九 前編 泣き戻し再生


 三島伸一は刈羽優の頬に涙の跡を見つけました。それは先ほど、動かない母を見て優が流した涙の跡でした。そこだけ化粧が落ちたように肌の色が変わっています。伸一は、あの涙の跡はまもなく今より濃くなるのだろうなと予感しました。外で降る雨よりずっと冷たく重たい液体が、頬の上を滑るように落ちるのだろうと。
 なんだかずっと誰かが泣いている気がするなと、なかなか話し出せない優を見て伸一が考えました。波子をヴェスパではね飛ばした時から、優がお母さんの血にまみれた時まで、ずっとずっと誰かが何かで。それで自分は泣けたのかと伸一は自問します。初めて三人が揃った自室で、少しだけ泣いたような泣いていないような、そんな程度でした。薄情という単語が浮かびすぐ消えました。しかし思えば、昨日はじめて知り合ったと言っても差し支えない連中のために泣ける方が奇特だと、伸一はそう思うことにしました。まるで自分だけ物語に無関係で、帆を失った船みたいで、惨めになってしまうから、彼はそう思うことにしました。
 もちろん少しも納得しないまま。
 刈羽優が話しを始めたので、伸一は考えるのをやめました。
「殺したっつっても、事故なんだけどね」
 そういう優の表情は、いつか伸一に見せた諦観を内在した微笑みでした。
「でもさ、それでもさ、死んじゃったことには変わらないんだ。あたしのお父さんのせいで。てかね、実はけっこーあたしのせいでもあるんだ。これってどういう意味かわかる?」
 優は伸一に問いました。伸一は反射的に「いや、わからない」と答えました。
 石地が頬を掻きました。
「もうね、あっさり人って死んじゃうんだね」
 なんでもそうだけどさ、と話しは続きます。
「卵を床に落としたときも、お皿を割っちゃうときも、自転車がパンクするときも、鉛筆の芯が折れるときも、なにかの些細な拍子で、すごくあっさり壊れちゃう。それと同じ。人が死ぬ時って、本当にあっさりしてる」
「あっさり……」
 伸一はオウム返しをして石地を横目で見ます。石地はいつも通りのつかみ所のない表情でした。
「そ、あっさり。すごい勢いで訪れて、怖いほど静かなんだよ、死ぬのって。急に現れてデリカシーが無くて土足で踏み込んできて綺麗さっぱり持ち去られる。それが、死ぬって事の実際だよ」
 優は、石地の腕時計から秒針の動く音が聞こえたような気がしました。
 とても静かです。
「ごめん、話し逸れたね。ちょっと昔話っぽくなっちゃうけどいいかな?」
「ああ、続けて」
 石地はゆっくりと頷いて言いました。
「それじゃ」
 刈羽優は語ります。


「あたしが6歳くらいの時だよ。トラックの運転手やってたお父さんがね、仕事はやく終わったんだ。そういう日はいつもどっか連れて行ってくれるんだけど、その日はさ、仕事に使うトラックに乗せてくれたの。ずーっと乗りたくてね。でかいトラックだったから、チビ助のあたしには動く家みたいに見えてた。荷台が全部アルミの幌っていうのかな、外からじゃ中が見えないタイプで、その中にはベッドとかテレビとかお風呂があるはずだって疑わなかったんだよ、あたしは」
 バカだろ? 優は一人で笑いました。
「でもね運転席は狭かったんだ。それだけでもかなり不満だってのに、荷台を見せてもらったらなんにも入ってないの。てっきり秘密基地みたいな空間だと思ってたから、それがまた一段と気にくわなくてね。ちんちくりんのあたしは激怒です。激怒したんです」
 優が鼻をすすりました。
 伸一が不安げに覗き込んだ優は、まだ泣いていませんでした。
「んでさ、それでもお父さんは笑ってあたしを助手席に置いてくれたんだ。あたしもね、最初はふてくされていたけれど、トラックのクラッチ操作とかでっかいハンドルとか、そういうの見てたらワクワクしちゃって。あっさり機嫌は直ったわけよ。そしたら今度ははしゃいじゃって。シートベルト外してさ、お父さんがダメだって言ってるのに、ダメだって、ダメって、言ってくれたのに、聞かなくてさ、あたしはね、あたしはさ、運転席の下にね、潜り込んで……」
 優は顔を真っ赤にしていました。
 声が震え、息を止めています。
「はぁ、バカなんだ、マジ。ブレーキの前に陣取っちゃったの。そりゃ、停まれないよね。そのまんま、交差点に突っ込んでって、一台の車をぺっちゃんこにしちゃった」
 優は一度深呼吸をして、乱れた息を整えました。
「それが、波子の家の車」
 伸一は、話しが始まったときからそうだろうなと思っていました。
 しかしそう思っていたところで何になると言うのでしょうか。彼は話しを聞き続けます。
