二 猫カレー


 波子が帰宅し玄関を開けたとき、真っ先に感じた違和感が匂いでした。とてもくさいのです。それはどこか潮の匂いのようでもあり、錆びたような匂いでもあり、そして何より糞の匂いでした。徹底した悪臭でした。鼻腔を通過した臭気を喉が押し返します。肺に入れまいと、身体に取り込むまいと、波子の身体は呼吸を拒みました。
 波子は小さな声で「ただいま」と言ってみました。しばらくすると、家のどこかから消え入りそうな声で「おかえり」とおじいちゃんの声がしました。波子の小さな胸が激しく脈打ち、呼吸が速まりました。息を吸うたび嘔吐しそうになります。おじいちゃんの声がする。たったそれだけのことが、波子を動揺させました。
 波子は靴を脱ぎ自室へ隠れようと考えました。これからはずっと、おじいちゃんと顔を合わせるのは最小限にとどめようと決めていました。その為に最も賢いのは部屋に逃げ込むことだと波子は思いました。波子の部屋は二階にあります。六畳の小さな部屋です。しかしその小さな部屋は、波子にとって不可侵の聖域なのです。波子にとって柏崎家は自室以外が危険な区域だったのです。
 波子は階段を上ろうとしました。匂いのことも、おじいちゃんのことも、全部忘れて逃げようとしました。
 しかしそれは叶いません。
「なみちゃん、来なさい」
 波子はおじいちゃんには逆らえませんでした。何故って逆らえば、また酷い目に遭うかも知れないのですから。

 おじいちゃんは台所にいました。どうやら匂いの発生源は台所だったようで、シンクに向かうおじいちゃんの後ろ姿を見る波子の目は、匂いにやられて急速に乾いていきます。
 波子からは、おじいちゃんが何をしているか見えませんでした。
「なみちゃん」
 波子からは、おじいちゃんが何をしているか、見えませんでした。
「なみちゃん、疲れたろ。今日はな、おじいちゃんがカレーを作ってあげるっけ」
 カレーを作るときはこんな匂いしないよ。波子は言えませんでした。
 おじいちゃんは包丁を使って何かを切り分けているようでした。カレーの材料だろうか。波子はおじいちゃんの手元が見えるよう、一歩シンクに近づきました。おじいちゃんは肉を切り分けていました。それは真っ赤な肉でした。まな板の上には赤黒い血がたっぷりと溜まっていました。
「それとな、いい肉が手に入ったっけ。もつの煮込みも作ってあるよ」
 波子の背中には脂汗が滲んでいました。なにかとても嫌な気分だったのです。肉を切り分けるおじいちゃんの顔は、考えるのを辞めているかのように無表情でした。波子はとても恐ろしくなりました。おじいちゃん、何を切っているの、おじいちゃん。
 そして波子は見つけてしまいました。
 流し台の三角コーナーに、肉球のついた動物の足のようなものが捨ててありました。
 波子はもうわけがわかりません。頭部の毛穴という毛穴が開いてしまったようでした。髪の毛が逆立つようでした。
「ね、ねぇ」
 波子の声は聞き取るのが難しいほどに震えています。
「それ、なに? その肉、な、なに?」
 おじいちゃんは少しだけ間をおきました。波子はそこに幾ばくかの逡巡を見つけました。
「猫ちゃん」
 おじいちゃんはそう言いました。
 波子の頭が揺れます。脳まで血液が回らなくなったようでした。波子の血という血は、すべて足下に溜まったようでした。
「猫ちゃん。おじいちゃん、ちょっと料理下手だすけ、皮とか毛とか入ってるかもしれんけど、おいしいよ」
 おじいちゃんは波子の目を見つめました。
「もつ、作るときな。ちょっと失敗して、はらわたから糞を出すこと忘れてた。くっせーろ」
 おじいちゃんは笑いました。タバコのヤニで黒くなった入れ歯が覗きました。
 波子はくらくらしています。
「ね、猫は。猫は、猫は食べないよ。ってか、食べちゃ、だめだよ」
 おじいちゃんは笑っていた口を閉じました。波子は気付かぬうちに泣いていました。猫を食うなんて!
「なみちゃん」
 おじいちゃんはまた顔から感情を消し去りました。
「猫には強い力があるんだ。なみちゃん、悪いのにやられて熱出たろ。悪いのに負けない力をつけろ」
 波子は「いみわかんないよ」と泣きながら笑っていました。
「いみ、わかんないよぉ」
 波子の幼い頭の中でたくさん繋がっていた何かが、今ひとつひとつ事切れていきます。それはおじいちゃんに対する思い出や、信頼や、愛情といったものでしたが、波子にはただただ何かが壊れていく感覚しか分かりませんでした。とても透明で明確な崩壊でした。はっきりとした、不確かな限界点でした。
「やだ! いやだ! 私食べないから!」
 波子は涙と唾液をまき散らしながら叫びました。
「ぜったいやだ! いみわかんない!」
 おじいちゃんは表情を変えませんでした。
 表情を変えませんでしたが、大きく右手を振り上げました。その手には猫の血で染まった包丁が握られていました。
「や……っ!」
 波子が固まりました。おじいちゃんは嘆息しました。そしてゆっくり、包丁をまな板の上に置きました。
「たべなさい」
 波子はもう限界でした。
「いやだぁ!」
 おじいちゃんはもう一度嘆息し、右手を振り上げ波子の頬を打ちました。波子は目を見開き、おじいちゃんを睨み付けようとしましたが、もう一度平手で打たれたので上手くできませんでした。おじいちゃんは何度も何度も波子を叩きました。波子の左頬が藍色に変色していきました。視界がぼやけ、音が上手く聞こえなくなってきました。波子は崩れ落ちるようにその場に座り込みました。おじいちゃんの平手が空振りして、そこでようやく暴力は止まりました。
 波子はただ泣くばかりでした。
 おじいちゃんは項垂れる波子を引きずり、居間の柱へ縛りました。
 もう波子は身動きが取れません。
 殺されるのではないかと、波子はそれだけを考えていました。

