七 前編 石地万代の嘘



 どのくらいの時間が経ったのだろう。おじいちゃんは考えていました。泥まみれになりカブを押しながら、ずっとそのことばかりを考えていました。
 息子が潰れてから、その嫁が粉々になってから、愛する孫が逃げ出してから、いったいどのくらいの時間が経ったのだろう。おじいちゃんは考えていました。エンジンのかからなくなったカブを押し、道行く人々に好奇の視線を投げつけられながら、ずっとそのことばかりを考えていました。
 一歩進むごとに死んでいくような気分でした。息を吸うたび腐っていくような気持ちでした。
 老体を酷使して優の乗る車を追い回した挙げ句、車体をぶつけられ田圃に突き落とされたおじいちゃんは満身創痍です。関節の全てが、錆びたネジの様にぐらぐらと揺れていました。事故で失った前歯を隠していた入れ歯も、田圃に落ちたはずみでどこかへなくしてしまいました。口の中には腐った臭いのする泥が大量に流れ込み、吐いても吐いても不快感は消えません。身体の至る所に小さな傷が出来ていました。しかしおじいちゃんはその痛みを感じません。もう痛みなど感じている余裕は無かったのです。
 ただただひたすらに、波子が居なくなったことを嘆いていました。絶え間なく絶望していました。なぜ人は消えてしまうのだろう。どうして死んでしまうのだろう。どうして自分だけが、今ここにこうして存在しているのだろう。自分など消えてしまってもかまわないから、波子や息子やその嫁を、この世界に永遠に生き続けさせてはくれないだろうか。例え自分が愛する人の姿を見られなくなろうとも、それでも生きていてくれるなら、存在していてくれるのなら、自分自身の命などいくらでも棄ててやる。

 おじいちゃんは歩き続けました。腐敗した泥の臭いをまき散らしながら歩き続けました。愛する人と永遠に一緒にいる方法を考えながら、おじいちゃんは歩き続けました。愛する人を永遠の存在にする方法を探しながら、惨めに情けなく弱々しく歩き続けていました。
 おじいちゃんは歩き続けました。
 国道沿いを歩き続けました。
 途中、春を感じて芽を出した草花をいくつも踏みつぶしました。
 おじいちゃんは歩き続けました。
 少しずつ雲が黒くなってきました。また雨が降りそうな陰鬱とした空模様です。
 おじいちゃんは歩き続けました。
 足を引きずるように歩きながら、漠然と刈羽優のことを考えていました。鬼の子だと唾棄しました。波子をさらった鬼の子だと呪いました。不幸を招いた怪物だと殺意を抱きました。しかし、刈羽優の顔を思い出すたびに、それにつられて波子の顔も思い出しました。刈羽優を語る波子の顔は、それはとても穏やかなものでした。
 刈羽の姓を波子の口から聞いたとき、おじいちゃんは脳の血管に罅が入るのを感じ取りました。そんな人間と関わってはならない。すぐにそう咎めようと思いました。しかし同時に、刈羽優を語る波子の穏やかな表情を、とても愛しく感じていました。両親のむごたらしい死に方を目の前にした波子には、笑顔こそあれどもそれはどこか不安を感じるものだったのです。それが刈羽優について話す波子は、心の底から笑っているように見えました。波子は刈羽優を必要としていたのです。これはおじいちゃんにとっては実に残酷であり、同時に下卑た皮肉でもありました。
 知らず知らずのうちに、おじいちゃんは泣いていました。波子を取り戻したい。波子を失いたくない。波子とずっと一緒にいたい。それなのに、波子は自分から離れていってしまう。おじいちゃんはどうしても波子と離れたくありませんでした。おじいちゃんにとって、波子はもはや生きている理由そのものでした。決して失うわけにはいかない愛する家族でした。
 最後の家族だったのです。
 おじいちゃんはホンダのカブから手を離しました。カブは少しだけ前進して、ゆっくりと大きな音を立てて倒れました。おじいちゃんはカブを棄てて、よぼよぼと前へ進みました。
 空は今にも雨が降り出しそうになっていました。先ほどまで晴れていた空も、もう見る影もありません。