「お父さんはあたしごとブレーキを踏んだりギア落としたりして必死にトラックを停めた。あたしはよくわからないまま、お父さんを追って車を降りて、事故った相手の車まで走っていった。車はかなり吹っ飛んでて、ウチのトラックより先のガードレールにぶつかって止まってたよ。派手に事故った車って見たことある? けっこーグロいの」
「グロい?」
 石地が聞きました。
「はい、グロいんですよ」
 優が可笑しそうに言いました。
「完成したものが捻れるってのは、なんかグロテスクな気がして。エンジンとかパーツとかが、内蔵みたいにドバーっと出てきて。オイルはまるで血みたいにあふれ出すし、ボディは新聞紙丸めたみたいにグシャグシャになっちゃうし」
「なるほどね、確かにそりゃグロテスクだ」
 それは考えたこと無かったな。そういう石地に伸一は違和感を覚えました。今はそういう話しじゃないだろうと。けれども彼はそれを言えません。
「でもね」
 優は伸一を見て続けます。
「車の中の方が、もっと酷かったの」
 はっきり覚えてるんだ、忘れたいのに。そういう優の手は、力強くスカートを掴んでいました。
「波子のお母さんね、無くなってた。身体の上半分。トラックのでっかいタイヤが引きちぎっていったんだ。よく見ると車の中にね、内蔵とか、髪の毛のついた肉とかがへばりついてるの。吹っ飛んだときにぐるぐる回って、その遠心力で車内に飛び散ったんだろうね」
 上半身を失った人間のスプリンクラー。一本につながっていた消化器は分断され、内蔵とそれを守っていた腹膜も、筋肉も、張り巡らされた神経も、末節に至る血管も、赤い霧となり車内を染め上げたのです。波子のお母さんは、粉々にされたのです。一つの固まりだったお母さんは、粉砕され蹂躙され飛び散り砕け散り、車のシートや天井に吸い込まれてしまったのです。カーペットにこぼしたコーヒーのように、その存在を取り込まれてしまったのです。
 伸一はその車内を想像して吐き気を覚えました。
 優は続けます。
「もっと酷いのはお父さんの方。首が後部座席の方向いちゃってて、口の端から血の泡が湧き出てるんだ。窓ガラスにも顔をぶつけたみたいで、蜘蛛の巣みたいに顔が割れてた。目を支えてた筋もほとんど切れちゃってて、ほっぺに飛び出た目玉をぎりぎり一本でぶらさげてたな。しかもね、身体がずっと痙攣してるの。トラックから逃げるみたいに、ハンドルを握る手が動いてた。まだ人の形だったからさ、あたしにはそっちのが余計生々しくて」
 波子が格好いいねと言ったサングラスは、車外に放り出され道行く車に踏みつぶされました。捻転した脊髄が、死亡する直前の運動をひたすら繰り返すように身体を動かしました。事故から回避するように、生きていた最後の瞬間を取り戻すように、巻き戻しと再生をひたすらに繰り返したのです。
 優は自身の口を押さえました。目を瞑り、粘る唾液を飲み込みます。唇が乾いていました。
「それから、波子のおじいちゃん。口からいっぱい血を垂らしてた。鼻もね、あり得ない風にひしゃげてるの。鼻の付け根から血が出てても鼻血って言うのかな。とにかく、おじいちゃんは生き延びたんだね。気絶してたけど」
 石地がポケットから煙草を取り出し、何もせずにしまいました。優はどうぞ、と言いましたが、石地は「ついね、ごめんな」と煙草に火を点けませんでした。
「でもね」
 優は堪えます。涙を、逃げ出したい気持ちを、叫びたい衝動を、押さえ込みます。
「波子はね、傷一つ付いてないの。おっきい目をもっと大きくして、死んでいくお父さんをじーっと見てた」
 伸一は優の顔を見ていられませんでした。壊れそうになる人間の顔を、見ていられませんでした。
「顔を両親の血でぐちゃぐちゃにしてさ。じっと、崩れた父親の顔を、見てたんだ」
 事故の日の記憶はそこで急に途切れてる。そう優は言いました。それは事実でした。その後の事故の処理も、父親の様子も、優は忘れてしまっていました。事故の現場の血生臭さと腸からこぼれ落ちた便の臭いを脳裏に焼き付けて、内臓の現実離れした鮮やかな色とスクランブルエッグのような皮下脂肪を記憶に刻み込んで、最後に波子の汚れた顔を瞼の裏に貼り付けて、その他の一切を忘れていました。
「ここまでが事故の話し。あたしはいままでずっと、人を殺したと思ってる」
 伸一と石地は黙って優を見つめました。
 待合室という名の居間には、時計の針の音だとか、どこからか聞こえてくる冷蔵庫のモーター音だとか、誰かが唾を飲み込む音がゆらゆらと溢れていました。
 とても、静かでした。
 すこしも、泣かずに。

「はい、それで全てが終わり。このお話は、これで全部おしまい」
 優が静寂を切り裂くように諸手を打ち合わせました。破裂音が鳴ります。優は合わせたままの手を、正座する太股の上にゆっくりと落としました。力無く両手が垂れ下がっています。
