六 恨みと嫉み


 刈羽優がステージアのルームミラーを自分に向け化粧をしている間、三島伸一は当て所ない思索を止め処なく繰り返していました。
 柏崎波子をいつまで自宅にかくまうのか。刈羽優は今日も泊まるのだろうか。石地万代が今日に限って、呼んでもいないのに現れたのはただの偶然だろうか。刈羽と柏崎という苗字を聞いた後、石地が自分に向けた異質な笑顔はなんだったのか。しかし伸一はどの疑問にも明瞭な答えを出すことができません。ただ与えられた現実が、わが身を撫でて流れてゆくのに任せるしかありませんでした。それを端的に表す言葉は、無力。伸一はその事実にもまた流されるしかありませんでした。彼にはまだ、流されるほかに方法はないのです。無力な弱者が願うだけで強くなれるはずはありません。弱者は弱者であることを自覚しなければなりません。自覚した後に、趨勢に呑まれ溺れるか、足掻き浮上するかを決めなければなりません。伸一はその自覚を躊躇っているのです。どこか漠然と気づきながら、彼は己の無力から目を逸らしているのです。
「うし、お化粧おわり」
 優がコンパクトを閉じました。伸一が優を覗くと、うっすらと化粧がのった顔が見えます。
「あんま変わんねーな」
 優は一瞬間をおき、
「褒め言葉と受け取るわ」
 と答え、制服の上着を脱ぎました。ワイシャツとスカートだけになった優を、伸一が不審な目で見ます。
「ん?」
「なんで脱いだんだ? 寒くないか?」
「あぁ、高校生が運転して登校してたら変でしょ。上着脱げばさわやか会社員に見えなくもないから。安心公務員でもいいけど」
「なるほど……やくしまるえつこ的だな」
「はは。あそこまで美人じゃないよ」
 優がキーを回しエンジンが点きます。細やかな振動が車体を暖めました。
「発進するよ、忘れ物ある?」
 伸一は首を振ります。それを見て優が浅くアクセルを踏みました。ステージアが雨上がりの砂利道を、ゆっくりと前進していきます。タイヤが小さな石粒を車体に巻き込む硬い音が響きます。優は運転の片手間でアイポッドを操作し、雨上がりに合いそうな曲を探しました。伸一は優の無免許運転に内心身構えていましたが、その心配を他所に車は淡々と進むだけでした。
 砂利道に轍がつきました。深くはっきりと、轍がつきました。

 車は国道を制限速度で走っていました。優と伸一はお互いが話し出すタイミングを見失っています。静かに流れる音楽が、路面から伝わる粒の粗い低音と綯い交ぜになります。
 伸一は助手席から窓の外を見ていました。昨日の雨が嘘のように、空は青く晴れ渡っています。遠くの山は春の日を浴びて、いよいよその色を鮮やかな緑に変えようとしていました。通勤時間の国道といっても交通量はそこまで多くなく、車は滞りなく学校へ向かっています。対向車線もすらすらと流れていました。伸一が後続車両を見ると、バンが一台と原付が一台見えるだけでした。
「なにキョロキョロしてんの」
 優が穏やかな口調で微笑みました。伸一は「いや、晴れたなって」とだけ言い、それから姿勢を正して正面を見つめました。
「あんたさ」
 優がハンドルを握ったまま尋ねます。
「なんで、一人暮らしなの?」
 伸一はいつかこの質問が来るだろうと予想していました。そして彼は予想したのに対策しないほどの愚か者ではないので、あらかじめ用意しておいた嘘をつきます。
「ウチは両親がアレだから」
「適当!」
「実際こんな言い訳をした四コマ漫画がヤンマガにあった」
「粗雑!」
 優が速度計を見てからアクセルを緩めました。無免許なりに法律に忠実であろうとしているのです。
「なに、言いたくないわけ?」
「いや、別に。でも言ったって意味ないだろ」
 そうかな、と優は続けます。
「意味のないことなんてこの世にあるのかな。なんかの因果があるんじゃないかって、私はおもってるけど」
 伸一はもう一度遠くの山と空を眺めました。
「意味無く雨の降る小説は無い、ってやつか。昔誰かから聞いたな。小説じゃなくて映画かもしれないし漫画かもしれないけど」
「うん? なにそれ?」
「雨が降ってりゃ雨が降ってるなりの理由があるって考えらしいよ。悲しいとか、辛いとか。トリックだったり」
 現実の世界でも通用するかな、と伸一は小声で言います。
 優は笑いました。
「あは。それじゃ昨日の雨も今日の晴れも、きっとなんか意味があるんだろうね」
 伸一は優の笑顔に見入ってしまいました。彼は優の笑顔の中に、実に後ろ向きの情念を見つけ出してしまったのです。
「あ、うん。あるかもしれないな」
 伸一は内心戸惑っていました。見たことも無い類の笑顔に、僅かに狼狽しているのです。優の笑顔は年齢にそぐわないほど、疲弊や諦観を内包する笑顔でした。造語を使うなら、それは微苦笑にもっとも近いものでした。
「じゃさ、三島。今日晴れたのは、どうしてだろうね」
 優がいつもの口調で伸一に聞きました。
「そりゃ、きっと良いことがあるんだろ」
 優が微笑むのを見て、伸一は理由のわからない安心感を覚え窓の外を見ました。伸一は本人も自覚しないうちに、優の平常心が揺らいでいるのを感じ取っていたのです。
「うん、そっか。そうね。いいことあるよね」
 伸一は流れてゆく景色を見るふりをして、そっけない態度を装い答えます。
「おーおー。あるある。なにって刈羽、今日は晴れてるんだから」
「うえー三島超適当じゃん」
「いやおまえ、晴れてる日に悪いことあっちゃ話の流れ的におかしいだろ」
「はいはい。そういう適当なことを言いまくってると女の子にモテなくなるぞ」
「俺の好きな言葉は軽佻浮薄だからな」
 優は思わず噴き出しました。ああ、三島、あんたって面白いやつじゃん。
「あんがと」
 優は呟きます。届かなくても構わない感謝の気持ちでした。
 伸一はただ黙るだけでした。
「少し窓、開けるよ」
 優が運転席と助手席の窓を開けました。
 すがすがしい雨上がりの風が車内に流れ込んできます。
 