 どれくらい歩いたのでしょうか。おじいちゃんの足は疲弊し、春先だというのに額からは大量の汗が流れ落ちています。両足がごわごわと熱を帯びていました。衰弱した肺が限界を訴え続けていました。それでもおじいちゃんは歩みを止めません。おじいちゃんには行くあてがあったのです。
 それは今朝のことでした。どこにいるのかわからない波子を捜しカブを走らせているとき、ちょうど脇道から出てくる刈羽優の車を見つけたのです。おじいちゃんにとってその車は何度も目にしていたものでした。ナンバーも覚えているほどでした。その後田圃に突き落とされるまで、おじいちゃんは必死に車を追いました。波子が乗っていると思ったのです。しかし車の中には波子は居ませんでした。それでもおじいちゃんは確信しました。
 波子は、自分の家族は、またぞろ刈羽に奪われたのだと。
 優の乗る車が自分をはねのけ走り去った後、おじいちゃんは来た道を戻っていたのです。優の車が出てきた道を目指して歩いていたのです。幸いそこは大きな国道で、本線に出てからはひたすら戻るだけでした。
 おじいちゃんは立ち止まりました。そこは、優の車が出てきた脇道と国道の合流地点でした。路面を見ると泥で轍がくっきりと残っていました。昨日の雨で地面はぬかるみ、舗装されていない道を走った優達は、決定的な足跡を残していたのです。おじいちゃんは轍に沿って年老いた両目を動かします。すると轍の先に、一軒の古びたアパートが見えました。それは三島伸一のアパートでした。
 あそこに波子はいる。
 それは直感めいたものでしたが、しかしおじいちゃんのそれは類推などよりはよほど信憑性に富んでいて、言い方を変えればある種の確信めいたものだったのです。
 おじいちゃんは再び歩き始めました。
 愛する孫を取り戻すために。
 愛する孫と永遠に一緒にいるために。

 空から雨粒がこぼれ落ちてきました。それはなんだか、涙を我慢していた子どもが限界を迎え嗚咽するような、嘔吐にも似た雨でした。

 柏崎波子は三島伸一のアパートの一室でひとりぼっちでした。テレビもつけず電気もつけず、急に降り出した雨音を聞いていました。安全のために室内の鍵は全て閉め、窓にはカーテンをしたというのに不安は少しも拭えません。
 さっきまであんなに晴れていたのにな。波子は思います。急に降っちゃった。優ちゃん達大丈夫かな。事故にあったりしないかな。波子は頭が少し痛くなった気がしました。なんか頭痛いな、雨だからかなぁ。嫌だな、早く帰ってこないかな。波子は時計を見ました。優達が家を出てからまだ三時間と経っていませんでした。
 波子は雨音に耳を澄まします。地面に衝突した雨粒が弾ける音が聞こえました。一粒一粒の音が幾重にも重なり合い、波子の耳に大きな雑音となって届いてきます。そういえば家から逃げ出したときも雨が降っていたな。波子は思い出します。空から降ってくる無数の雨に溶けてしまいたいと思ったこと。それは今でもあまり変わっていませんでした。そうやって雨と一緒になってしまえば、なんだか全てから逃げられるような気がしたのです。優や伸一にも迷惑をかけずに済むし、水になってしまえばどこへだって隠れられる。バカだな、と波子は自嘲しました。私は何を言っているのだろう。雨になれるわけないじゃん。それでも波子は、もうしばらく雨の音を聞いていたくなりました。
 耳を澄ますと、淡々と雨音が聞こえます。
 淡々と雨音が聞こえます。
 淡々と雨音が聞こえます。
 波子は目を瞑りました。
 淡々と雨音が聞こえます。
 淡々と雨音が聞こえます。