「つってね。幼かったあたしは、きっとそこでこのお話を終えてもよかったんだよ。事故の後はすげー大変そうだったな。お金とか、もちろんお父さんは会社には居られなかったし、あたしの想像できないところで両親は償い続けたんだろうね」
「どうして優ちゃんはそこでその事故を終わらせなかったんだい?」
 石地の問いに優は少し間をおき、
「波子が居たからです」
 と言いました。
「波子については何も知りませんでした。あたしにとっては、事故にあって生き残った柏崎家の女の子。その程度でした。最初は」
「最初は、ね」
 石地が何度か頷きます。
「でも次第に、なんていうのかな、凄く謝りたくなりました」
「柏崎に?」
 伸一が問います。おじいちゃんではなく、波子に謝りたくなったのは何故だろうかと、伸一は思いました。
「そ、波子に」
「なんでまた、柏崎に?」
「うん。波子のおじいちゃんがさ、よくウチに来たんだよ。事故の処理についてとか、もちろんそんなのは弁護士なり保険屋なりが正式にやってたんだろうけど、個人的に来たんだ。今にも飛びかかってきそうな、恨み尽くした顔をしてさ」
 伸一はおじいちゃんの顔を思い浮かべました。どこにでもいるありふれた大多数の老人。その内に秘められた激しい怒り。今朝車越しに見た、老人とは思えない破壊行動。
「何度も怒鳴り声が聞こえた。あたしはおじいちゃんが来るたび、部屋にこもって音楽を聴いてたの。それしか無いんだ、あの人の声を聞かないで済む方法が。それからかな、ずっと音楽聴くようになったのは」
 優は無意識にアイポッドを探しました。スカートのポケットにあるはずのそれが無く、優はステージアの車内に忘れたことを思い出します。
 ああくそ、耳が寒い。
「ごめん。話しが逸れたけど、それでもちょっとは耳に入ってくるわけよ。大人の会話って奴が。そこでね、何度も耳にするようになったのが、波子の名前」
 優が柏崎波子について知ることになったのは、彼女がトイレに行くためにリビング前の廊下を通ったときでした。おじいちゃんと優の両親が、怯えるように吐き散らすように会話をしているのが耳に入ったのです。優と同い年の孫は、これからどうやって生きていけばいいのだ。それはおじいちゃんの弁でした。親を亡くし、凄惨な現実を目の当たりにし、この先まっとうに生きていけるはずがない。幼い優の耳には、事故の日血染めになって目を見開いていた少女が、自分と同い年であるという事実だけが深く深く残りました。幼い優はトイレに駆け込み、便器に腰掛けてドアをじっと見て、ズボンをおろすのは忘れて考えました。
 ああ、あの子は自分と一緒の年なのに、お父さんもお母さんも死んじゃったんだ。死んじゃったんだから、もうずっと会えなくなっちゃったんだ。だからもうオムライスも作ってもらえないんだ(それは優がお母さんに作ってもらう、大好きなものでした)。だからもう肩車もしてもらえないんだ(それは優がお父さんにしてもらう、大好きなことでした)。自分がお父さんの邪魔をしなかったら、あの子のお父さんとお母さんは元気だったのかな。優は悪い子なんだ。悪い子なんだ! 悪い子だ!
「それからよ」
 優はその日一番大きく嘆息しました。肺胞が萎み、肋骨が軋みます。
「ガキんちょのくせに一丁前に罪の意識が芽生えたんだ。ずっとずっと、ごめんなさいって言いたかった。あたしのせいでお父さんとお母さんが死んじゃって、本当にごめんなさい、許してください。ずっと、そう言いたくて、だっさいんだけど、今もまだ言えてない」
 そうそう簡単にはいかなかった、優は続けます。
「波子を捜し出すことが難しかった。事故以来、お父さんはずっと黙っちゃうし、お母さんもぼけーっとしちゃうし、とても柏崎波子に謝りたいんだけどどこにいるの? なんて聞けなかったよ。中学校くらいになって、しょぼいなりに知恵がついたから図書館で新聞調べたり、とにかくできる限り事故に関する情報を集めて、なんとか波子の家を知ることができた」
「やっぱりやんちゃだな、キミは」
 石地が言うと優は小さく微笑みました。彼女は少しだけ、救われたような気持ちでした。
「でもね、実際に波子を見たら、声をかけることすらできなかった。波子はあたしと出会ったのを高校入学の時だと思ってるだろうけど、あたしはそのずっと前に波子を見つけてたんだよ。それなのに、びびっちゃってさ。ずっとずっと探していた子が居るのに……」
 間をおき、
「笑ってんだよ、波子って」
 喉をふるわせて、刈羽優は「まじ、信じられなかった」と言いました。
