんだ。
「痛いか?」
 波子は首を振りました。伸一は波子が唇を噛み締めているのが見えたので、その言葉は信じませんでした。
 できるだけ優しく、痛くないように、傷口に触れないように。伸一はそう思って手当てをしています。
「なぁ、これから、どうするつもりだ?」
 伸一が包帯を巻きながら問いました。
「え、これから?」
 これから、どうしろと言うのだろう。
 家にも帰れない上に、学校には行かないほうがいい状況で、波子には行くところもすることも思いつきませんでした。
「そう、これから。」
 勢いに任せて、感情に引きずられて、無計画に無配慮に家を出た波子に、することなどありませんでした。しかしそれでも、波子には会いたい人がいました。
「優ちゃんに、連絡しようとおもうの」
「ん? 優ちゃん?」
 伸一は思い浮かばないといった様子です。
「あ、同じクラスの刈羽優ちゃん」
「えーっと……あれか、あの背の高い」
「そうそう、私ね、優ちゃんと仲良いから」
 他に仲良しなど居ないので。
「だから、その、服とか」
「そっか」
 伸一は器用に包帯を結んでいました。
 できあがり、そういうと伸一はコーヒーを啜り、波子の目を見ずに言いました。
「なぁ、柏崎、おまえ虐待されてんのか」
 波子は手当てされた左足を見ます。傷口が見えなくなるだけで、なんて見栄えが良いんだろう。
 そして波子は素直な気持ちを言葉にしました。
「わかんないんだ」
 二人は黙りました。お互いが次の言葉を捜していました。そして二人には出すべき言葉が思いつきませんでした。
「あ、私、電話するね。優ちゃんに」
 波子は逃げるように携帯電話を操作しました。

 電話の先に居る刈羽優は状況を飲み込めていませんでした。
「はぁ!? 波子、え!? 轢かれたの!? つーか家出!? 不良!? グレたの!?」
 その声は電話口から離れた伸一にも聞こえるほどの大きさでした。
「優ちゃん、ちょっと落ち着いて」
「落ち着けないから! 波子あんたむしろなんで落ち着いてんの! なにその余裕! 怪我はどうなの!?」
「怪我は、うん大丈夫。三島君に手当てしてもらったの」
「三島に轢かれて三島に手当てされたの!? なにプレイ!? 罰ゲーム!?」
「ぷ、ぷれいとか言わないで!」
「てことは今三島と居るの?」
「うん、三島君の家」
「はぁ!?」
 ひときわ大きな声でした。伸一は罰が悪そうにしています。
「うわー、波子さんそれ。なにそれ、どういうことなの」
「どうっていうか……あのね、」
 波子の声が暗くなります。
「……なによ?」
「ちょっと、おじいちゃんに……酷いことされて。それで、助けてもらったの」
 優は何も言いませんでした。
「で、私ね、ちょっと家に帰れないから」
 波子はなかなか言い出せません。
 すると優が、その沈黙を察して切り出しました。
「うん、そっか、それで?」
 波子は、ちゃんと言わなきゃと思いました。
 波子は言います。初めて言います。

「助けて……優ちゃん」

 波子の耳に優の声が響きました。
「待ってな。助けてあげる」
「優ちゃん……」
「で、どーせアレでしょ? 着替えもお泊りセットも無いんでしょ?」
「あ、そ、そうなの! ないの!」
 電話の先で優が笑っています。それは波子にも伝わり、自然と波子の頬が和らぎました。
「パンツは?」
 波子は伸一を気にして、小さな声で言いました。
「無いの。今もなんだけど」
「……裸?」
「ちが! 借りてるの、だから、お願い!」
 波子が伸一を見ると、伸一は顔を赤くして目を逸らしました。丸聞こえでした。
 波子も顔を真っ赤にして続けます。
「ちゃんと洗って返すから」
「いやまぁ下はいいけどね。ただねー、ブラがねー、サイズがねー」
「ああ! そっか!」
 大誤算でした。
「買って行ってあげるよ。サイズは?」
「い、い、いやだ! 言いたくない!」
「じゃあAね」
「ちがうよ! もうちょっとあるよ!」
 波子はもう泣きそうです。
「あー、はいはい、泣かないで。とりあえず行くから。三島に変わって?」
「え?」
「道順とか聞かなきゃ」
 波子は伸一に携帯電話を手渡しました。伸一は伺うように言います。
「……もしもし?」
「おいこら三島あんた波子轢いたって?」
「……すいません」
「あとで覚悟しとくように。で、ちょっとシバきに行くからあんたんち教えなさい」
「はい、中央病院の先のコンビニの奥にある砂利道の脇のボロいアパートです」
 波子は思いました。アバウトだ。
「よっし分かった。歯ぁ食いしばって待ってろ」
 そういうと優は電話を切ります。伸一は何も聞こえなくなった携帯電話を波子に返しました。
「なぁ、柏崎」
「うん?」
「おれ刈羽怖い」
 波子は笑いました。伸一はビビっていました。


sage