 そして、
 チャイムが鳴りました。

 波子が飛び起きます。心臓が高鳴りました。いったい誰がここへ。優と伸一が帰って来るには早すぎる時間でした。しばらく動けないでいると、もういちどチャイムが鳴りました。先ほどより幾分か小さな音のように聞こえました。もしかしたら、隣の部屋に誰か来たのかも知れない。波子はそう思い、足音を立てないようにゆっくりと、怪我した足をかばいながらじりじりとドアへ向かいました。一度つばを飲み込み、裸足のまま玄関におります。ドアに静かに両手をつき、身体を支えつつ魚眼レンズをのぞき込みました。
 そこには誰もいませんでした。
 ああ、なんだ、気のせいか。そう思ったとき、三度目のチャイムが鳴りました。今度ははっきりと隣の部屋から鳴ったように聞こえました。
 なんだ、よかった、やっぱり隣の部屋に来たお客さんだったんだ。ずいぶん壁が薄い部屋だな。
 波子は魚眼レンズから目を離して、部屋へ戻ろうとしました。
 しかしその時、聞き覚えのある声が聞こえたのです。
「なみこ」
 心臓が潰れた。波子は思いました。一瞬体内から消滅したかのような心臓は、今度は破裂しそうなほど早く動き始めました。
 そんな、嘘だ、嘘でしょ。波子は震えました。今のは、おじいちゃんの声だ。口内が急激に乾燥していきます。呼吸が浅くなりました。
「なみこ」
 今度はドアの前で聞こえた様でした。
 口から出そうになる心臓を飲み込み、波子はもういちど魚眼レンズをのぞき込みました。


「あれ?」


 思わず声が出ます。
 魚眼レンズ越しに見た外の世界は真っ暗でした。
 なにこれ。これ、なに、何が、何が見えてるの?
 何が見えてるの?
 なんで、まっくらなの?
 さっきまで、外の景色が見えたのに。なんで暗いの?
 嫌だ、嫌だよそんなの。
 怖いよ、おじいちゃん。
 波子は察します。

 それはおじいちゃんの瞳でした。

 ああ、見てる、見てるんだ。
 歯をならして震える波子とドアを挟んだ向こう側で、おじいちゃんは魚眼レンズをのぞき込んでいました。
 堪らず波子は崩れ落ちました。尻をしたたかに打ち付け、アパートが揺れたように感じました。ああ、もうだめだ。もうおしまいだ。おじいちゃん、見つけてるじゃん、私のこと。なんでかな。なんでわかったのかな。
「なみこ?」
 間違いなくおじいちゃんの声でした。生まれてからいままで慣れ親しんだ老人の声でした。
 居る。目の前に居るんだ。波子は震えます。ドア一枚を隔てた向こうに、おじいちゃん居るんだ。波子は恐怖に耐えきれず泣きました。声を殺して泣きました。すると、波子の耳に大きな息づかいが聞こえてきました。は、は、は、は、は、は、は、は、と異常なほどに早い呼吸音が聞こえてきました。波子は思います。おじいちゃんが怒ってるんだ。だからあんなに息を荒げてるんだ。
 波子はなんだかいよいよ笑わずには居られなくなってきました。そっか、なんだ、私もきっとどうかしちゃったんだ。波子の耳に絶え間なく荒い呼吸が聞こえます。すると、波子の指先がぼんやりと痺れてきました。やがてその痺れが指先から指全体へ、指全体から手のひらへ広がり、そして両手から感覚が消え去りました。あれ? 手、無くなっちゃった。ほんと、どうしたのかな、私。
「なみこ、いるのか?」
 がつんがつん。おじいちゃんは伸一の部屋のドアを叩きました。この中に波子はいる! この中にきっと居る! おじいちゃんは一心不乱にドアを殴りつけました。壊してしまおうと思いました。きっと波子はここに閉じこめられている。壊して助けなければ。助けなければ!
 大きな音を出すドアを見上げて、波子は本心から絶望していました。手足の痺れは手首にまで達し、妙に生々しく聞こえる呼吸音は先ほどより早さを上げています。なにこれ。なにこの息の音。ありえないよ! ありえないよ! 手は無くなっちゃうし、おじいちゃんの息づかいが聞こえるわけないのに!
 
 波子はようやく気づきました。このバカみたいに大きな息をする音は、私自身の呼吸音だ。波子にとって過呼吸という言葉は縁のないものでしたので、波子が自分の状態に気づいてもどうすることもできません。ただ無力に座り込むだけでした。
 口を大きく開けて異常なほど息を吸い、目にたくさんの涙を溜め込んだ波子は、ただただ叩かれるドアを見上げているだけでした。
 もういやだ。それだけを頭の中で繰り返していました。
 もういやだ。もう、いやだなぁ、ほんとにさ。
 波子の耳には雨音が大きく響いていました。ざあざあと雨が降っていました。雨音に混ざるように、おじいちゃんが波子を呼ぶ声が聞こえてきます。
 雨の音、おじいちゃんの声。
 雨の音、おじいちゃんの声。
 殺されるのかな。わたし。
 ドアが大きな音を立てて軋んでいます。雨足が一際強まってきました。おじいちゃんが波子を呼ぶ声も、いっそう大きくなりました。
 