 ふとルームミラーを見ると、優は鏡の中の優と目が合いました。げ、化粧のとき向き変えたままじゃん。直さなきゃね。後ろ見えないもん。
 ルームミラーの角度を変えて、後続車両が見えるように調整します。
 優は息をのみこみました。
 おじいちゃんがホンダのカブに乗って、ぴったりと車の後ろについていました。
 

 考えるより先に体が動いたのです。優はハンドルを切って脇道に滑り込んだところで、ようやく自分が車を急に操作したことに気づきました。二人の体が運転席のドア側に引き寄せられます。国道で優を追従してきたバンから急ブレーキの甲高い音が聞こえました。高速で左折したステージアもそのタイヤを波打たせ、アスファルトに焦げた軌跡を残しました。暴れだしそうになるハンドルを優が力ずくで押さえつけます。傾く車体を制動するためにハンドルを右へ切り続けると、タイヤの空転は落ち着き次第に路面を掴み始めました。遠心力から開放された伸一が声を荒げます。
「なにしてんだよ!」
 優も怒鳴ります。優の手は小刻みに震えていました。
「後ろっ!」
「あぁ!?」
 伸一が振り返ると、そこにはホンダのカブに乗った老人が見えました。
「なんだよあいつ!」
 優は進行方向を探ります。国道からひとつ脇に入っただけで、車同士がすれ違うのも危ういほどの小路になっていました。ただでさえ大き目のステージアが速度を出すには、あまりにもこの細径は頼りなかったのです。まずいな。優は思います。これ、追いつかれるんじゃない? 優はとっさにすべてのドアをロックしました。それだけでは心配なので、開けていた窓もすべて閉めます。自分と伸一がシートベルトを締めていることを確認して、少しだけアクセルを踏みました。ガソリンがエンジンを奮い立たせ、車が声を高くします。小路の両脇は田園となっていて、操作を誤れば転落を免れない状況でした。 「っ、おい! 刈羽! 早いって!」
「っさいな! 追いつかれたらまずいの!」
 優はルームミラーでうしろを見ました。おじいちゃんは先ほどより距離を詰めているようでした。くそ、あたしがルームミラーを戻していればもっと早く気づけたのに!
「三島! アイツいつからついて来てた!?」
「いつって! 俺んちの前の砂利道抜けた後、ずっとまっすぐだろ? いつからかなんてわかんねーよ!」
 優は舌打ちします。どうしよう、まずいってこの状況。
「なぁ刈羽!」
「なによ!」
「あいつ誰なんだよ!?」
 ああ、
 ああ、もう!
 ああ、もう、くそったれ!
「おじいちゃんだよ! 波子の!」
 優は泣き出しそうでした。
「あいつが? てかお前、柏崎のじいさん知ってるのか?」
 優は答えることが出来ません。知ってるから分かるに決まってるじゃないか。優は波子のおじいちゃんを知っていました。あの顔を、幾度となく目にしていました。あの姿を優は幼いころから恐れていたのです。
「おい刈羽っっ前!」
 伸一の声に優がブレーキを踏み込みました。目の前で道が左右に分かれています。直進はできないので、一度減速してから曲がるしかありませんでした。優はブレーキを踏みながら躊躇します。右? 左? どうしよう、おとうさん、おとうさん!
 するとその時、減速したステージアの運転席側に、おじいちゃんのカブが横付けしてきました。先に気づいたのは伸一で、伸一の強張った顔を見て優も自身の右に迫る脅威を感じ取ります。優の失敗はブレーキを踏みすぎたことでした。車は完全に停止してしまったのです。投げ出されそうになる体をシートベルトはしっかりと掴んでいました。優と伸一は吐きそうになります。事実二人は吐き出したい気分でした。
「嘘でしょ……」
 おじいちゃんはカブに跨ったまま車内の二人を覗き込み、それから大きく左手を振り上げました。おじいちゃんのこぶしには、大きなモンキースパナが握られていました。優が両腕で顔を隠すのと、おじいちゃんがスパナを振り下ろすのはほぼ同時でした。ギッシ、と不快な音が響き、運転席の窓ガラスに白い罅が幾重にも入りました。
「刈羽!」
 伸一が発進を促そうとしますが、しかし優を呼ぶことで精一杯でした。
 おじいちゃんが再びスパナをガラスに叩き込みます。微細なガラスが弾け飛び、優のスカートに落ちました。ガラスにこぶし大の穴が開きました。
 殺される! 殺される!
 優はそう感じましたが、ハンドルを握る両手もブレーキを踏み込んだままの右足も動かすことができませんでした。全身が震え、視線はおじいちゃんに張り付いたまま動きません。捕まってしまったようでした。おじいちゃんの放つ敵愾心が優の恐怖心を圧倒します。
 そして、おじいちゃんの放った言葉に二人は文字通り息を止めました。

