九 中編 シケ


 柏崎波子は無意識に一歩下がりました。
 まばたきするのも忘れ、待合室の入り口のドアをただじっと見つめます。このドアを開けてはならない。波子の本能が警鐘をならしました。もし開けてしまったら、もし跨いでしまったら、もし踏み込んでしまったら、すべてが終わってしまう。世界は暗転し、一瞬のうちに崩れ去ってしまう。絶え間なく襲い掛かる頭痛に顔を歪めながら、波子はもう一歩ドアから離れました。世界の終わりがすこし遠ざかりました。さらに一歩退くと、波子が手を伸ばしてもドアには触れられない距離になりました。
 波子はそのまま立ちすくみました。
 そして思い出します。事故の日を思い出します。記憶の奥底にうずめた両親の死体は、ドア越しに聞こえた優の告白によって無理やりに掘り返されてしまいました。
 ああそうか。そうだったんだ。お父さんとお母さんは優ちゃんのお父さんに轢かれちゃったんだ。それでめちゃくちゃになって、死んだんだ。私の目の前で。頭が痛いなあ。すごく痛いなあ。
 波子は自分で自分に恐怖するほど冷静でした。全身をめぐる血液が冷え切っているようでした。
 例えるなら、彼女は海岸に一人で立ち、どこまでも引いていく波をなす術なく見送っているのです。四肢を切り落とされて、少しも動けず。大きく引いた波がその後どうなって戻ってくるかを知りながら。
 
 それで、優ちゃんは、知ってたんだ、ずっとずっと、知ってたんだ、それでずっと(ずっとずっと!)、私には隠してたんだ(言えなかったのかな(嘘吐かれてた(騙された)のかな(じゃあそうか、最初に会った日も優ちゃんは私を知ってたのか))。ああなんでだろう。なんでこんなに悲しいんだろう。頭も痛いし(痛いなあ)、気持ち悪いなあ(吐きそうだ(吐いてばかりいるな、わたし))。優ちゃんなんで言わなかったのかな(だからさ、言えなかった(私が忘れてた(私、なに忘れてるんだろ)からかなぁ)んじゃないのかな)。優ちゃん言ってたな私に嫌われるから言えない(もし言われてたらどうなってたのかな)って。ああ、頭の中がめちゃくちゃだ。優ちゃんは友達になれたのにな(優ちゃんは友達になれると思ったのにな)、ほらまたこうやって(こうやってって、いま思い出したくせに)ダメになっちゃう。おかしくなっちゃう。壊れちゃう。崩れちゃう。無くなっちゃう(亡くなっちゃう)。だから怖かったんだ、友達を作るのが。誰かと関わるのが。優ちゃんが(優ちゃんが?)、私自身が。ああ、頭の中がめちゃくちゃだ。めちゃくちゃだ! 