 波子の心も、おじいちゃんのドアを打つ手も、共に限界を超えていました。もういっそ、自分からドアを開けてしまおうか。もしかしたらおじいちゃんは自分を許してくれるかも知れない。何に怒っているのかは知らないけれど、それでも許して貰えるのなら自ら出ていこうか。波子は涙で揺れる視界でドアを見つめていました。
 もういっか。出ちゃおうか。もう嫌だよ、本当に。辛いのは、いやだなぁ。
 波子が痺れる手を内鍵にかけたとき、雨音とおじいちゃんの声にまじって太鼓を打ちならすような音が聞こえてきました。波子は手を止めます。おじいちゃんの声も収まりました。その音は次第に大きくなってきます。波子はどこかで聞いたことのある音だと、酸素が過剰に駆けめぐる脳で考えていました。
 やがて音は一際大きくなり、ぴたりと止まりました。
 それからしばらく雨音だけが聞こえました。
 波子は玄関に座り込んだまま、少しも動くことができません。
 今の音、なんだっけ。
 私いま、なにしてるんだろう。
 こんなところで、ひとりぼっちで、何してるんだろう。
 波子は泣きました。勝手に涙が溢れてきました。涙と一緒に恐怖を押し出さないと、波子の心は粉々に砕け散ってしまいそうでした。
 しかし波子の耳は冴えていて、ドアの向こうで発せられた声をはっきりと聞き取りました。
 そしてまた、涙を流しました。