「刈羽優」

 おじいちゃんが優の目を見ていいます。
「刈羽、優うううううう!!!!!!」
 それは咆哮でした。衰えているであろう体の、いったいどの部分を使えばこれほどの声量になるのか、二人には皆目見当もつきません。おじいちゃんは一心不乱にスパナをガラスに叩きつけました。狂ったように窓ガラスを粉砕しました。壊れたように腕を振り下ろし続けました。弾け飛ぶガラスが優の右頬に細かい傷をたくさんつけます。ガラスはほとんど粉々になり、窓枠にかろうじてしがみついている程度しか残っていませんでした。何もなくなった窓枠にスパナが振り下ろされると、衝撃で淵が歪みました。
「かえせえ」
 おじいちゃんはカブを乗り捨ててステージアのドアノブを引きます。しかし施錠されたドアは開くことなく、車体がおじいちゃんの方へ揺れるだけでした。
「波子を返せえ!」
 優の耳に波子の名前が響きました。
「これ以上、うちから家族を取らんでくれぇ!」
 優は、できることなら大声で叫んでしまいたかったのです。
 そんなつもりはない。あたしは、あたしは、波子をまもりたいだけなの。
 謝るから! 謝りますから! だから波子を傷つけないで! あたしに波子をまもらせて!
「みんなを返せえ!」

 あたしに、償わせてよ。お願いだから。

「刈羽! しっかりしろ!」
 泣き出しそうな優の体の上を伸一の上半身が跨いで、ドアのロックを開けました。おじいちゃんがすかさずドアに手をかけます。しかし伸一はとっさに体の向きを変えて、助手席に背中を寝かせ優の太ももの上に両足を浮かせました。
「どいてろ刈羽!」
 おじいちゃんがドアを開けた瞬間、伸一は両足を畳み込み一瞬で伸ばしきります。半開きのドアに伸一の蹴りが炸裂し、ドアが勢い良く開きました。するとおじいちゃんがドアに吹き飛ばされ、カブの上に転びます。
「刈羽! 車出せ!」
「あ、え」
 優は呆然としていました。開け放たれたドアから、カブの上で悶えるおじいちゃんが見えます。
「刈羽!」
 優はまだ動けませんでした。怖くて怖くて、体が言うことを聞いてくれません。
 伸一は歯噛みしました。逃げるなら今しかないのに!
「優っ! 波子まもるんだろっ!」
 伸一の檄に優が波子の顔を思い出します。
 ああ、そうだ、そうだよ、あたしは、波子を、死守(まも)るんだ!
「気安く名前で……」
 優はハンドルを左に目いっぱい切り、アクセルを底まで踏み込みました。
「呼ばないでよね伸一っ!」
 ステージアが吼え左に急旋回します。車体の右後方が滑り、高速でおじいちゃんのカブを薙ぎ払いました。金属同士のこすれる尖った音が響きます。おじいちゃんはカブに巻き込まれ、水の張られた田圃に弾き出されました。
 優は田圃に落ちたおじいちゃんを確認すると、とても申し訳ない気持ちになりましたが、しかし降りて謝るわけにもいかないので車を発進させました。
 出来得る限りのスピードで、その場から逃げ出しました。

