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  • 八 我利と我意



     石地万代の運転するミニクーパーの後部座席で、柏崎波子の意識は寿命を終える蛍光灯のように明滅を繰り返していました。起きているような寝ているような、動いているような停まっているような、沈んでいるような浮かんでいるような混濁でした。自分を失ってしまいそうな曖昧でした。肉体から境界線が消え失せたような散開でした。ついに溶けることができたのかと波子はおぼろげに満足します。
     ああこれで私は私を失ったんだ。このまま外の雨と混ざってしまえば、ずっとずっと無いままでいられる。
     波子はうっすらと目を開けました。皮のシートに涙が浮いていました。波子は思います。自分の欠片が落ちていると。車の振動に合わせて波子の欠片が揺れます。波子は想いました。優ちゃんだったら掬ってくれるのかな。優ちゃんだったら、救ってくれるのかなぁ。
     波子はゆっくりと目を閉じました。両手に広がる痺れを感じます。また、呼吸が速くなってきました。波子の荒い息を聞いた石地が、後部座席へマクドナルドの紙袋を放り投げました。
    「それ口に当ててな。鼻と口を一緒に袋に入れて、隙間塞いで息するんだ」
     波子は言われた通りにしました。両手がプツプツと痺れて上手く動きません。
    「過呼吸ってやつだよ」
     石地がルームミラーで波子を見ました。波子は目を閉じたまま紙袋を顔に押し当てています。
    「人間ってのは面白いよな。正常であるために異常な状態を作り出すんだ。キミがいま水槽から飛び出た金魚みたいになっているのは、まぁ言っちまえば生きていくためなんだよ。今までと同じようにな。俺は勝手にそう思ってる」
     波子は石地の話を聞いていませんでした。
     ずっとずっと、刈羽優のことを考えていました。刈羽優にすがりついていました。
    「血中の酸素の濃度が高くなってんだ。だから紙袋に息吐いて、酸素の薄まった空気をまた飲み込むのさ」
     次第に波子の手から痺れが引いていきます。その間ずっと優のことを考えていた波子にとって、過呼吸から解放してくれたのはマクドナルドの油くさい紙袋ではありませんでした。
    「死にそうなほど辛いらしいが死ねないんだってな。過呼吸じゃ。残酷なもんだ」
     波子の呼吸に合わせてマクドナルドの紙袋が萎んだり膨らんだりします。先ほどから油の臭いが強く、波子は過呼吸から解放されるかわりに吐き気に支配されていきました。
     波子は口内にあふれ出す唾液を飲みこもうと喉を引っ込めます。食道が下りてきた唾液を押し返すように痙攣しました。
     あ、吐くなこれ。
     その矢先に波子は紙袋に嘔吐しました。紙袋が重たくなります。石地は波子を一瞥して「全部出しちまえよ」と促しました。車内に胃酸の悪臭が広がりました。石地が優しく溜息をついて窓を開けました。新鮮な空気が入り、吐瀉物の異臭を押し出します。
    「……ごめんなさい」
     波子は声を震わせそれだけ言いました。
    「いいよ。紙袋よこせ」
     そう言われて波子はシートの上に体を起こしました。涙の小さな水たまりが壊れ、どこかへと消え失せました。紙袋を受け取ると、石地は開け放たれた窓からそれを放り投げました。宙を舞う紙袋から波子の吐瀉物とマクドナルドのフライドポテトが四散します。
    「あれ。俺ポテト食ってなかったのか。どーりで油くさいわけだ。そりゃゲロも吐くな」
     波子は紙袋が地面に衝突するのを見届けてから、再び皮のシートに横になります。
    「波子ちゃん、制服汚れてないか?」
    「あ、はい。大丈夫です」
    「そりゃ良い。どうだ、だいぶ楽になったんじゃないのかい?」
     言われて波子は自身の諸手から痺れが消えているのに気づきます。まだ少し感覚はぼやけていますがそれは些事でした。