 だってさ。優は垂れ流すように続けます。もし自分が波子と同じ立場だったとしたら、きっと笑顔なんて置き去りにして生きてしまうに違いない。笑って学校に行けるはずがない。そう優は言いました。波子が事故の記憶を、保身のために脳の奥底へ埋めたことは知らずに、優は波子にある種の恐怖に似た感情を抱いていたのです。波子を見つけるまで、優は未発達で脆く儚い精神をむりやり働かせていました。償うことの意味もろくにわからないというのに、ただ単に償うために波子を捜していたのです。自分がこんなに辛い思いをして探しているのなら、きっと両親を失った波子はもっと辛く苦しいのだろう。そう決めつけていた優にとって、波子の笑顔はまさに不意打ちでした。あるはずのない笑顔が、柏崎波子の顔に張り付いていたのです。だから意味が分からなく、とても怖かったのです。
「ありえねーよ、なに笑ってんだよって思った。あれはいつだろうね、中学生の真ん中くらいかな。どうも話しかけられなくて、それでも謝りたくて、だからずっと波子のことは気にかけてた」
「もしかして、進学先も調べたとか?」
 伸一が訊ねます。
「そ。ストーカーっぽいだろ。同じ高校入るために、あたし結構勉強したんだよ」
 伸一は、笑っていいのか笑わずに受け取るべきなのか決めかね、結局優が続きを話しました。
「でもね、それでもね、謝んなきゃって思った。ここまで来ると義務感だよね、馬鹿げてるけど、あたしはあたしの罪を償うべきだって、そう思ってる」
 そりゃ良い。とても良い心掛けだ。石地は言わずに待合室の入り口に目を配りました。
 そして、すこしだけ考えて、何も言わず、優に目線を戻します。
「それから高校生になって、これはマジで偶然だけど、波子と一緒のクラスになれたんだ。これでやっと謝ることができる。ごめんなさいって言える。そう思ったんだけど、思ってたんだけどなぁ」
 優は語りました。すこしだけ楽しそうに、語りました。
「これが、まぁ、本当に良い奴でさ。事故の事なんてぜんぜん臭わせずに、さらっと両親は死んじゃったんだ。って言うんだよ。なんかもう、拍子抜けも拍子抜け。話すと可愛くて、守ってあげたくて、なんだかすごく優しくて、なにが優しいのかなんて考えたこともないけど、波子に救われちゃったんだ」
 優は語りました。すこしだけ切なそうに、語りました。
「あたしさ、大好きなんだ。波子のこと。世界で一番大好きだ。この世で一番大切だ。なにがなんでも一緒にいたい」
 波子はあたしの生きる理由なんだ。優はそう呟きました。
 とても悲しそうな声を出して。すがりつくように涙をためて。まとわりつくように声を震わせて。
 生きる理由なんだ、と己に言い聞かせるように繰り返しました。
 短絡的で視野が狭く、自己肯定的で詭弁とも取れる生き様でした。それ故に、優のその言葉は石地万代の心を少しだけ揺さぶります。
「優ちゃん」
 石地万代が言いました。
「わるくない生き方だ。自分一人で考えて、それが正しいと思いこんで、誰の意見も聞かず誰の助けも乞わず、己の道を突き進むことに無意識に陶酔している。それが正しいと信じている。自分は正しい、自分はよくやっている、自分は自分は自分は」
 刈羽優はうつむきました。
 石地万代は彼女を見据えて言葉を放ちます。
「彼女が優しいから謝れない? 自分がやらしいから謝れないんだよ。キミが世界で一番大好きなのは自分自身だ。守ってあげたいのも自分自身だ。最初の衝動は純粋だったのかも知れない。だが、考えてごらん。今の自分はどうだ。何かにつけてできない理由を探し、あまつさえそれを他人に求めている。随分立派な生きる理由だな」
 刈羽優は、顔を真っ赤にしてスカートを握りしめ、それでも怒りを隠さずに石地万代を睨み付けました。
 その顔を見て、石地万代は微笑みます。
「素直になっちまえよ。だいたいの人間がクズでゴミでチリでカスなんだ。脳みその中はネジレていて、欲望のせいでヒズミができてんだよ。その下卑た汚らしさが、自分勝手な正義感が、生きていくことのとりあえずの理由だろうが」
 優は顔をくしゃくしゃにして、美しい顔を台無しにして
「それじゃあ! それじゃあ、どうすれば、あたしどうすれば良いんですか!」
 そう叫びました。
「どうしたいんだよ」
 石地は一言だけ返します。
 優はいよいよ泣き出して、「だから、だから」と反復しました。
 石地によってむき出しにされた本心に抗うように、必死に言葉を飲み込みました。
 でもだめです。もう刈羽優はだめです。
 今までの刈羽優では、だめなのです。
「だから!」
 すべて本心でした。
「だからさあ、だからさあ! 嫌われたくないよう。本当のこと、ちゃんと謝らなきゃなのに、言えないよう。」
 優は、泣きました。
「ごめんね波子って、言えないよう」
 石地は優の頭を撫でました。
「だって、だって、言ったら嫌われちゃうもん。言えないよう」
 三島伸一は二人の姿を見て、結局自分は何もしていないのだということを、はっきりと自覚しました。

 柏崎波子は刈羽優の独白を、待合室の入り口の前でじっと聞いていました。
激しい頭痛に耐えながら。

