一 柏崎波子


 柏崎波子は自分の家庭環境が他と比べて際だって異常であることに気付いていました。

 波子は小学一年生の頃からおじいちゃんに育てられています。おじいちゃんに育てられる前は、両親に育てられていました。しかし両親は不幸なことに、交通事故で他界してしまったのです。
 大きな交差点での事故でした。その日、波子は郊外のファミリーレストランに家族に連れられて向かっていました。時刻は黄昏時で、お父さんはサングラスをかけてセダンを運転していました。助手席にはお母さんが座り、後部座席に波子とおじいちゃんが座っていました。波子はルームミラーに映るお父さんのサングラスを見て、いつかテレビで見たターミネーターを思い出し、お父さんかっこいいねとおじいちゃんに言いました。おじいちゃんが微笑み、そうだね格好良いねと波子の手を握ると、その瞬間にセダンは紙くずのようにしわくちゃに歪みました。お父さんとお母さんが一瞬のうちに赤く臭い塊になったところで、波子の記憶は途切れます。
 波子は無傷でしたが両親は即死でした。おじいちゃんは前歯を全て失い、鼻とほお骨が砕けましたが命に別状はありませんでした。事故の原因はトラックの信号無視でした。高速で走る鉄の塊がセダンの左前方から突っ込み、前半分をえぐり取ったのです。
 その事故に関して、波子はほとんど覚えていませんでした。お父さんのサングラスとおじいちゃんの温かい手の感触ははっきりと思い出せますが、その他の記憶は人の造形を失った両親の赤黒さくらいでした。
 そのような事故があってから、柏崎家には波子とおじいちゃんの二人しか住んでいません。幸い保険金や賠償金や慰謝料や、波子には到底想像も付かない現金が柏崎家に流れ込んできました。それ故、働く能力を失ったおじいちゃんと働く能力の欠片もない波子だけでも、生活に困ることはありませんでした。
 それからは事故に触れないだけの生活が数年続きました。
 波子の心には大きな穴が空いていました。しかし波子は笑顔を絶やさずたくましく成長していきました。波子の幼かった精神は、その脆弱さを十分に自認していたので、波子は波子自身を守るために事故を忘却していたのです。おじいちゃんは忘れることで均衡を保つ波子の心を哀れみました。そして、自分の息子とその花嫁を一瞬で失った現実を、どうしても受け止めきれずにいました。愛していた人を失うという体験は、どれだけ長く生きていても折り合いを付けられない物でした。どうして! どうして死んでしまうのだろう! どうして愛する人と永遠に一緒にいられないのだろう! そう考えるおじいちゃんの心は、ゆっくりと静かに淀み、萎えて行ったのです。おじいちゃんはそれになんとなく気付いていましたが、老いさらばえた人間には衰退へ抗う活力など、毛ほども残ってはいませんでした。そういうわけで、おじいちゃんは次第に狂っていったのです。愛する人と永遠に一緒にいる方法だけを考えて、狂っていったのです。