「おい刈羽」
 細い道を迂回する優に伸一がため息交じりの声をかけます。
「お前、運転荒すぎるだろ」
 優は笑いました。
「いや、必要に駆られたのよ。見てこれ、手、すっげ震えてるの」
 優が前を見たまま伸一に左手のひらを向けます。
「俺も脚がやばい。がっくがく」
 二人は笑いました。極度の緊張から解かれ、堰を切ったように笑い出しました。
「あんたさ、なにげにあたしのこと名前で呼んだっしょ。波子のことも」
 伸一は笑います。
「忘れたね」
「かっこつけんなよ」
 優は伸一の横顔を見ました。伸一は心底安心したように、シートの背もたれに全体重を預けているようです。三島の助けがなかったら、正直やばかったな。優は伸一の足跡がついたドアを一瞥しました。
「つーか刈羽、お前怪我してないのかよ? あのじいさん滅茶苦茶やりやがって」
 優は特に怪我してないと伝えようとしましたが、右頬に走る痛みを無視することができませんでした。
「あー。ほっぺ切れてるかも。ガラスの破片でやっちゃったかな」
「まじ? 血とか出てるか?」
 優が頬を指で撫で、出血の有無を確認します。
「いや、血は出てないね」
 伸一がそうか、と安堵した声色で言いました。
「なぁ、石地さんちが近くにあるんだけど、手当てがてら寄っていかないか?」
「え? いや別にいいよ。怪我なんてたいしたことないし」
「そうか? いや、ていうかさ」
 伸一が笑いながらいいました。
「もう学校とかだりーって。律儀に行くこと無いだろ。これ、非常事態なんだしさ」
 伸一が砕けた窓ガラスを指差しました。確かに、と優も思います。今ここで学校に行ったとして、その間波子は独りきりになる。三島の家だから安全だとは思うけど、独りにしないことに越したことは無い。
 あれ?
 優は漠然とした不安を覚えました。
 あれ? 安全だよね、三島の家って。
 優は不安の芽を掘り下げていきます。
 なんで安全なんだっけ。うーん、あ、そうだ。だって三島んちって誰も知らないもんね。あの石地って人と、あたしと波子しか知らない。うん、波子のおじいちゃんも知ってるわけないんだ。だから、安全。三島んちに居れば、波子は誰にも見つからない。
 けどこの不安はなんだろう。
「ねぇ三島」
 優は車の速度を落として伸一に尋ねました。
「三島んちってさ、安全だよね?」
 伸一は怪訝な顔つきで答えます。
「そりゃ安全だよ。だって、俺んち知ってる奴なんて刈羽と柏崎以外は石地さんくらいだし」
 優はそれを聞いて安心しました。しかし、それは完璧な安泰とは程遠い感情でした。
「そっか。いや、なんか気がかりで」
「気がかり?」
「そ。なーんか忘れてるような、見落としてる? みたいなさ」
 伸一も考え込みます。
「そうかな。ああ、アレじゃないか?」
「なに?」
「あのじいさん、いつからつけてきたか分からないだろ」
「そうね」
 優は先ほどのおじいちゃんを思い出します。車を当ててしまったけれど大丈夫だろうか。田圃の泥の中に落ちたから大丈夫だよね。
「もしかして、俺んち出たときから付いてきたとか思ってるんじゃないか?」
「え、うそ。流石にないよね?」
 伸一は無いとは言い切れないけど、と言葉を濁しましたが、
「ほら、砂利道から国道へ出るときは誰も居なかったし、大丈夫だよ」
 と優を安心させようとしました。
「まぁアレだよな。ヘンゼルとグレーテルみたいにガソリンたらしながら走ってきたとかじゃなければ、大丈夫だろ」
 優は笑いました。伸一も笑います。
「そうね、そうだよね」
「ああ。とにかく石地さんちに向かおう。怪我の手当てして、ついでに薬もとってこようぜ」
「あれ、でも石地さんって仕事行って留守なんじゃないの?」
 伸一は大丈夫と言いました。
「合鍵渡されてんだ。困ったときには来いって」
 そういう伸一はどこか不服そうでした。優は伸一を、父親に頼りたくない少年のように見ていました。
「そういうことならお邪魔しよっか。ぶっちゃけあたしもダルいわ学校行くの」
 
 優と伸一は石地邸へ向かうこととしました。優の漠然とした不安も、車を進めるごとに薄らいでいきます。
 しかし優の不安は杞憂ではありませんでした。
 二人は、昨日雨が降ったことを忘れそうになっていました。
 ぬかるんだ砂利道についた轍の存在を、二人はまだ知らないのです。
 その轍がまっすぐ伸一の家へ続いているのを、二人はまだ知らないのです。
 
 そしてそれを先に見つけることとなるのは、おじいちゃんの方でした。


sage