 すこしも、泣かずに。
 三島伸一は刈羽優の頬に涙の跡を見つけました。それは先ほど、動かない母を見て優が流した涙の跡でした。そこだけ化粧が落ちたように肌の色が変わっています。伸一は、あの涙の跡はまもなく今より濃くなるのだろうなと予感しました。外で降る雨よりずっと冷たく重たい液体が、頬の上を滑るように落ちるのだろうと。
 なんだかずっと誰かが泣いている気がするなと、なかなか話し出せない優を見て伸一が考えました。波子をヴェスパではね飛ばした時から、優がお母さんの血にまみれた時まで、ずっとずっと誰かが何かで。それで自分は泣けたのかと伸一は自問します。初めて三人が揃った自室で、少しだけ泣いたような泣いていないような、そんな程度でした。薄情という単語が浮かびすぐ消えました。しかし思えば、昨日はじめて知り合ったと言っても差し支えない連中のために泣ける方が奇特だと、伸一はそう思うことにしました。まるで自分だけ物語に無関係で、帆を失った船みたいで、惨めになってしまうから、彼はそう思うことにしました。
 もちろん少しも納得しないまま。
 刈羽優が話しを始めたので、伸一は考えるのをやめました。
「殺したっつっても、事故なんだけどね」
 そういう優の表情は、いつか伸一に見せた諦観を内在した微笑みでした。
「でもさ、それでもさ、死んじゃったことには変わらないんだ。あたしのお父さんのせいで。てかね、実はけっこーあたしのせいでもあるんだ。これってどういう意味かわかる?」
 優は伸一に問いました。伸一は反射的に「いや、わからない」と答えました。
 石地が頬を掻きました。
「もうね、あっさり人って死んじゃうんだね」
 なんでもそうだけどさ、と話しは続きます。
「卵を床に落としたときも、お皿を割っちゃうときも、自転車がパンクするときも、鉛筆の芯が折れるときも、なにかの些細な拍子で、すごくあっさり壊れちゃう。それと同じ。人が死ぬ時って、本当にあっさりしてる」
「あっさり……」
 伸一はオウム返しをして石地を横目で見ます。石地はいつも通りのつかみ所のない表情でした。
「そ、あっさり。すごい勢いで訪れて、怖いほど静かなんだよ、死ぬのって。急に現れてデリカシーが無くて土足で踏み込んできて綺麗さっぱり持ち去られる。それが、死ぬって事の実際だよ」
 優は、石地の腕時計から秒針の動く音が聞こえたような気がしました。
 とても静かです。
「ごめん、話し逸れたね。ちょっと昔話っぽくなっちゃうけどいいかな?」
「ああ、続けて」
 石地はゆっくりと頷いて言いました。
「それじゃ」
 刈羽優は語ります。


「あたしが6歳くらいの時だよ。トラックの運転手やってたお父さんがね、仕事はやく終わったんだ。そういう日はいつもどっか連れて行ってくれるんだけど、その日はさ、仕事に使うトラックに乗せてくれたの。ずーっと乗りたくてね。でかいトラックだったから、チビ助のあたしには動く家みたいに見えてた。荷台が全部アルミの幌っていうのかな、外からじゃ中が見えないタイプで、その中にはベッドとかテレビとかお風呂があるはずだって疑わなかったんだよ、あたしは」
 バカだろ? 優は一人で笑いました。
「でもね運転席は狭かったんだ。それだけでもかなり不満だってのに、荷台を見せてもらったらなんにも入ってないの。てっきり秘密基地みたいな空間だと思ってたから、それがまた一段と気にくわなくてね。ちんちくりんのあたしは激怒です。激怒したんです」
 優が鼻をすすりました。
 伸一が不安げに覗き込んだ優は、まだ泣いていませんでした。
「んでさ、それでもお父さんは笑ってあたしを助手席に置いてくれたんだ。あたしもね、最初はふてくされていたけれど、トラックのクラッチ操作とかでっかいハンドルとか、そういうの見てたらワクワクしちゃって。あっさり機嫌は直ったわけよ。そしたら今度ははしゃいじゃって。シートベルト外してさ、お父さんがダメだって言ってるのに、ダメだって、ダメって、言ってくれたのに、聞かなくてさ、あたしはね、あたしはさ、運転席の下にね、潜り込んで……」
 優は顔を真っ赤にしていました。
 声が震え、息を止めています。
「はぁ、バカなんだ、マジ。ブレーキの前に陣取っちゃったの。そりゃ、停まれないよね。そのまんま、交差点に突っ込んでって、一台の車をぺっちゃんこにしちゃった」
 優は一度深呼吸をして、乱れた息を整えました。
「それが、波子の家の車」
 伸一は、話しが始まったときからそうだろうなと思っていました。
 しかしそう思っていたところで何になると言うのでしょうか。彼は話しを聞き続けます。
「お父さんはあたしごとブレーキを踏んだりギア落としたりして必死にトラックを停めた。あたしはよくわからないまま、お父さんを追って車を降りて、事故った相手の車まで走っていった。車はかなり吹っ飛んでて、ウチのトラックより先のガードレールにぶつかって止まってたよ。派手に事故った車って見たことある? けっこーグロいの」
