三 二人乗り


 柏崎波子が家を抜け出してから三島伸一のヴェスパに交差点で衝突するまでは、時間にすると五分もありませんでしたが、しかしその五分は波子にとって今までの人生よりも長く険しいものでした。その間、波子はひたすらおじいちゃんについて考えていました。何故おじいちゃんは変わってしまったのか。おじいちゃんは何をしようとしていたのか。猫が持つ力とは、いったいなんの冗談だろうか。波子の思考はスプーンで掻き回されたプリンのようにままならないものでした。波子はなぜだか悲しくて、怖くて、そして少し馬鹿馬鹿しくて、全力疾走しながら泣いていました。すると灰色だった空からは大粒の雨が落ちてきたので、もういっそこの雨に溶けて流れて消えてしまいたいと、波子はそう思いました。実際、波子は溶けているような気持ちでした。怖くて怖くて、心が体の外へ流れ出たような気持ちでした。頬を伝ったものが、心なのか雨なのか、液体になった気で居る波子には判然としません。
 しかし波子はれっきとした固体でした。固体である波子の右脇腹に、ヴェスパの硬く艶のあるスチール・モノコックボディが激突したのですから、当然波子は吹き飛ばされコンクリートに叩きつけられました。
 水だったら良かったのに。
 コンクリートで皮膚が削られていくのを感じながら、波子はほんの一瞬本気でそう思っていました。

 波子はスズメバチの羽音に似たヴェスパの排気音を、濡れたコンクリートの上で横たわりながら聞いていました。
 甘い匂いがする。波子はその匂いをどこで知ったか思い出せません。
 ああ、甘い匂い、これ、なんだっけ。 
 まだ波子は痛みを見つけていませんでした。ただ寒いと感じていました。波子の左足は広い範囲で削れていました。そこから血が溢れ出し雨と混じり合っています。
 波子は垂れ流すように思考しています。
 ああ寒いな。とても、寒いな。雨だ。傘ないや。もう濡れてるかな。濡れてるから寒いんだ。傘持ってくればよかったな。優ちゃん。優ちゃん傘無いの心配してくれたな。優ちゃん。
 刈羽優の顔を思い浮かべると、波子はまた泣きました。今日一日で何度泣いているのだろう。波子は自分がとんだ泣き虫だったことを思い知りました。
 優ちゃんに会いたい。
 波子は願います。刈羽優に、会いたい。おじいちゃんから、逃げたい。
 優ちゃん! ねえ! 優ちゃん!
「あの! 大丈夫ですか!?」
 ああ! 優ちゃんだ!
 波子は声が出ませんでした。
「ちょっと、まじかよ……」
 優ちゃん! 優ちゃん!
 波子は声が出ませんでした。
「あれ……?」
 ここにきてようやく、波子に痛みが戻ってきます。
 左足からトロトロ垂れてゆく血が、コンクリートに溶けていました。
「おまえ……、柏崎? まじ?」
 優ちゃんじゃない。
 波子には声の主が判然としませんでした。
「え、誰、ですか?」
 なんだか緊張感に欠けるやりとりだな、私、これ、轢かれたんだよね。
 雨の冷たさとヴェスパの低いエンジン音が波子を冷静にさせていました。
「あ、おれ、同じクラスの」
 波子は気付きました。
 この匂い、さっきの、バイクの匂いだ。
「三島伸一、っていうか、ごめん! 轢いた!」
「うん……」
 波子は言います。
「轢かれた」
「いや、うん、轢いたからな。じゃなくて!」
 伸一は波子の削れた左足を見ました。膝の左側部から皮膚が無くなっていました。
「くそ、やばいな、とりあえず救急車呼ぼう、あれ、警察先だっけ?」
 まずい、波子は焦ります。救急車を呼ばれたら、学生の波子の保護者であるおじいちゃんにも連絡がいってしまう。それは家を逃げ出した波子にとって、避けなければならない結末でした。
「三島君、わたし、大丈夫だから」
「いやいや、全然大丈夫じゃねぇよ」
 三島伸一も焦っていました。
「俺、ほら、警察とかにも、いや、家族か? 連絡を……」
 家族という台詞に、波子は飛び起きました。体中を襲う激痛に波子の顔が歪みます。
「だめ! だめ! 家には連絡しちゃだめ!」
「え……? おま、何言って」
「わ、わたし、逃げなきゃなの!」
 言いながら波子は立ち上がります。波子の左足から血が流れ出しました。
「いや、逃げるって誰から。つーか足やべーよ!」
 波子は伸一の疑問を無視し、今にも崩れ落ちそうな足取りで歩き始めました。
「おい! ちょっと待てって!」
 伸一の声もむなしく、波子は歩き始めました。歩む先には当て所などありませんが、それでも波子は柏崎家から離れるべく、おじいちゃんから逃れるべく、歩き始めました。
 伸一は倒れていたヴェスパを起こし、エンジンを止めて波子の後を追います。ハンドル・グリップの終わりについているウィンカーが砕け散っていることに伸一は舌打ちしました。波子と衝突したとき、伸一はヴェスパと一緒にコンクリートに投げ出されていました。しかし伸一にはそれほどの怪我が無く、むき出しだった両手を擦り剥いた程度でした。
「おいおい! なぁ! 柏崎!」
 波子は血を垂れ流しながら歩きます。
「……大丈夫」
「いや止まれよ!」
 伸一が波子の腕をつかみました。ヴェスパの重さが伸一にのしかかります。
「逃げるって、なんだよ。それに、怪我、お前それやばいぞ?」
「いいから、大丈夫だから」
「だめだろ、血が出てるし。あとやっぱ家に連絡……」
「いいからっ!」
 波子は怒鳴りました。自分はこんな大きな声が出るのかとどこかで驚いていました。
「いやだ! 家はやだ! おじいちゃんに」
 波子は伸一の手を振りほどきました。
「おじいちゃんに!」
 波子は、できれば人生でこんな事言いたくありませんでした。
「おじいちゃんに殺されちゃう」
 二人は黙りました。
 伸一はこのとき自分の心の中に、捻れた思い出を見つけました。
 それはとても愛情に欠け、笑顔に乏しく、思い出すに値しない、しかし思い出さずにはおけない過去でした。
 世界とはなんとくだらないのだろう。彼はそう確認しました。
 そして三島伸一は言います。
「お前も、家の人にやられたのか」
 波子は伸一を見ました。波子の目に映る伸一は、雨で濡れているだけで無表情でした。
「よし、わかった。だいたいわかった」
「え? ……三島君?」
「乗れよ、うしろ。逃げるんだろ?」
 伸一はヴェスパのシートに跨り、右足でキック・スターターを踏み込みました。ゆるゆるとヴェスパにエンジンがかかり、弱々しいヘッドライトの明かりが雨に浮かびました。
 波子に迷いはありませんでした。左足は焼けるように熱く、呼吸も上手くできていませんでしたが、頭はずっと冴えていました。
 逃げよう、逃げよう! おじいちゃんから、逃げよう!
 
 ヴェスパが走り出しました。
 波子は伸一にしがみつきます。
 ヴェスパのギアが二速に入りました。
 波子は俯きます。
 ギアが三速に入りました。
 波子は声を殺しました。
 ギアが四速に入ると、やっぱり波子は、堪えきれず泣いてしまいました。

 誰も居なくなった部屋で、おじいちゃんは決めました。
 もう誰とも離れたくない。
 だから、自分と一つにしてしまおう。
 それか、波子と一つにしてもらおう。

 誰も居なくなった部屋で、おじいちゃんは決めました。
 食べてもらうか、食べてしまおうと。


sage