    「もう大丈夫です」
    「じゃ、もうしばらく休んでな。いま伸一と優ちゃんの所に向かってる」
     優の名を聞くと波子は安心しました。よかった、優ちゃんに会えるんだ。
    「ごめんなさい。すこし眠れそうにないです」
     波子の身体は倦怠感に覆われていました。手足が熱を持ち、視界が捻れます。先ほど吐き散らかしたばかりの口の中は苦く、とても眠れそうにはありませんでした。
    「そうか、じゃーおじさんとお話でもするかい?」
    「お話、ですか?」
    「ああ、お話だ」
     石地が窓を閉めました。古めかしいエンジン音が振動となり二人を揺らします。この小さな車のどこからこんなに大きな揺れと音が来るのか波子には理解できません。
    「伸一についてキミはどう思う?」
     え、と波子は不意をつかれます。
    「伸一って……」
    「そりゃ三島伸一のことさ。見た目も子ども、頭脳も子どもな彼だよ」
     それはなんだか意地の悪い言い方だな、と波子は動揺しました。もしかして、この石地万代という男は伸一を良く思っていないのではないだろうか。一瞬そんな予想が波子の頭をよぎります。
    「どうって言われても、私は、とにかくお世話になりっぱなしで」
    「うん。そういう話しではなくて、あいつの行動に関してさ」
     石地が赤信号を無視しました。波子は後ろ手に消える赤い光を目で追います。
     波子は口を開きません。
    「そうだな。優ちゃんはそこそこ能動的で行動的だ。無鉄砲で無計画で配慮に欠けるところもあるけれど、それでも彼女は何かしらの信念、そう信念だな。おそらくそういったものを動機に行動している」
     車が大きく左折しました。波子の身体がシートの上で滑ります。
    「けれども伸一は、あいつはどうなんだろうな。そういう手に余ったが故に行動に出るような哲学を持っているのかな」
     波子には石地の言った、手に余ったが故に行動に出るような哲学がなにかわかりません。それは言い換えれば、思わず行動してしまうような動機のことなのですが、石地はその動機に哲学を求めているのです。それはまるで息をすることに哲学を持ち出すような行為でしたが、しかし彼が彼たる所以はそういった微々たるものに価値を見いだすところにありました。路傍の石ころにも、部屋の隅の塵にも、石地万代は価値を探すのです。彼はそうやって、世界と関係しているのです。
    「わたしは」
     波子は言います。
    「哲学とかはわからないけど、だけど、三島君には感謝してます」
     石地は波子の言葉を頭の中で繰り返しました。
    「感謝という言葉は抽象的なもんだよ」
     石地は煙草を取り出し火を点けました。一度煙を肺に循環させ、思い出したように窓を開けます。
    「なあ、波子ちゃん」
     石地は目を細め、煙を口から溢れさせながら、言いました。
    「伸一と友達になってくれねーかな」
     波子は喉が詰まるのを感じました。友達、その言葉がうまく理解できませんでした。
     友達、友達ってなんだっけ。あ、優ちゃんだ。優ちゃんは友達だ。私のたった一人の友達だ。でも、ああ、でも、なんで友達なんだっけ。
     石地は問います。
    「友達は、いるかい?」
     波子は答えます。
    「一人います。優ちゃんがいます」
    「失うのは怖いか?」
     波子は黙りました。
    「質問を変えるよ。失うのは、もう嫌かい?」
     波子の脳が震えました。その震えは、波子に疼痛となって襲いかかります。顔をゆがめて波子は
    「どういうことですか?」
     と聞き返しました。
     石地は一気に煙草を吸い込みます。大量の煙を吐くと、吸い殻を灰皿ですりつぶしました。

