七 後編 三島伸一の感情輸出



 おじいちゃんが石地と対峙したその時から、少しだけ時間が遡ります。
 刈羽優がフロントガラス越しに見上げた空は、たっぷりと雨を蓄え込んだように黒色でした。それは今にもばらばらの水滴へと変わってしまいそうです。優は伸一の家を出たとき見た青空の面影を探してみましたが、四顧したところで雲に切れ間はありませんでした。
 粉砕された窓ガラスから雨を予感させる空気が流れ込み優と伸一の肌に触れました。優は乱れた髪を指先で梳ると伸一に問います。
「ね、石地さんちまだ?」
 伸一はもうすぐと短く答えました。優もそれに相づちを打つだけに留めます。
 二人の間にしばらく会話はありませんでした。車内に外気が流れ込む音が絶え間なく続きます。
 沈黙を持て余したのは優の方でした。おじいちゃんに追い回されて慣れない運転をした優は、緊張から解かれた今も平静を取り戻せずにいました。本来の彼女なら好きな音楽を流すのですが、それすらもままならないほどに疲弊していました。彼女は乾いた唇を開きます。
「ねぇ三島。石地さんのこと教えてよ」
 優は率直な疑問をぶつけました。石地万代とは一体何者なのか。彼女の持つ石地に関する知識は、伸一の保護者であるということに尽きます。しかし優は石地万代をその一言で片づけるつもりはありません。石地には保護者という肩書き以上にもっと納得のいく背景があると優は確信していました。
「石地さんの事っていっても、だから保護者だよ」
 伸一はどこか不満そうに答えました。優には伸一のこの不服そうな態度が疑問だったのです。
「なんかさ、嫌ってるの? 石地さんのこと」
「嫌っちゃいなよ。ヴェスパくれたし、面倒見てくれるし」
「感謝はしてるんだ」
 だろうね、と伸一は小さな声で呟きました。それは優が辛うじて聞き取れるほどの声量です。
「んじゃさ。石地さんってなんの仕事してるの? なんか金持ちっぽいけど」
「妙なこと聞くな」
 伸一が優を見て言います。
「そりゃ大人を語るキーワードは仕事か貯金しかないから」
 皮肉っぽい台詞に伸一は呆れたように笑いました。くだらねえ、と声に出さず飲み込みます。
「あの人は、なんつーのかな。記者じゃないけど取材とかしてるらしいよ」
「取材? マスコミ関係?」
「いや」 
 伸一が言葉を探します。
「フリーのライターとか言ってたな。世界中飛び回って怪しい伝統とか儀式とかについて調べてるんだと」
 そりゃ随分アバウトなお仕事だね。優は判然としない説明を咀嚼しました。
「あれ、ってことは雑誌とかに記事を書いちゃう人?」
「うん? そんなの見たこと無いけど」
「いやでもそうでもしないとお金にならないよね?」
 優は進路から目をそらし伸一を見ました。伸一は「そうなのか?」と聞き返してきます。
「あたしもよく知らないけどさ。原稿料とかで暮らしていくんじゃないの? あ、写真売ったりするのかな」
「どうだろうな。けどあの人もともと金持ちっぽいし、そもそも働く必要ないのかもな」
 なるほど。優は納得します。働く必要がないほどの蓄えがあるから、世界を駆けめぐるライターなどという酔狂な事をやっていられるのか。それでも優はどこか腑に落ちません。今朝、一瞬で伸一のアパートに居る波子の存在を悟り、立ち方が妙だという理由だけで足の怪我を言い当てた石地。人間の洞察力と推理力は研磨すればそこまで昇華されるものなのだろうかと疑念を抱きます。それはまるで、最初から全てを知っていたかのような的確な物言いだったのです。
 だとすれば、刈羽と柏崎という名字に反応したことも、納得がいくのです。
 いやいや、考えすぎだ。優は笑いました。
 伸一がシートでいずまいを正して告げます。
「そろそろ着くぞ」