 波子は縛られたまま、居間でひとりぼっちでした。
 おじいちゃんは波子を柱に貼り付けると台所へ戻りました。その際波子に、もうすこしで美味しいカレーになるからそれまで待っていなさい、そう静かに言いました。波子は待つもなにも縛られては待つ以外にないじゃないかと、もう一度声を出して泣きたくなりましたが、そこは涙をこぼさぬように堪えました。
 波子の左頬は藍色に腫れていました。白い頬の内側は破壊されていました。頬の血管がいくつも破れたようです。顔の左半分が痺れて痒くなっているので、波子はなんとか頬を掻けないものかと身をよじりましたが、その姿はただ芋虫のように見えるだけでした。波子は痒くて、痛くて、悔しくて、恐ろしくて、悲しくて、臭くて、気持ち悪くて、猫が可哀想で、自分が哀れで、意味が分からなくて、堪えきれずに泣きました。肩をふるわせて泣きました。涙がたくさん溢れてきました。波子の感情が畳に吸い込まれていきました。
 
 どうしてこんなことになったのだろう。
 いつからおかしくなっていたのだろう。
 そればかりをひたすら考えていました。
 
 波子の目に映ってきた今までのおじいちゃんは、どこにでもいそうな平凡な老人でした。少々寡黙なところもありましたが、とても温厚で面倒見が良く、なにより波子は愛されている自覚がありました。波子の作る料理を美味しいと食べてくれました。なにかが必要になったときは、お小遣いといって少し多めにお金を与えてくれました。たまに甘いケーキを買ってきてくれました。波子はもちろんおじいちゃんを信頼し、好いていました。
 それなのに、今はおじいちゃんが怖い。
 波子は考えます。なぜ、おじいちゃんは、おかしくなったのか。
 波子は考えます。なぜ、おじいちゃんは、私に酷いことをするのか。
 その疑問が頭の中を何度も無意味に往復し、その度に波子は考える気力を失っていきました。まったく理由が思いつかなかったのです。しかし、それでも波子は自分に何かしらの責任があるのではと考えました。自分に非があるのなら、それを謝って許してもらおう。そうすればこんな目に遭わなくてすむのかな。波子はまた涙を零しました。
 考えたくない。怖い。痛い。今の波子には、それしかありません。