    「友情なんてよ、ままならねーものだよな。信用も信頼も全ては裏切るための前戯みたいなものかもしれない。お互いが支え合うなんて体のいいこと言っちゃいるが、あんなもん身を寄せて暖まってるだけかもしれない。切磋も琢磨もやりすぎれば削弱だ。友は盾だと思わないか?」

     波子は言葉が出てきませんでした。
     何のために自分は刈羽優と友達として関係しているのだろう。他の人たちは、友達をなんだと思っているのだろう。
     波子は思います。
     私は優ちゃんに甘えているだけなのかもしれないな。優ちゃんにすがっているだけなのかも知れないな。だって優ちゃんは優しいから。だって優ちゃんは救ってくれるから。その安心感に、しがみついているだけなのかもしれないなぁ。他の人はいつか突然消えてしまうかも知れないから(波子の頭が痛みました)友達になれないのかな。ああ、私なに考えてるんだろ。石地さんと話してるんだった。答えなきゃ。答えなきゃだ。
     石地は波子の答えを待たず続けます。
    「でもさ、それでもいいからさ」
     波子の頭が痛みました。一瞬、残酷なほどに切なく。
    「友達になってやってくれよ。伸一と」


     ミニクーパーが騒音をまき散らしながら石地邸の駐車場に入ると、見計らったかのように優と伸一が玄関から飛び出してきました。手には傘を持っていましたが、焦る二人は雨を避けきれていませんでした。
     優はすかさずシートに横たわる波子に駆け寄りました。脱力してうなだれる波子を抱きかかえます。波子は優の胸に溶け込むように身を委ねました。疲れ切った心と体を安息が満たします。優は思わず涙を流しながら波子を強く抱きました。
     伸一は石地の元へ歩み寄り、勝手に家に入ったことを謝罪します。石地は「別にいいけどベッド汚してねーだろーな」とふざけました。伸一には今ひとつ意味が分かりませんでしたが「あの染みって洗えば落ちるけど洗うまでが目立つんだよ」と言われたところで石地にローキックをお見舞いしました。骨を捕らえる感触に伸一は確かな手応えを感じます。石地は笑ってその蹴りを受けると、ミニクーパーのボンネットに寄りかかり言いました。
    「さてお三方。つっても波子ちゃんはまだ朦朧としてんな。電話でも言ったがキレたじいさんが刈羽の所に向かってるらしい」
     波子を抱えたまま優が石地を見ます。相変わらず石地は雨など気にしていないようでした。
    「どーも俺には刈羽って名前に聞き覚えがあるんだ」
     優が静かに言いました。
    「その人、なんて言ってましたか」
    「さてね。けど相当刈羽って名前を忌み嫌っていた」
     石地は優を見て微笑み、訊きます。
    「いったい、あのじいさんはどこへ行って何をしようってんだろうな」
    「どうせ、あたしの家にでも行くんでしょ」
     そういった優の声は震えていました。
     明瞭としない意識の中、波子は優のその言葉を聞きました。
     なんで優ちゃんの家に?
    「それなら話しは早いな」
     石地がボンネットから体を離しました。
    「刈羽の所とやらへ行きますか」
     事態を飲み込めない伸一の顔を見てから、優は波子の表情を覗き込もうとしました。しかし頭を垂れる彼女の顔を見ることはできず、それがまた一段と、優を不安にさせるのです。

     石地万代が高校生三人を乗せて重たくなったミニクーパーを発進させたその時、おじいちゃんは刈羽優の実家のインターホンを鳴らしました。雨音に抗うような機械的な単音が、塀に埋め込まれた黒いインターホンから鳴ります。優の母が応対に出るまでの間、おじいちゃんは冷たい雨を微動だにせずに浴びていました。髪の抜けた頭部へ雨粒があたります。その洗礼によって精神の揺らぎが幾ばくか安定すると、身体の隅々から容赦のない痛みが脳を目がけて迫り上がってきました。おじいちゃんは歯を失った口を結びそれに耐えます。波子の顔を思い浮かべるのです。死んだ息子とその嫁の顔を思い描くのです。そうすれば身体の痛みなどどうってことありませんでした。道路についた擦り傷がいつの間にか消え去るように、おじいちゃんの身体から痛みは引いていきました。
     やがてインターホンから女性の声が聞こえました。優の母が何者かを訪ねると、おじいちゃんは柏崎ですとだけ答えました。インターホン越しの霞がかった気配からでも、優の母が息をのんだことがわかりました。ほんの数秒二人の間から会話が途絶えました。おじいちゃんの後ろを車が一台、水たまりを踏みつぶして通り抜けていきます。優の母は声色を暗くして、どうぞお入り下さいと言うと、玄関の鍵を開けました。