 柏崎波子が自分の家庭環境は他と比べて際だって異常であることを認識したとき、波子の両手は柱へ縛り付けられていました。
 それは波子が高校一年生を終えようとしていた春の日でした。波子はその時、人生で初めて体温が四十度を超える経験をしていました。その日の朝、波子は起きると同時に布団に嘔吐しました。訳も分からず立ち上がると、今度は床が斜めになっていることに気付きました。勿論それは波子の三半規管が熱で正常に働かなくなり、平衡感覚が失われていたのですが、波子にとってみれば傾いているのは床の方でした。背骨が抜けた様な身体をふらつかせながら、おじいちゃんに朝の挨拶をしました。
「おはようおじいちゃん、私どうも体調が悪いみたいなの」
 するとどうでしょう、昨日まで優しかったおじいちゃんの顔が、みるみる強張っていったのです。おかしいな、おじいちゃん怒ってるよ、おじいちゃん。朦朧とする波子の意識が漠然と不安を覚えました。波子がなんだか申し訳なくなり、ごめんねと言おうとしたとき、おじいちゃんは波子の手を引っ張って居間へ引きずっていきました。それはとても老人の力とは思えない程に強く乱暴で、波子は恐怖しました。おじいちゃんは波子を居間の大きな柱へ縛り付けました。波子の白く細い両手に、手ぬぐいが強く巻き付けられました。波子の瞳は涙でいっぱいです。大好きなおじいちゃんに縛られている。これは理解できない恐怖でした。おじいちゃんが、怖い。それは未曾有の体験でした。どうしてこういうことするの? わたしが悪いの? ごめんなさい、おじいちゃん、ごめんなさい! 波子はおじいちゃんにそう言いたかったのですが、意志とは関係なく身体全体が震え、声など少しも出ませんでした。
 おじいちゃんは波子を縛り終えると、波子の正面に正座し両手を合わせました。そしてひたすら逝かないでください、逝かないでください、と唱えていました。頭を垂れそうくり返すおじいちゃんを見て、波子はおじいちゃんがボケてしまった! と思いました。
 しかし何かがおかしいと確信したのは、もう少し後のことでした。
 おじいちゃんは急に居間の棚から鋏を取り出しました。そして波子の髪の毛を切りはじめました。
 波子は思わず叫びます。
「やだ! やだぁ! おじいちゃんやめて! だめ! やめてえ!」
 しかし髪は切られ続けました。
「おねがい! やだぁ!」
 それは初めての陵辱でした。
 ざっくり、ざっくり、繊細で柔らかい波子の髪が躊躇い無く散らされていきます。
 波子はもう泣くしかありません。
「やめてよ、ぅ」
 波子の肩まであった黒く艶やかな髪はほとんど無くなってしまいました。
 波子は嗚咽しました。絞り出す様に細々と泣いていました。朦朧とする意識に反して、頭部が妙に涼しく軽いのが波子に絶望を覚えさせました。どうして。それだけを考えていました。項垂れてそれだけを考えていました。
 波子はおじいちゃんの息づかいが荒くなっているのに気付いていませんでした。ただ淡々と陵辱されているのだと感じていました。しかし、おじいちゃんは大粒の涙をこぼしていました。汚い鼻水を垂らしていました。それでもおじいちゃんは、逝かないでください、逝かないでくださいと唱え続けていました。
 おじいちゃんは波子の髪の毛を掻き集めました。そして、それを、すこしずつ食べ始めました。
「おじいちゃん?」
 波子はその光景を見て鮮烈な吐き気を覚えました。それが何故なのかは分かりませんが、波子の目にはおじいちゃんが自分の髪の毛を食っている光景が、この世の終わりの様に映りました。おじいちゃんは何度も何度も吐きそうになりながら、波子の髪の毛を食い尽くしました。そして波子の顔を穏やかに見つめました。
「なみちゃん、もう大丈夫だっけんな。おじいちゃんが悪いの食べたすけんな」
 波子は思いました。
 ボケたんじゃない。壊れてるんだ。

 波子は髪の毛を整えられる様になるまで、一ヶ月間学校を休みました。
 そして明日から学校へ行くことにしました。新学期は既に始まっていて、進級と同時にクラス替えもなされていたので、波子はクラスに出遅れたのではないかと不安でした。それでも早く学校に行きたくて仕方ありませんでした。本当は、髪の毛が伸びるのを待たずに行きたいとも思ったのですが、おじいちゃんが髪が伸びるまで行ってはならないと念を押したので、波子は黙ってそれに従っていました。波子はすっかりおじいちゃんを恐ろしく思っていました。
 でも大丈夫です。明日から学校なのです。学校に行けば、おじいちゃんと一緒にいる時間も減るのです。
 そう思うと波子は救われるようでしたが、その時おじいちゃんは台所で猫を煮込んでいました。

 柏崎波子が一ヶ月ぶりに学校へ行くと、波子はほんの少しだけ人気者になりました。

 波子の通う学校は二年生へ進級する際にクラスが再編成されます。そしてそのクラスのまま卒業まで過ごすこととなるのです。波子が登校したのは四月の十九日で、新学期が始まってから二週間近くが経過していました。クラスの生徒達が曖昧ながらも、己の立ち位置と役を把握し始めている時期でした。  波子はその日の朝、ひとまず職員室へ出向き担任の先生に挨拶をしました。担任の先生は女性だったので、波子は安心していました。先生は波子に向かって、もう具合はいいの? と問いました。波子は、はいと頷きました。波子は病気に罹った為、暫くの間自宅にて療養させてもらえないだろうか。おじいちゃんは学校へそのような言い訳をしていました。先生はそれ以上は何も聞かず、朝のホームルームで波子を紹介すると申し出ました。波子は新しいクラスへ踏み出す第一歩目を不安に思っていたので、先生のその補助をありがたく受けることとしました。

 ホームルームは大騒ぎでした。新学期が始まってからずっと空席だったところに、柏崎波子という一人の女子が座っている。誰にも知られていないはずの波子は、誰からも知られている状態にあったのです。先生が教室を後にしてから波子は質問の波に押しつぶされていました。波子の机を囲む群衆が、矢継ぎ早の質問を投げかけます。
 いままでどうしてたの? 一年生の時何組だった? 部活はやっているの? 血液型は? 好きな芸能人とかいる? 髪の毛超サラッサラだねシャンプーは何使ってるの? どうやって学校まで来てるの? 趣味は?
 波子は浴びせられる質問に一生懸命答えていました。
 ちょっと病気やってたんだけど、もう大丈夫。一年生の時は二組で、部活はやってないんだ。血液型はたしかO型。芸能人はちょっとわかんないや。シャンプーも普通のだよ、あんまりコンディショナーとかもしないんだ。学校まではバス。
「趣味は」
 波子は言葉に詰まってしまいました。
 私の趣味はなんだろうと、答えられなくなってしまいました。
 私の趣味は……。
「波子の趣味は単車だよ」
 そう発言した人物を見て、波子はその日初めて心からの笑顔があふれました。
「ゆうちゃん!」
 刈羽優は波子を見て微笑んでいました。