 波子はその場に座り込みそうになりました。もう全てを投げ出して、全てに流されてしまいたいと思いました。事故の日を忘れ去っていた自分が、ひどく愚か者のような気がしました。事故のことさえ覚えていたなら、おじいちゃんがおかしくなった理由もすぐわかったのかもしれない。逝かないでくださいとか、ずっと一緒に居たいとか、波子にとっては意味が分からなかったそれらの言葉に隠された真意に気付けたのかもしれない。そう彼女は悔やみました。優が話す前に、自分から気付けたのかもしれない。そうだったとしたら、優は泣かずに済んだのかもしれない。しかし何もかもが遅すぎたのです。波子はおじいちゃんの行動にただ恐怖し、優は堪えきれずに涙を流しました。波子が忘れている内に、波子が何もできない内に、波子の世界は勝手に進んでいたのです。
 どうせならいままでそうだったように、これから先もずっと流されてしまおうかと波子は思いました。何も知らない振りをして生きていこうかと思いました。優や伸一や石地が、いつか本当のことを教えてくれる日を期待して。
 もしその日が来たとしたら、私は優ちゃんになんと言えばいいのだろう。
 ふと、波子の肩に手が置かれました。禿頭の男が無表情で波子の肩に手を添えていました。そして自分の唇に人差し指を乗せて、声を出さずに波子を連れて行きます。波子は躓きそうになりながら禿頭の男に引っ張られ、待合室の入り口から引き剥がされました。音を立てずに診療室へと入ります。タイル張りの真っ白な部屋でした。蛍光灯の光を壁が反射し波子の瞳に刺さりました。
「座って」
 禿頭の男が波子をベッドに座るよう促します。患者用の椅子はありません。波子の座ったベッドはとても硬く、実に寝心地が悪そうなものでした。
 波子はどこにも視線の焦点を合わせません。優の告白を聞いてからずっと、体が空気に溶け込んだかのようで、曖昧に薄れすり下ろされていく自我を持て余していました。頬が熱を持ち眼球から涙が蒸発します。目の前にいる禿頭の男など、ぼやけた感覚に支配された波子からしてみたら、ただの背景と一緒でした。
「これからキミに注射を打つんだけど、これはキミの心と体のバランスを元に戻す薬だ」
 波子は話を聞いていませんでした。
 何度も何度も、優の告白を思いだします。
「普通に病院で使われているから安全だ。安心しろ」
 波子はひたすらに思い出します。優の言葉を、何度も何度も。
「ただ副作用で筋肉が弛緩して眠気が襲ってくる。ちょうど眠りに落ちる寸前の、抗いようのない無力感が頭のてっぺんから足の先までじわじわ広がっていくんだけど」禿頭の男は呆然とする波子を見て嘆息し「まぁいい、どうせ何にもできやしないんだ。寝てろよ」と言うと波子の左側の二の腕に注射をしました。白い肌を銀の注射針が裂き、波子の細い血管に透明な液体が流れ込みます。波子は鋭い痛みに腕を引きました。禿頭の男はその瞬間を利用して針を抜き、ガーゼを傷口に押し当てます。
「なんていったっけ、キミの名前」
 波子は答えられませんでした。
 禿頭の男はガーゼで傷口を押さえるのをやめました。
「まぁいい。後は勝手に寝ててくれ、俺は頭の割れたおばさんの様子を見てくる。ちなみに無事だぜ。別のベッドで寝かせてる」
 そういうと男は波子に背を向け、
「ああ、そうだ。傘は下駄箱の脇にある。コンビニで五百円したんだ、ちゃんと返しにこいよ」
 というと診療室から出ていきました。

 波子はしばらくじっとして、少しだけ頭が重たくなった気がしたので、動けなくなる前に立ち上がることにしました。
 ごめんね、と呟きます。
 わたしどうしたらいいのかわからないよ。
 