     おじいちゃんはリビングに案内されました。優の母は雨にうたれたおじいちゃんを見て、バスタオルと暖かい緑茶を用意しました。おじいちゃんはテーブルに向かう椅子に腰掛けると、そのバスタオルにも緑茶にも一切手を付けず優の母を見据えました。優の母は震える体を沈めようと、自分で自分を抱くように両手で身体をこすります。
    「おまえの娘はどこだ」
     おじいちゃんが言いました。
    「昨晩家を出たきり、行方は知りません」
     優の母がおぼつかない口調で答えました。
    「波子が居なくなった。おまえの娘に持っていかれた」
    「そんな、私は、わかりません」
    「いったいおまえらはっ!」
     おじいちゃんが勢いよくテーブルを打ちました。緑茶の入った湯飲みが揺れます。
    「いくつウチから奪っていけば気が済むんだ!」
     優の母はうつむき、顔を真っ赤にして黙り込みました。
     掛け時計の秒針が音を立てて進みます。
    「……ごめんなさいっ」
     絞り出すような謝罪でした。擦り切れるような嗚咽でした。優の母は椅子から立ち上がり、床に手をつき頭をつき、おじいちゃんに謝りました。申し訳ありませんと謝りました。ゆるしてくださいと謝りました。すいませんと謝りました。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいと、骨の髄まで差し出すように、舌の根まで引き抜くように、ごめんなさいと繰り返しました。
     おじいちゃんは土下座する優の母に掴みかかり吠えます。
    「ごめんなさいだと! 謝られて、それでこちらはどうすればいい! 許せると思うか! 見過ごせると思うか! 大切なものを壊しておきながら、あんなに残酷に、あんなに、あんなに、あ」
     おじいちゃんはせき込みました。吐き出しそうになるのを抑えます。目尻に涙を浮かべ、さらに捲し立てます。
    「おまえは自分の子の臓物を浴びたことがあるのか! 血を飲み込んだことがあるのか! 目ん玉を拾ったことがあるのか! 子が目の前で潰れたことがあるのか!」
     優の母の首に、おじいちゃんの細い手が巻き付きました。ゆっくりゆっくり、力が込められます。優の母の白い首筋に、緑色した太い血管が浮かび上がりました。とても鮮やかに、優の母から命が薄らいでいきます。
    「のうのうと生きやがって! 娘も旦那も失っていないおまえに! 謝られたくなどないわっ!」
     優の母は必死に抵抗しました。足を踏ん張り、血液の回らない頭に力をこめ、おじいちゃんの手を振り払おうとします。しかしおじいちゃんの力はとても老人のそれとは思えないほどに強く、優の母は思ったとおりに動けませんでした。徐々に薄らいでいく意識に、母は死を実感します。
     持てる力を全て出し、母はおじいちゃんの身体を押しました。
     おじいちゃんもそれに抵抗し、力ずくで優の母を押さえつけようとします。お互いの力は行き場を無くし、弾けるように二人は倒れ込みました。
     おじいちゃんは床に尻餅をつきました。
     優の母は、倒れ込むようにして、テーブルの角に額を打ち付けました。
     骨の削れる音が響き、母が床に突っ伏します。
     うめき声を上げながら仰向けになった母の額はぱっくりと割れて、光を反射しない赤色がどろどろとあふれ出ていました。
     血液が眼球を汚し、赤い涙のように目尻から流れ落ちます。
     おじいちゃんはその様子を見て息をのみます。心臓が溶けていくような焦燥感にかられます。
     割れた額から覗く煉瓦のような色をした肉を見ると、おじいちゃんの体中に汗が浮かび上がりました。
     口の端から唾液を垂らしながら、息も絶え絶え母は告げます。
    「だんなは、じさつ、しました」
     おじいちゃんはそれを聞いて、おそるおそる優の母の元へよります。
    「旦那は先月、自殺しました」
    「なんだと?」
     優の母が大きくせき込み、床に粘度の高い唾液をこぼしました。
    「部屋で首をつり、死んでいました」
    「いや、まて、そんな。……う、嘘をつけ、線香の匂いなんてしないじゃないか」
    「葬式はあげていません」
     そもそも、と優の母は続けます。溢れ出る血液とは裏腹に、優の母は落ちついた様子でした。
    「旦那が死んだことは、優にも言っていません。あの件より意志薄弱の状態が続いていました。だから、あの子には、父親はどこかへ失踪したと言ってあります」
     おじいちゃんは何もできませんでした。
    「遺体も、山の奥深くへ埋葬してきました」
     どこか悲しそうに、とても申し訳なさそうに、母は語ります。
    「これが」
     優の母から鼻血が垂れました。視線はくるくると安定せず、独り言を言っているようにも見えました。
    「これが、報いなんでしょうね。仰るとおり、なぜ、私は生きているのでしょうね。旦那が罪に耐えきれず死を選んだのに、なぜ、私は、生きてるのかなぁ」
     最後に、ねえ優ちゃん。と呟くと、母は目を閉じ意識を失いました。
     おじいちゃんは立ちすくみました。
     動かなくなった優の母を見ていると、それではなぜ貴方も生きているのですか、と理不尽な質問をされている気分になりました。
     