 「うちに何か用ですか?」

 石地万代がおじいちゃんを見据えて微笑みました。
 狂ったように微笑みました。

 石地万代は降りしきる雨を全身に浴びておじいちゃんを見据えていました。煙草を口にくわえて腕を組み、おじいちゃんを値踏みするように眺めていました。雨が我が身を濡らすことなどには芥ほどの感心もはらわずに、おじいちゃんの全身をなめ回すように削り取るように観察していました。髪を伝って雨粒が瞳に入ってもまばたき一つしませんでした。
「失礼ですが私が思うに」
 石地が言いました。
「不審者とお見受けします」
 おじいちゃんは石地を見て黙りました。石地も黙りました。沈黙が流れます。雨音だけが変わらずに鳴り響いていました。
「この降りしきる雨の中、全身泥まみれで人のアパートのドアをしこたまぶっ叩いている。実に妙だ」
 おじいちゃんは黙っています。
「更に言わせていただくと、このアパートはあまり人に知られていないはずです。不動産屋なんかにゃ広告はってませんからね。実際ここの住人は私ともう一人、二階の若い男だけだ。これがまた、その若い男ってのが結構キレてるんですよ。夜な夜な女を連れ込んでは大声で怒鳴って。怒声と悲鳴のハイブリッドで、寝られたもんじゃない。」
 石地はおじいちゃんの目を見て微笑みました。
「そんなひっそりとしたアパートに、どうしてあなたのような人が尋ねてきているのでしょうか。私にはあなたのような知り合いは居ないはずですが」
 おじいちゃんは石地を睨みました。
「嘘をつくな」
 石地は両手を広げて芝居がかった口調で言います。
「嘘? 嘘とはいったいなんの嘘ですかね」
 そして石地はおじいちゃんの目の前に歩み寄りました。二階の通路が屋根となり、二人は雨の直撃を免れます。
 石地はおじいちゃんが叩き尽くしたドアに寄りかかりました。
「ここに波子が居る」
「なみこ?」
 おじいちゃんは石地を見上げました。
「ここから刈羽の車が出てきたんだ。刈羽はここに波子を隠したんだ」
「いったい」
 石地が溜息をつきました。
「何を言っているのか、私にはさっぱりわかりません。」
「嘘をつくなっ!」
 おじいちゃんが怒鳴りました。石地はまるでひるみません。
「もしやその刈羽? という人は二階の住人ではありませんか? よくうちの前に大きな車が停まっていますよ」
 おじいちゃんは再び黙りました。
「乗っているのは専ら若い女のようですがね。見たところ学生のようだし、もしやご家族の方ですか? だとしたら年頃の女をむやみに外泊させないほうがいい」
「家族だと!?」
 おじいちゃんが絶叫しました。
「ふざけるなっ! ふざけるんじゃない! 刈羽と家族など、あってたまるものか!」
 元気な爺さんだな。石地は内心嘆息します。しかし表情は変えず、どこか自信に満ちた微笑をびたりと顔面に貼り付けたままでした。
 おじいちゃんは続けます。唾液を吹き飛ばして続けます。
「波子をとりもどすんだ! もう二度と失わないんだ! なんだってするぞ、なんだってしてやるんだ!」
 石地はポケットからソフトケースに入った煙草を一本取り出しました。煙草は雨に濡れてふやけていました。何とかならないものかと、手で擦ってみたり上下に振ってみたりします。その間もおじいちゃんは叫んでいました。
「波子とずっと一緒にいたいんだぁ……そのためなら何だって、何だって」
 石地は煙草を指で弾き飛ばしました。ふやけたそれは水溜りに墜落し、葉を散らして浮かびました。
「何だって、とおっしゃいますが、例えば何を?」
 石地が問います。おじいちゃんは少しだけ黙り、それからさも当然の事を口にするように、まるで朝の挨拶を交わすかのように、
「食べる。それか食べてもらう」
 と言いました。
 そりゃ良い。石地は無感動に言うと、おもむろに携帯電話を取り出しました。
 おじいちゃんは石地を怪訝な顔つきで見ています。
 すると石地は電話を操作し、つまらなそうな顔をして耳に当てました。
「あ、もしもし警察ですか。なんだか妙な人が家の前にいまして」
 おじいちゃんは目を見開き、おまえ何を! と石地に詰め寄ります。
 石地はのらりくらりとおじいちゃんを交わしました。
「ええ、ええ。国道沿いの、あぁはい。あ、そうですか、近くにパトカーがいる」
 石地はおじいちゃんを見て微笑みました。
「すぐ来てくれるんですね、いやどうも。じゃ、待ってますんで」
 石地が電話を耳から離すと、おじいちゃんは無くなった歯を食いしばり、今度は絶対的な敵意をもって石地を睨み付けました。
「若造が。くだらないことを」
「下らないとは心外な。私は自分ちのドアを愛していますから。それをしこたまぶん殴られて黙っていられるほどお人好しじゃない」
 おじいちゃんはまだ何かを言いたそうでした。しかし石地は間を置かずに話し続けます。
「ま。私も鬼じゃない。その刈羽とか波子? ナムコ? とかいうのは知りませんが、なにかしらの事情があるのでしょう。今すぐここから立ち去ってもらえれば、こちらとしても事を荒立てるつもりはありませんよ」
 おじいちゃんはしばらく考えて、ゆっくり石地に背を向けました。
「なみこ、なみこ」
 おじいちゃんは呟きます。もう石地のことなど考えていないようでした。
 そして静かに歩き始めました。
 ゆっくりゆっくり、のろのろと、よたよたと、よぼよぼと、未練たらしげに歩き去りました。
 その後姿に、石地は一言だけ問います。
「どちらへ?」
 おじいちゃんは歩みを止めずに言いました。
「刈羽のところ」
 石地はそりゃ良いと呟くと、おじいちゃんの後姿が見えなくなるまでドアの前に立っていました。完全に姿が見えなくなると、ポケットから封を切っていない新品の煙草を取り出し口にくわえ、安っぽいライターで火をつけました。煙を飲み、吐きます。しばらくその作業を繰り返し、ひとしきり終わると吸殻を地面に捨てました。
 
 石地が合鍵を使い、伸一のアパートのドアを開けました。
 柏崎波子が激しく呼吸を繰り返しながら、ただただ涙を流して倒れこんでいました。
「お、アンダインさんみたいだな。救急車を呼びたいところだけど、生憎警察にも消防にもお世話になれない立場でね」
 柏崎波子は、石地万代を見上げて泣いていました。
「吸うなよ、吐け。それか息するな。まったく、辛い時に辛い物を取り込んでどうする。これだからガキってやつは」
 本当に、かわいいもんだ。
 石地は言いませんでした。
 柏崎波子は、どうすることもできず泣いていました。
 ただただ涙を流して倒れこんでいました。



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