 しばらくするとおじいちゃんがカレーライスを持って波子の前に座りました。
 もちろんそのカレーライスには猫の肉が入っています。かといってカレーライスの見た目はとても卑近なものでした。波子はそのカレーライスがいつもと同じ見た目であることに騙されまいと、先程台所で見た捨てられた猫の足を思い出しました。あのカレーには猫が入っている! 猫が! 食べちゃだめだ! 波子は強く言い聞かせました。
 しかしおじいちゃんは、カレーライスをスプーンで掬い、波子の口元に宛いました。
「食べな」
 波子を堅く口を結び、首を振りました。
 いやだ! ぜったいにいやだ!
「おいしいよ」
 そういう問題ではありませんでした。いくら美味しくても猫の肉が入っているのですから。
 誰がそんなもの食べるもんか!
「波子!」
 おじいちゃんが怒鳴りました。
 波子はまた泣きたくなりました。
「いいか。なみちゃん、逝ってはならん。逝ってはならんよ。おじいちゃん分かったんだ。なみちゃんのお父さんとお母さんが、なみちゃんと会いたがっているんだ。だからなみちゃんを連れて行こうとしたんだ」
 おじいちゃんは波子の目を真っ直ぐに見て、一度もまばたきをせずにまくし立てました。
「え……? なに言って」
「この前なみちゃん連れて行かれそうになったろ。身体が熱くなって、なみちゃん、逝ってしまいそうになったろ」
 おじいちゃんはなにを言っているんだろう。私が、いったい何処に行くというのだろう。
 波子はなんだか急に疲れてしまいました。
「なみちゃん、おなごは月のもので力が弱くなるよな。おなごは髪が長いから、そこを掴まれるんだよな」
 おじいちゃんは一度もまばたきをしていません。
「猫、猫ちゃんはな、あっちとこっちを逝ったり生(き)たりできるから、そういう力が強いから、食べると、なみちゃん、猫ちゃん食べると」
 おじいちゃんは興奮していました。

「死なないんだよ」

 もう波子はなにも言えなくなりました。心の底から、意味が分からなかったのです。理解の余地が無かったのです。得心の可能性が見出せないのです。ああ、おじいちゃんは、どうかしちゃったんだ。それだけでした。それが、波子の答えでした。波子は悲しくなって、もう口を固く閉じる気力もなくなりました。
 おじいちゃんは波子の口の中に、それはそれはとてもとても乱暴にカレーライスをねじ込みました。波子は咀嚼も嚥下も拒否していました。口の中には至って普通のカレーライスの味が広がりました。波子は少しだけお腹が空いていることに気付きましたが、それがとても汚らわしいことのように思えて、自分もどこかおかしいのではないかと思って泣きました。
 カレーライスは波子の口から零れ、白い太股とスカートに垂れ、畳の上で蒔き散らかされた糞のように汚く崩壊していました。
「なみちゃん、食べれいやぁ、食べれいやぁ」
 おじいちゃんは泣きながら波子の口にカレーライスを詰め込みました。
 波子も泣いていました。

「あおえ」
 波子は口に詰まったカレーを畳にはき出しました。
「後で、食べるから、先に、お風呂入って、学校の、学校の宿題やってから、食べるから」
 おじいちゃんは嗚咽しながら「本当か? 本当か?」と問いました。
「うん、だからこれ、ほどいて。わたしカレー、食べ、るから、これ、これ、ほどいて」
 おじいちゃんは笑顔になりました。
 なんて恐ろしい笑顔だろうか。波子はまた涙を流しました。
「わかったよ、わかったよなみちゃん」
 おじいちゃんは波子を緊縛から解放しました。
「後でな、食べてな」
「うん、たべるよ」

 嘘でした。

 波子は携帯電話と財布だけを掴み、全力で柏崎家から逃げました。
 逃げなきゃ死ぬと、そう確信しました。


sage