     おじいちゃんは刈羽家から逃げました。
     今までになく、心が揺らいでいるのを無視しながら、逃げました。

     床に倒れて頭部を血の海に浸す母親を発見して、優はその場に座り込んで泣きました。目を見開いたまま、たくさん涙をこぼしました。何も言葉は出てこず、身体はまるで動きませんでした。音も何も聞こえませんでした。目の前で、自分の母親が、止まっている。その光景だけをじっと見つめていました。波子が優の身体を揺らしながら何か叫んでいます。伸一も必死に何かを訴えようとしています。それでも優には何も届いていませんでした。二人の声はただの無音でした。発せられた言葉は、優の鼓膜に触れるとその意味を崩壊させるのです。
     視界を遮るように、波子が優を抱きしめました。小さな身体に優の頭が埋まります。優は頭に冷たいものを感じました。それは波子の涙とか、鼻水とか、優を助けたくて助けたくてあふれ出たものでした。しかしそれも優には響きませんでした。視界を遮られても、母親の血に染まった姿しか見えません。血に浮かぶ姿だけが鮮烈に脳裏に焼き付いていました。崖のように割れた額とその深淵で凝固した赤黒い血液。なにか決定的な光景でした。どこか確定的な状況でした。それらは優に、とても単純に滑らかに、母親の死亡を連想させました。
     波子が一際強く優を抱きしめました。痛いほどに抱きしめました。優はその痛覚で、少しだけ冷静になります。痛い。痛いってば。どうしてそんなに強くするの。波子、痛いよぅ。嫌だよ、波子。嫌だよ。
    「やだよう」
     刈羽優の慟哭がリビングに響き渡りました。
     波子はただただ優を抱きしめました。抱え込みました。包み込もうと努力しました。それしかできないと、自覚していました。
     伸一は何もできませんでした。耳を突き抜ける優の泣き声に、自分も一緒に泣きそうになる事くらいしかできませんでした。
     石地万代はいつもの調子で告げます。
    「生きてるぞ。死にそうだけど」
    「え?」
    「放っておけば死ぬけど、生きてるって言ってるんだ」
     石地が伸一を呼びます。
    「伸一、足の方持て。できるだけ揺らさないように、車まで運ぶぞ」
     伸一が慌てて優の母の両足を抱えました。その光景を、波子と優は呆然と見ています。
    「い、石地さん。どうするんですか。俺達、病院には……」
    「知ってる。いや、俺も普通の病院はいけない」
    「じゃあどうすれば」
    「普通じゃない病院に行くんだよ。ブラックジャックみたいな奴が居るんだけど、まぁ、仕事仲間ってやつだ」
     石地と伸一が優の母を抱えて、玄関前に停めてあるミニクーパーへ向かいました。動けないで居た波子と優も、助かるかも知れないと察すると、母の搬出を手伝います。優のワイシャツに母の血液が染みこみました。優はまだ涙をこぼし、唇が切れるほど歯を食いしばっています。
     外はまだ雨でした。狭い後部座席に優の母を詰め込むと、伸一は助手席に、波子と優は後部座席の足下に身体を詰め込みました。
     エンジンをかける石地に向かって、伸一が真剣な口調で尋ねます。
    「石地さん、あなた本当に何者なんですか。普通じゃないですよ、いろいろと」
     俺はおちこぼれだよ。煙草を吸いながら石地万代は真実だけを伝えました。