「グロい?」
 石地が聞きました。
「はい、グロいんですよ」
 優が可笑しそうに言いました。
「完成したものが捻れるってのは、なんかグロテスクな気がして。エンジンとかパーツとかが、内蔵みたいにドバーっと出てきて。オイルはまるで血みたいにあふれ出すし、ボディは新聞紙丸めたみたいにグシャグシャになっちゃうし」
「なるほどね、確かにそりゃグロテスクだ」
 それは考えたこと無かったな。そういう石地に伸一は違和感を覚えました。今はそういう話しじゃないだろうと。けれども彼はそれを言えません。
「でもね」
 優は伸一を見て続けます。
「車の中の方が、もっと酷かったの」
 はっきり覚えてるんだ、忘れたいのに。そういう優の手は、力強くスカートを掴んでいました。
「波子のお母さんね、無くなってた。身体の上半分。トラックのでっかいタイヤが引きちぎっていったんだ。よく見ると車の中にね、内蔵とか、髪の毛のついた肉とかがへばりついてるの。吹っ飛んだときにぐるぐる回って、その遠心力で車内に飛び散ったんだろうね」
 上半身を失った人間のスプリンクラー。一本につながっていた消化器は分断され、内蔵とそれを守っていた腹膜も、筋肉も、張り巡らされた神経も、末節に至る血管も、赤い霧となり車内を染め上げたのです。波子のお母さんは、粉々にされたのです。一つの固まりだったお母さんは、粉砕され蹂躙され飛び散り砕け散り、車のシートや天井に吸い込まれてしまったのです。カーペットにこぼしたコーヒーのように、その存在を取り込まれてしまったのです。
 伸一はその車内を想像して吐き気を覚えました。
 優は続けます。
「もっと酷いのはお父さんの方。首が後部座席の方向いちゃってて、口の端から血の泡が湧き出てるんだ。窓ガラスにも顔をぶつけたみたいで、蜘蛛の巣みたいに顔が割れてた。目を支えてた筋もほとんど切れちゃってて、ほっぺに飛び出た目玉をぎりぎり一本でぶらさげてたな。しかもね、身体がずっと痙攣してるの。トラックから逃げるみたいに、ハンドルを握る手が動いてた。まだ人の形だったからさ、あたしにはそっちのが余計生々しくて」
 波子が格好いいねと言ったサングラスは、車外に放り出され道行く車に踏みつぶされました。捻転した脊髄が、死亡する直前の運動をひたすら繰り返すように身体を動かしました。事故から回避するように、生きていた最後の瞬間を取り戻すように、巻き戻しと再生をひたすらに繰り返したのです。
 優は自身の口を押さえました。目を瞑り、粘る唾液を飲み込みます。唇が乾いていました。
「それから、波子のおじいちゃん。口からいっぱい血を垂らしてた。鼻もね、あり得ない風にひしゃげてるの。鼻の付け根から血が出てても鼻血って言うのかな。とにかく、おじいちゃんは生き延びたんだね。気絶してたけど」
 石地がポケットから煙草を取り出し、何もせずにしまいました。優はどうぞ、と言いましたが、石地は「ついね、ごめんな」と煙草に火を点けませんでした。
「でもね」
 優は堪えます。涙を、逃げ出したい気持ちを、叫びたい衝動を、押さえ込みます。
「波子はね、傷一つ付いてないの。おっきい目をもっと大きくして、死んでいくお父さんをじーっと見てた」
 伸一は優の顔を見ていられませんでした。壊れそうになる人間の顔を、見ていられませんでした。
「顔を両親の血でぐちゃぐちゃにしてさ。じっと、崩れた父親の顔を、見てたんだ」
 事故の日の記憶はそこで急に途切れてる。そう優は言いました。それは事実でした。その後の事故の処理も、父親の様子も、優は忘れてしまっていました。事故の現場の血生臭さと腸からこぼれ落ちた便の臭いを脳裏に焼き付けて、内臓の現実離れした鮮やかな色とスクランブルエッグのような皮下脂肪を記憶に刻み込んで、最後に波子の汚れた顔を瞼の裏に貼り付けて、その他の一切を忘れていました。
「ここまでが事故の話し。あたしはいままでずっと、人を殺したと思ってる」
 伸一と石地は黙って優を見つめました。
 待合室という名の居間には、時計の針の音だとか、どこからか聞こえてくる冷蔵庫のモーター音だとか、誰かが唾を飲み込む音がゆらゆらと溢れていました。
 とても、静かでした。

「はい、それで全てが終わり。このお話は、これで全部おしまい」
 優が静寂を切り裂くように諸手を打ち合わせました。破裂音が鳴ります。優は合わせたままの手を、正座する太股の上にゆっくりと落としました。力無く両手が垂れ下がっています。
「つってね。幼かったあたしは、きっとそこでこのお話を終えてもよかったんだよ。事故の後はすげー大変そうだったな。お金とか、もちろんお父さんは会社には居られなかったし、あたしの想像できないところで両親は償い続けたんだろうね」