 石地万代の住居はひっそりとした一軒家でした。周りには畑と草藪しかなく人通りもなさそうです。白い外壁は所々傷んでいて、建設されてから過ぎた長い時間を想起させました。その一軒家は二階建てで正面に洋風ドアの玄関があり、その前は砂利の敷かれた駐車場となっていました。
 二人はその駐車場に車を停めました。優は運転席から降りると車の周りを一周し破損の具合を確かめます。運転席側の窓ガラスは全壊し、右後部座席のドア付近にはカブを薙ぎはらった時についた擦り傷がありました。保険下りないんだよね、当たり前だけど。優は肩を落とします。
「先に行くぞ」
 伸一が合い鍵を取り出しドアを開けました。
「待ってよ、てか置いてくなよ女子をよ」
 二人は玄関をくぐりました。掃除された玄関には靴は一足もありませんでした。玄関を上がると正面に階段があり、その横にはリビングとキッチンがあります。一階には他にトイレや風呂があり、二階は石地の書斎と寝室になっています。
「ここに一人暮らしなの? でかすぎね?」
「なんだよ刈羽。随分知りたがるな石地さんのこと」
 伸一は優をリビングに案内しました。
「そう? 言っちゃなんだけど、随分怪しい人だよね石地さんて」
「そうか?」伸一は革張りのソファに座りながら返しました。優も隣に座って「そうだよ」と言います。
 二人はソファに並んで座っていました。
「え、三島。もてなそうよ。こちとらお客様よ」
「は? ここは俺んちじゃないぞ。勝手なことできるかよ」
「勝手に上がり込んでおいてそういう事言うの?」
「勝手するなら勝手なりに節度を持って勝手しろ。俺が石地さんから教わった言葉だ」
 随分勝手な言いぐさね、優は天井を仰ぎながら呟きました。目線だけを動かし部屋の中を見渡します。薄型の巨大なテレビが一台、高級そうなソファに瀟洒な印象のローテーブル。テーブルの上にはガラスの灰皿。あ、あの人煙草吸うんだ。優はそれを意外に感じていました。
「なーんかさ、生活感のない部屋ね」
「あんまりこっちに居ない人だからな」
 そりゃ生活感も出ないさ。伸一は優を見ずに言いました。
「普段はどこにいるの?」
「さぁ? 日本全国どっかにいるんだろ。この前まではずっと東京にいたけど、こっちで面白い風習かなんか見つけたから戻ってきたらしい」
 優は伸一の説明を聞いてただ気のない返事をするだけでした。結局それってよくわからないってことじゃん。
「謎のライター石地万代。随分格好いい肩書きね」
「刈羽が胡散臭さを格好良いと言うんなら、あの人は格好いい人なんだろうな」
 伸一の物言いに優は不服でした。しかしなるほど石地万代は胡散臭い男だな、と優は納得します。突然現れ舞台を引っかき回していくような、地震のような存在でした。言うなればそれは、波子や優、それに伸一達とはほど遠いところから来た異質の役者だったのです。
「なーんか、置いてけぼりくらってる気分」
 肩を落として溜息をつく優を、伸一は静かに見ていました。
 置いてけぼりか。と伸一は繰り返します。
 置いてけぼり、置いてけぼり、そうやって心の中で反芻します。
 置いてけぼりのその意味を、置いてけぼりのその価値を、伸一は思い描いてみました。
 そして、少しだけ勇気を出して優に語ります。伸一はなんだか急にそうしたくなったのです。
「俺だってずっとそうさ。関係あるのに、関係ないみたいなんだ」
 変だろ? 伸一がそう漏らします。
 変だね。
 優は正直に言いませんでした。
「ねぇ三島。ほんとはさ、石地さんとどういう関係なの?」
 伸一は鼻腔から冷めた息を押しだし、それから黙り込みました。
 しばらくの間、黙っているだけでした。
 窓の外から雨の音が聞こえてきました。
 タンタンと、雨の音が響いてきました。
 タンタンと、タンタンと。