 優は波子のたった一人の友達でした。波子はとても元気が良く明るかったので、誰からも好かれるタイプでしたが、しかし波子自身が友達を作るのを不得手としていました。波子は他人と近づけば近づくほど相手を恐ろしく感じる癖がありました。それは曖昧模糊とした感覚であり、波子自身も明確な説明ができないほど掴み所のない恐怖でした。しかしこの刈羽優という女子生徒は、波子と上手く友達として関係しています。
「波子、心配かけちゃってさ。病気ってあんた超丈夫だったからビックリしたよ」
 優が波子と友達でいられるのは、波子が優を自分よりも相当な大人だと認識しているところに理由がありました。
 波子と優は高校からの友達でしたが、優に対する波子の第一印象はずばり、巨乳! でした。優と出逢ったその時、顔より先に胸を覚えたのは波子に限った話ではないでしょう。優は美しい女子でした。優本人にとっては一六七センチという身長はいささか高すぎるようでしたが、高い身長に端正に乗った白く張りのある肉は瑞々しささえ醸し出しています。少しだけ目つきが悪いのが玉に瑕ですが、形の良い鼻は真っ直ぐで、やや掠れた声を発する唇はいつも潤っていました。
 対する波子も十分に美少女でしたが、その美しさの方向は優とは違い、可愛らしさに秀でていました。身長は一五五センチで幼さの抜けきらない童顔です。大きな瞳は周りの景色を映していて、潤んでいる様に見えます。しかし優と比べると、これは波子も気にしている大変デリケートな問題なのですが、いささか乳房の量感に乏しいのです。小さいのです。貧しいのです。
 このような身体的な差異を見て、波子は出逢ったその日に優を自分より凄い人だと決めつけました。外見で他人を凄いと判断するのはいささか拙速な行為ですが、しかしその判断は優と過ごしていくうちに波子の中で堅牢な評価へと変わりました。
 波子にとって、優は「大人」だったのです。

「もう具合は大丈夫なの?」
 優は波子を伺いました。
「うん、ごめんね、ありがとう。もう大丈夫」
「趣味のバイクの調子はどう?」
 波子はまた笑いました。
「そんなの趣味じゃないよ」
「知ってる」
 優も笑いました。
 刈羽優は、柏崎波子から見て、大人だったのです。
 刈羽優の登場により、波子は新学期の初日を順調に過ごしていました。

 結局波子の趣味は読書ということになり、一部の男子生徒達からはお嬢様のようだ! などと冷やかされましたが、波子はそれを少し気持ち悪いなと思うだけでした。
 やがて一時限目の授業が始まると質問の応酬も終わり、学校が久しぶりの波子にとって昼休みになるまでの時間は瞬く間に過ぎました。授業の合間の時間にも、数名の生徒が波子のもとへ来てあれこれと質問を投げかけました。波子は初対面のクラスメイトに戸惑いましたが、そのつど優がクラスメイトの紹介をしてくれたので、なんとか覚えてみようとしたのですが全員を記憶することは叶いませんでした。
 波子は優に感謝していました。優が同じクラスに居なかったら、きっと私はうまくクラスと関われていなかっただろう。それは根拠のない発想でしたが、波子はそう感じていました。波子は他人と関わる事についてはなにも躊躇いはありません。今までの人生で幾度となく新しい出会いを経験し、それに対処してきたのです。しかし波子は新しい出会いがあっても、その出会いを交友に発展させることができませんでした。
 波子の中学校生活に特定の友人は存在しませんでした。かといって孤立をしていたということもありません。波子は広く浅く他人と関わっていたのです。誰からも深入りされず、誰にも深入りせず過ごしていたのです。誰とでも遊べたし、誰とも遊ばなくても平気でした。クラスメイトの冗談にはなんとなく笑って見せました。女子同士でクラスの誰が好きかという話になったときは、適当な先生の名前を挙げました。そうすれば誰もが冗談として受け取ることを知っていたのです。波子の中学校生活は平穏そのものでした。当たり障りのない、波も風も立たない、涙も感動も無い三年間でした。そのような生活を続けるうちに、波子は友達という存在は空想の様なもので、私とは縁がないのかもしれないと思う様になりました。しかしその思考は決して悲観的な物ではなく、そんなものか、と納得できる帰結だったのです。