「どうして優ちゃんはそこでその事故を終わらせなかったんだい?」
 石地の問いに優は少し間をおき、
「波子が居たからです」
 と言いました。
「波子については何も知りませんでした。あたしにとっては、事故にあって生き残った柏崎家の女の子。その程度でした。最初は」
「最初は、ね」
 石地が何度か頷きます。
「でも次第に、なんていうのかな、凄く謝りたくなりました」
「柏崎に?」
 伸一が問います。おじいちゃんではなく、波子に謝りたくなったのは何故だろうかと、伸一は思いました。
「そ、波子に」
「なんでまた、柏崎に?」
「うん。波子のおじいちゃんがさ、よくウチに来たんだよ。事故の処理についてとか、もちろんそんなのは弁護士なり保険屋なりが正式にやってたんだろうけど、個人的に来たんだ。今にも飛びかかってきそうな、恨み尽くした顔をしてさ」
 伸一はおじいちゃんの顔を思い浮かべました。どこにでもいるありふれた大多数の老人。その内に秘められた激しい怒り。今朝車越しに見た、老人とは思えない破壊行動。
「何度も怒鳴り声が聞こえた。あたしはおじいちゃんが来るたび、部屋にこもって音楽を聴いてたの。それしか無いんだ、あの人の声を聞かないで済む方法が。それからかな、ずっと音楽聴くようになったのは」
 優は無意識にアイポッドを探しました。スカートのポケットにあるはずのそれが無く、優はステージアの車内に忘れたことを思い出します。
 ああくそ、耳が寒い。
「ごめん。話しが逸れたけど、それでもちょっとは耳に入ってくるわけよ。大人の会話って奴が。そこでね、何度も耳にするようになったのが、波子の名前」
 優が柏崎波子について知ることになったのは、彼女がトイレに行くためにリビング前の廊下を通ったときでした。おじいちゃんと優の両親が、怯えるように吐き散らすように会話をしているのが耳に入ったのです。優と同い年の孫は、これからどうやって生きていけばいいのだ。それはおじいちゃんの弁でした。親を亡くし、凄惨な現実を目の当たりにし、この先まっとうに生きていけるはずがない。幼い優の耳には、事故の日血染めになって目を見開いていた少女が、自分と同い年であるという事実だけが深く深く残りました。幼い優はトイレに駆け込み、便器に腰掛けてドアをじっと見て、ズボンをおろすのは忘れて考えました。
 ああ、あの子は自分と一緒の年なのに、お父さんもお母さんも死んじゃったんだ。死んじゃったんだから、もうずっと会えなくなっちゃったんだ。だからもうオムライスも作ってもらえないんだ(それは優がお母さんに作ってもらう、大好きなものでした)。だからもう肩車もしてもらえないんだ(それは優がお父さんにしてもらう、大好きなことでした)。自分がお父さんの邪魔をしなかったら、あの子のお父さんとお母さんは元気だったのかな。優は悪い子なんだ。悪い子なんだ! 悪い子だ!
「それからよ」
 優はその日一番大きく嘆息しました。肺胞が萎み、肋骨が軋みます。
「ガキんちょのくせに一丁前に罪の意識が芽生えたんだ。ずっとずっと、ごめんなさいって言いたかった。あたしのせいでお父さんとお母さんが死んじゃって、本当にごめんなさい、許してください。ずっと、そう言いたくて、だっさいんだけど、今もまだ言えてない」
 そうそう簡単にはいかなかった、優は続けます。
「波子を捜し出すことが難しかった。事故以来、お父さんはずっと黙っちゃうし、お母さんもぼけーっとしちゃうし、とても柏崎波子に謝りたいんだけどどこにいるの? なんて聞けなかったよ。中学校くらいになって、しょぼいなりに知恵がついたから図書館で新聞調べたり、とにかくできる限り事故に関する情報を集めて、なんとか波子の家を知ることができた」
「やっぱりやんちゃだな、キミは」
 石地が言うと優は小さく微笑みました。彼女は少しだけ、救われたような気持ちでした。
「でもね、実際に波子を見たら、声をかけることすらできなかった。波子はあたしと出会ったのを高校入学の時だと思ってるだろうけど、あたしはそのずっと前に波子を見つけてたんだよ。それなのに、びびっちゃってさ。ずっとずっと探していた子が居るのに……」
 間をおき、
「笑ってんだよ、波子って」
 喉をふるわせて、刈羽優は「まじ、信じられなかった」と言いました。