 二人の間に静けさが喧しく膨らんでいきます。優が足を組むと革張りのソファが硬い音を発しました。
 静けさが飽和したリビングに時計の針の音が残響を残します。一秒の長さは決まっていないなと優は思いました。一秒は、こんなに長くないでしょ、いつもだったらさ。
 聞かなければ良かっただろうかと優は後悔します。他人の事情に立ち入り過ぎたかも知れないと憂います。しかし、優がそうしたかったのは事実なのです。先ほどの伸一が優に自分の気持ちを伝えた事と、たった今優が伸一に踏み込もうとした事には同じ理由がありました。純粋にお互いを知りたくなっていたのです。波子を通してしか関わり合えなかった二人は、おじいちゃんからの遁走を契機に少しずつ距離を縮めていたのです。
 それについては二人とも無自覚でした。
「まぁ、なんだ」
 伸一が口を開きました。
 優はばれないように身構えます。なんでもこい、そのまんま受けとめてあげるから。
「俺さ、もともと片親なんだよ。母さんと俺だけで東京に暮らしてたんだけど。これが男にも金にもだらしない人で」
 そこまで話すと伸一は優の顔を伺いました。優は伸一に目を向け、真剣な顔つきで相づちを打ちます。
「そんな母さんが家から居なくなってさ。俺を残してね」
 優は何も言いませんでした。
「で、しばらくしたら帰ってくるだろうと思って待ってたんだよ。インスタントの飯ばっかり食ってさ。それが中二の頃かな」
 優は伸一のアパートにあった大量のウィダーインゼリーを頭に浮かべます。もしかしてこいつ、本当に食事のつもりで食べてたのかな。それは哀れみに似た感想でした。
「まー帰ってこなくてさ。気づいたら飯はないし金もないし、いよいよヤバいと焦って家を出たんだ。でも出たところでどうすることもできない。しばらく新宿とか池袋とかで野宿してたな」
「そりゃ随分壮絶ね」
 伸一が皮肉めいた口調でスゴイだろ、とふざけます。今度は優が笑いました。
「警察に保護されるのも良いなとか思ってた。いや、ぶっちゃけどーでも良くなってたんだよ。ほんと、どうでも良くなってた」
 伸一は滔々と語り始めました。
 母親が至るところで借金と男を作っていたこと。男が来る日は家に入れてもらえなかったこと。手作りの食事を食べた記憶がないこと。母親と出かけた記憶がないこと。家よりも学校の居心地が良かったこと。家事は全て自分でしていたこと。家事があるので、母親の機嫌を悪くさせたくないので、学校が終わったらすぐ家に帰っていたこと。次第に暴力が生まれてきたこと。嘔吐するまで腹を蹴られたこと。失神するまで首を絞められたこと。
 それでも逃げられなかったこと。
 それでも嫌いになれなかったこと。
「馬鹿げてるだろ? 嫌なことなんて逃げちまえばそれで終わるってのに。俺はどうも逃げられなかった」
 優は何も言えませんでした。何も言わないのではなく、何も言えなかったのです。
「んで、結局母さんが居なくなったってわけ。すげー裏切られた気分でね。いや、もともと裏切るほど繋がりもなかったのかも知れないけど」
 話はそこで途切れました。
 伸一は「いやー語った語った」と言い、優は「語られた語られた」と精一杯平静を装い答えました。
「そこで石地さんの登場だよ」
「野宿中に?」
 伸一は首を振りました。
「いや、ちがう。あの人のタイミングが悪かったのはその時だけだったな、そういや」
「じゃあいつ?」
「それがわからないんだよ」
 優は首を傾げます。伸一はおかしそうに笑いました。
「俺、死んでたみたいで」
「死んでた?」
「意識はなかったし衰弱してた。気を失ってしばらく経ってたんだろうな。そんな状態死んでるのと大差ないだろ」
「ないない、それはない。生きてる生きてる」
「ノリ悪いな刈羽。名言候補だったのに」
 それで気づいたらベッドの上さ。伸一は呆れたように言いました。
「石地さん曰くなんとなく拾ってみたらしい。たまたま死にそうだった俺を、ただなんとなく気が向いたからという理由で。それから結局母さんは見つからないし、石地さんもいっそ何もかもが新しいこっちで生活したらどうかって言ってくれたんだ」
「こんなド田舎で?」
 理由なんてわからないよ。伸一は自嘲めいた口調で言いました。
「それがついこの前か。あんまり新しい生活って感じじゃなかったんだけどな、昨日までは」
 こんなもんだよ、俺の話は。言うと伸一は両手を組み頭上で伸ばしました。
「他人の人生なんてつまんねーもんだよな。特に俺らみたいなガキの人生なんて、六畳一間のようなもんだろ。狭いんだよ、何もかも」
 わざとらしく人生語る人間よりは百倍マシだと思うけど。
 優は正直に言いませんでした。
 かわりに隣に座る伸一の脇腹を肘の先で小突き、それからわざとらしくそっぽを向きます。
 伸一は笑いました。
 優は笑いませんでした。
「薬、どこにあんのよ」
 笑いませんでしたが、頬を少しだけ赤らめていました。