 刈羽優はそんな柏崎波子の前に現れました。
 高校の入学式の日、波子は自分の机に静かに座り、積極的でもなければ消極的でもない態度をとっていました。
 ホームルームも終わり、その日は午前のみで放課となりました。クラスの面々はどこか落ち着かない様子でした。ある者はいかに交流するかに必死となり、誰彼構わず話しかけています。ある者はクラスメイトを値踏みする様に教室を見回しています。ある者は居心地が悪そうに教室を後にします。波子はただ座っていました。帰ろうかな、とさえ思っていました。すると後ろの席から声をかけられました。
「ねぇ、あんためっちゃ可愛いね」
 波子は発言と似つかわしくない女子の声を怪訝に思い振り返りました。
 そこに居たのが刈羽優でした。
 女の子が女の子に可愛いというものなのか。波子はそう思っていました。
「お。おお。本当に可愛いや。後ろ姿イケてんなーと思ったんだ」
 波子は何も言えませんでした。こういうときどう答えるべきか、波子は知りませんでした。
 何か言わなきゃ! 波子はあれこれ考えて目をあちこち動かしました。そして優の豊満な乳房を目撃したのです。
 巨乳! 波子は驚きました。
「ん……? なに?」
 優は波子が硬直しているのに気付きました。波子は狼狽します。上手く言葉が出てきませんでした。
「あ、あ、あの、」
「ん?」
 波子は優のふくらみに釘付けです。
「あぁっと、えっと!」
「んんー?」
 制服がはち切れそうではありませんか!
「す、すごいね!」
 すごかったのです!
「え、なにが?」
「なにがって、……それ」
 波子は優の胸を指さしました。優は視線をおろし自分の胸を見ました。そして悪戯を思いついたように微笑み、
「小さいね、あんたの」
 ずばり言いました。
「ち! 小さくないもん!」
「いや小せぇよ」
「普通だもん!」
「無いじゃないか」
「あるよ!」
「じゃー見せてよ脱いでよ」
「ええ!?」
 波子はこの時初めて気づきました。
 本気で笑うとほっぺたが痛くなるんだ。
 それから二人は友達でした。

 波子が一ヶ月ぶりに登校した日の放課後、優と波子は一緒に下校することにしました。
 ホームルームが終わると、二人は揃って昇降口へと向かい靴を履き替えました。
「ねー波子。髪の毛ばっさり切ったんだね」
 波子は平静を装いました。
「うん、あれだよね、新学期だし。さっぱりしたいなー、なんて」
「そっか。うん、似合ってるから良いけどね、どうよ、どっか遊びに行く?」
「ごめん、帰らなきゃ。おじいちゃんが、ごはん待ってるだろうし」
 波子はそう言うと昇降口を出ました。
 波子が湿った空気を頬に感じ空を見上げると、そこは鈍く灰色でした。
「げ、降るかもね。傘ある?」
 波子の後ろに続いていた優がそう聞くと、波子は大丈夫、とだけ答えました。
「そっか、じゃ、降る前に帰ろう」
 二人は校門を出ます。
 帰ろう。
 その言葉が波子の全身をなめ回し、呼吸を浅く早くさせました。波子にとって帰宅とは憂鬱なことでした。家に帰れば、おじいちゃんがいる。風邪をひいた日以来、おじいちゃんは今まで通り態度を変えることはありませんでしたが、波子にとってそれは韜晦の様に思えました。またいつか酷いことをされるのではないだろうか。あの絶望感を味わうことになるのではないだろうか。そう考えると波子はあまり家に帰りたくはありませんでした。
 優ちゃん、わたし、あんまり帰りたくない。
 そう言おうとしたとき、波子達の横を一台のスクーターが駆け抜けました。
「うお、三島だ」
 波子はスクーターの出す排気ガスを大量に吸い込んでしまいましたが、しかしそれは嫌な匂いではありませんでした。どこか甘い様な匂いでした。
「三島、ってだれ?」
 波子はスクーターの走り去った方を見ます。そこにはもう誰も居ませんでした。
「転校生だよ。うちのクラス。三島伸一。あの野郎、バイク通学の許可もらってんだよ」
 優はどこか悔しそうでした。
「しかもヴェスパだよ? スモールのヴィンテージ。高校生のくせに!」
 波子にとってヴェスパが何かは分かりませんでしたが、それでも排気ガスの匂いが不思議と心に残っていました。
 波子は三島伸一という人物に、ほんの少しの興味を持ったのです。

 そして二人はバスに乗って帰りました。
 バスの中で、波子はあまり喋ることができませんでした。
 もうすぐ家だ。波子は、そればかりを考えていました。


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