 だってさ。優は垂れ流すように続けます。もし自分が波子と同じ立場だったとしたら、きっと笑顔なんて置き去りにして生きてしまうに違いない。笑って学校に行けるはずがない。そう優は言いました。波子が事故の記憶を、保身のために脳の奥底へ埋めたことは知らずに、優は波子にある種の恐怖に似た感情を抱いていたのです。波子を見つけるまで、優は未発達で脆く儚い精神をむりやり働かせていました。償うことの意味もろくにわからないというのに、ただ単に償うために波子を捜していたのです。自分がこんなに辛い思いをして探しているのなら、きっと両親を失った波子はもっと辛く苦しいのだろう。そう決めつけていた優にとって、波子の笑顔はまさに不意打ちでした。あるはずのない笑顔が、柏崎波子の顔に張り付いていたのです。だから意味が分からなく、とても怖かったのです。
「ありえねーよ、なに笑ってんだよって思った。あれはいつだろうね、中学生の真ん中くらいかな。どうも話しかけられなくて、それでも謝りたくて、だからずっと波子のことは気にかけてた」
「もしかして、進学先も調べたとか?」
 伸一が訊ねます。
「そ。ストーカーっぽいだろ。同じ高校入るために、あたし結構勉強したんだよ」
 伸一は、笑っていいのか笑わずに受け取るべきなのか決めかね、結局優が続きを話しました。
「でもね、それでもね、謝んなきゃって思った。ここまで来ると義務感だよね、馬鹿げてるけど、あたしはあたしの罪を償うべきだって、そう思ってる」
 そりゃ良い。とても良い心掛けだ。石地は言わずに待合室の入り口に目を配りました。
 そして、すこしだけ考えて、何も言わず、優に目線を戻します。
「それから高校生になって、これはマジで偶然だけど、波子と一緒のクラスになれたんだ。これでやっと謝ることができる。ごめんなさいって言える。そう思ったんだけど、思ってたんだけどなぁ」
 優は語りました。すこしだけ楽しそうに、語りました。
「これが、まぁ、本当に良い奴でさ。事故の事なんてぜんぜん臭わせずに、さらっと両親は死んじゃったんだ。って言うんだよ。なんかもう、拍子抜けも拍子抜け。話すと可愛くて、守ってあげたくて、なんだかすごく優しくて、なにが優しいのかなんて考えたこともないけど、波子に救われちゃったんだ」
 優は語りました。すこしだけ切なそうに、語りました。
「あたしさ、大好きなんだ。波子のこと。世界で一番大好きだ。この世で一番大切だ。なにがなんでも一緒にいたい」
 波子はあたしの生きる理由なんだ。優はそう呟きました。
 とても悲しそうな声を出して。すがりつくように涙をためて。まとわりつくように声を震わせて。
 生きる理由なんだ、と己に言い聞かせるように繰り返しました。
 短絡的で視野が狭く、自己肯定的で詭弁とも取れる生き様でした。それ故に、優のその言葉は石地万代の心を少しだけ揺さぶります。
「優ちゃん」
 石地万代が言いました。
「わるくない生き方だ。自分一人で考えて、それが正しいと思いこんで、誰の意見も聞かず誰の助けも乞わず、己の道を突き進むことに無意識に陶酔している。それが正しいと信じている。自分は正しい、自分はよくやっている、自分は自分は自分は」
 刈羽優はうつむきました。
 石地万代は彼女を見据えて言葉を放ちます。
「彼女が優しいから謝れない? 自分がやらしいから謝れないんだよ。キミが世界で一番大好きなのは自分自身だ。守ってあげたいのも自分自身だ。最初の衝動は純粋だったのかも知れない。だが、考えてごらん。今の自分はどうだ。何かにつけてできない理由を探し、あまつさえそれを他人に求めている。随分立派な生きる理由だな」
 刈羽優は、顔を真っ赤にしてスカートを握りしめ、それでも怒りを隠さずに石地万代を睨み付けました。
 その顔を見て、石地万代は微笑みます。
「素直になっちまえよ。だいたいの人間がクズでゴミでチリでカスなんだ。脳みその中はネジレていて、欲望のせいでヒズミができてんだよ。その下卑た汚らしさが、自分勝手な正義感が、生きていくことのとりあえずの理由だろうが」
 優は顔をくしゃくしゃにして、美しい顔を台無しにして
「それじゃあ! それじゃあ、どうすれば、あたしどうすれば良いんですか!」
 そう叫びました。
「どうしたいんだよ」
 石地は一言だけ返します。
 優はいよいよ泣き出して、「だから、だから」と反復しました。
 石地によってむき出しにされた本心に抗うように、必死に言葉を飲み込みました。
 でもだめです。もう刈羽優はだめです。
 今までの刈羽優では、だめなのです。
「だから!」
 すべて本心でした。
「だからさあ、だからさあ! 嫌われたくないよう。本当のこと、ちゃんと謝らなきゃなのに、言えないよう。」
 優は、泣きました。
「ごめんね波子って、言えないよう」
 石地は優の頭を撫でました。
「だって、だって、言ったら嫌われちゃうもん。言えないよう」
 三島伸一は二人の姿を見て、結局自分は何もしていないのだということを、はっきりと自覚しました。

 柏崎波子は刈羽優の独白を、待合室の入り口の前でじっと聞いていました。
激しい頭痛に耐えながら。

 すこしも、泣かずに。


sage