     石地が四人を連れてきた病院は、とても医療を行う現場とは思えないほど汚れていました。そもそも看板もなにも出ておらず、見てくれは普通の民家です。玄関を開けると微かに消毒液の匂いと、それをうち消すほどに煙草の匂いが充満していました。
     石地は暗い廊下の奥から出てきた男に事情を説明します。無精ひげを生やした禿頭の男でした。歪んだ眼鏡をかけて、面倒くさそうに舌打ちをしています。運び込まれた優の母を見ると、その場で傷口を眺めたり脈を計ったりして、こんなショボイ怪我でウチに来るなよと毒づきました。石地はそれを適当にあしらいました。
     優と波子と伸一は不安でした。こんなところ病院じゃない。それだけを思っていました。
    「あ、あの」
     波子が口を開きます。石地と禿頭の男が会話を止め、波子を見ました。
     波子は足が震えているのに気づかない振りをします。
    「優ちゃんのお母さんを、助けてください」
     そういうと頭を勢いよく下げました。
     その勢いのまま玄関に倒れ込みました。波子もまた、自身の怪我と心労により、満身創痍なのです。
    「ったくよー、めんどくせーやつらだなー万代」
     禿頭の男が石地を睨みます。石地は笑いました。
    「なかなかおもしれーだろ」
    「クソみたいにつまらないよ。俺はブラックジャックじゃないんだ。優しさ見せられても見せられなくても、きっちり仕事はしてやるよ」
     そういうと禿頭の男は優の母と波子を診察室へ運び込みました。
     治療が行われる間、優と伸一と石地は待合室で待つように言われました。
     待合室はただの居間でした。

     雨音が聞こえてきます。
     待合室で待つ三人は、しばらく何も話していませんでした。
     一度石地が車から、優の制服の上着を取ってきた時に簡単な会話がなされただけです。優は身体が冷えていたので、制服の上着をありがたく受け取りました。
     伸一は考え込んでいました。
     石地万代について、考えていました。
     あまりにも不自然だと思っていたのです。このような普通でない医者と仕事仲間だということ。石地邸で見つけた「子宮輸入論」という聞き慣れない言葉。タイミング良く、実にタイミング良く、おじいちゃんから波子を救ったこと。タイミングで言えば、今朝伸一のアパートに石地が現れたことすらも妙なのです。そう、そもそも、なぜ東京で死にかけた自分を救ったのか。それすらも、不自然でした。まるで不自然であることが自然なように石地万代は存在していました。まるで最初から全てを知っているかのように。
     まるで全てを見通しているかのように。
    「本当のことを言うよ」
     伸一は顔を上げました。
     優が、まっすぐと前を見ていました。
    「もう、隠してても意味無いよね」
     石地が例の歪んだ笑みを浮かべました。
     伸一は、その笑みを見逃しませんでした。

    「波子の両親を殺したのは、あたしのお父さん」
     刈羽優は語ります。



    sage