 伸一が薬は石地の寝室にあると優に教えました。二人は階段を上り、二階にある寝室へ向かいます。ドアの前へ立つと、優は他人の部屋に勝手に入ることに改めて罪悪感を抱きました。
「勝手に入っていいのかな?」
「まぁいいだろ。別になんか盗みに来たわけじゃないし、いつ帰ってくるかわからない人を待ってるのもアホくさい」
 そっか、と優はそれでも躊躇していました。
「なんかさ、あれよね。ベッドルームに男と入るのって妙な感じだね」
「は? なんで?」
「なんでとか聞くなよ」
 伸一は優の目を見て首を傾げます。
「あれか、襲われるとかまたそういう、刈羽ってあれだよな、心底あれだよな」
「どれよ」
「あれはあれだよ」
 ドアを開け二人は寝室に入りました。
 シンプルな部屋でした。セミダブルサイズのローベッド。ベッドの高さに合わせたナイトテーブル。その上にはコースターと栞の挟まった小説と、綴じられた書類が置いてあります。
「なんかホントに生活感ないね」
「ごちゃっとしたのが嫌なんじゃないか」
 伸一がナイトテーブルの脇まで行き腰を下ろします。
「このテーブル、天井が開くんだよ。薬とか現金がなんとこの中に」
「現金?」
 伸一が白い封筒を取り上げました。表に石地殿と筆で宛名が書かれたそれは、封筒の限界に挑むかのように厚く膨れています。
「うっそ、なにそれ」
「現金」
「ジンバブエのお金じゃないでしょうね」
「日本円!」
 これが格差か。優は呟きました。
 伸一はそんな金の山を元の場所に戻します。優は正直パクッちまえよバレねぇよ、と思いましたがそこは堪えました。
「んでこれ薬箱」
 伸一が木箱を取り出しました。紫色の十字があしらわれ、その下に「鈴路製薬」と書かれていました。
「げ。趣味わる。紫十字とか見たこと無いよ」
「刈羽って結構文句多いよな。まぁいいや、薬の事なんてわかんないし、薬箱ごと持ってこう」
 伸一がナイトテーブルのふたを元に戻しました。その様子を見ていた優の視界に、ふと書類のタイトルが映り込みます。
「ん、なにその書類」
 優は興味本位でその書類を拾い上げました。A4サイズの紙に明朝体でタイトルが印刷されています。
 子宮輸入論と。
「子宮……輸入論?」
 書類には子宮輸入論に関しての調査報告という語句がありました。中を開くと、各ページにはバーコードが一つずつ載っていて、それ以外には一切文字はありませんでした。これじゃ読めないじゃん。優は不思議に書類をめくり続けます。結局最後までバーコードが配置されているだけでした。もしや石地はバーコードを読めるタイプの人間なのだろうかと優は邪推します。
「なんだ? その書類」
 伸一もそれに興味を抱き、優が見る書類をのぞき込みます。
「え、ちょ、近い近い」
 優は焦りました。あれ、なにこれ、近くね? 覗き込んでるんだろうけどさ、いやそれだけだろうけどさ。
「なんだこれ?」
 さらに伸一は書類を覗き込みました。二人の腕が触れ合い、だんだんと優の身体に伸一の体重がよりかかります。
「ちょ、ほんと、うわ倒れるって!」
 二人はベッドに倒れ込みました。
 スプリングが衝撃を受けとめ、緩めの反発を返します。
 シーツから埃が浮かび上がりました。
「ご、ごめん」
 優の上に乗った伸一が謝ります。
「あ、あたしのほうも」
 ごめん、と言った優の声は消え入りそうでした。
 優はたまらず伸一から目を逸らします。
「なんてべたな」
 そう言ったのは意外にも伸一の方でした。そしてあっさりと優の上から身をどけます。あれ、と拍子抜けしながらも優は体を起こしました。
「わるいけど、こういうガラじゃないんだよ、俺」
 伸一が笑います。
 二人は笑いながらベッドに腰掛けました。ひとしきり笑った二人は、今日何度目ともわからない沈黙を抱え込みました。二人はすっかり書類のことなどどうでも良くなっていました。
 今二人には石地の書類のことなど考える余裕も必要もありません。
 柏崎波子について考えていれば良かったのです。
 守る方法を、優は考えていました。
 流されるだけでいいのかと、伸一は考えていました。
 今はただ、それだけを考えていれば良いのです。


 まもなく石地万代から三島伸一の携帯電話へ連絡が入りました。
 柏崎波子を探す老人と対峙したこと。
 柏崎波子が過呼吸に陥ったが保護したこと。

 老人が刈羽の家へ行くと言い残していたこと。
 優は「嫌な確信」を持ちました。
 嫌な予感だったら幾分気楽なのになと、全身から力が抜けていくのを感じながら。
 
 雨が降り続いていました。



sage