 柏崎波子は誰にも気づかれないようにそっと玄関を出ました。
 まだ足は動きます。
 冷たい雨が波子を打ちました。

 三島伸一は何もできず、すすり泣く優とそれを慰める石地を見ていました。石地はこれといった優しい言葉を発するわけでもなく、かといって安心感を与えるような仕草をするわけでもなく、ただ黙って優の隣にいました。一見無愛想に見える石地でしたが、伸一はその態度から滲み出る優しさを敏感に感じ取りました。人生で与えられたことのない類の優しさのような気がしたのです。慈しみがそこに存在していました。安心感が鎮座していました。包容力が君臨していました。どれも伸一には無いものでした。彼はそれに気づいていました。だから余計に、自分が矮小に思えてしまうのです。より一層、何もできなくなってしまいそうになるのです。
 三島伸一は同じ事を同じように考えました。自分は何もしていない。何もできない。何も与えることができない。ただ流された結果ここにいる。だから、ここにいる理由なんて特にない。目の前で嗚咽する優は、自分の秘密を慟哭しながら話したというのに。情けないなと、彼は彼自身を責めました。
「おい万代」
 ドアが開き禿頭の男が待合室に入ってきました。石地が男を見ます。
「良い知らせと悪い知らせがあるが」
 石地が笑います。
「良い方から頼むよ」
 禿頭の男も笑いました。
「おねえちゃんの母さんの治療が終わった。今は麻酔が効いているが、しばらくすれば目を覚ますだろ」
 優はその言葉を聞いて顔を上げました。知らず内に小さな笑みがこぼれます。
「まぁいつ目覚めるかなんて知らんがね。それも時間の問題だ」
「そりゃ良い。で、悪い方は?」
 禿頭の男が口元をいやらしく曲げて笑いました。伸一はその顔に、いつか見た石地の笑みを重ね合わせました。似ている、と彼は二人を見やります。
「柏崎波子がまた逃げた」
 禿頭の男が抑揚をつけずに言いました。優は口元から笑みを消し、石地を見ます。まるで助けを求めるように、石地を見ます。石地は優の視線に気づきながら、それを無視しました。
 伸一はこの時大きな違和感を覚えていました。なにかがおかしい。今この瞬間は、何かがおかしい。どこかが矛盾している。どこかが間違っている。それは石地と居るときに覚える違和感にとてもよく似ていました。しかしその理由は、彼にはわかりません。判然としない状況で、彼は刈羽優が石地万代に向けた視線に着目しました。今まで一人で無鉄砲に行動していた優が、ここに来て石地にすがっているように思えたのです。違和感の原因はそれだろうか、しかし伸一にはその判断ができませんでした。
「逃げたって、あの、どこに?」
 優が禿頭の男に聞きます。
「知らんよそんなことは。ただこの診療所から逃げちまったってことは確かだ」
 石地が小さく、そりゃ良いと呟きました。それは優にも伸一にも聞こえていましたが、誰も何も答えません。
「居ないんですか? ここに」
 伸一が聞くと、男は「ベッドにもトイレにも居ない」とだけ答えました。
「でも、どうして柏崎は居なくなったんだろう」
 伸一の問いには答えず、禿頭の男と石地はそれぞれ視線だけを合わせました。その様子を見て、優が立ち上がります。
「あたし、探しに行きます」
「それもいいが」禿頭の男が言います。「キミの母親はずっとうわごとでキミの名前を呼んでいたよ、優、優って。起きるまで傍にいてやれ」
 優は逡巡しました。母親の割れた頭を思い出すと、傍にいてあげるべきなのではないかと思いました。それにどんな意味があるのか彼女にはわかりません。傍にいなくても麻酔の効果はいずれ切れるはずでした。それならば、今は一刻も早く波子を連れ戻すべきではないだろうか。おじいちゃんがどこにいるのかわからない状況で、波子を一人にさせておくのはあまりにも危険ではないだろうか。そう彼女は悩みます。母親と波子を天秤にかけ、判断を下そうとしました。しかし二人の重さは刻々と変化し、シーソーのように安定しませんでした。
「おい伸一」
 突然、石地が三島伸一を指さします。伸一は呆けた顔で「はい?」と答えました。
「おまえが波子ちゃんを連れ戻してこい」
「え、俺がですか?」
 優は伸一と石地の顔を交互に見ます。禿頭の男は腕を組み欠伸をしました。
「そうだよ。優ちゃんはここに残るべきだし、俺はめんどくさい」
「めんどくさいってそんな……」
「うるさいな。俺がやらない理由は面倒くさいからだ。優ちゃんがやれない理由は母親の傍についているべきだからだ。そしたら伸一、おまえにはどんなやらない理由があるんだよ」
 伸一は何も言えなくなりました。波子を一人にしておくことが危険なのは、彼にも十分わかっているのです。誰かが一緒にいてやらないと、波子は儚くも崩れ去ってしまう、砂で作った城のような存在でした。
「おまえはさ、いや、おまえら全員だ」
 石地万代が笑います。
「おまえらは、何かにつけて大げさなんだよ。何かをやる理由も、やらない理由も。何かから逃げる理由も、挑む理由も。続ける理由も、やめる理由も。大げさに飾り付けて煌びやかに演出しないと何もできないのか? やりたいからやる。やりたくないからやらない。それで十分だろ。やりたい理由? やりたくない理由? そんなもんいくらでも誤魔化せるのによ」
 伸一は何故か責められている気分になりました。ただ事実を述べられているのに、責められている気分でした。自分でも気づいていることを、気づいているのに目を背けていることを、実に的確に指摘されるから責められているような気分になるのです。それは、石地の横に立つ優も同じでした。
「俺はめんどくさいから波子ちゃんを探しにはいかない。伸一、おまえも探しに行くのが面倒くさいのか?」
 三島伸一は答えます。そんなことはないと。
「だったら行けよ。めんどくさくないなら、やれよ。そして道中雨に打たれて考えろ。安っぽい小説のように、気取った映画のように、自分が何かをする理由とやらを、考えてみろ」

 三島伸一は靴を履き、玄関を開けました。外は強い雨が降っていました。辺りは暗く、湿った空気が伸一を撫でます。
 ああ、馬鹿馬鹿しいな。三島伸一は夜空を見上げ、雨で顔を濡らしながら肩を落としました。
 ほらまたこれだろ、流されてるだろ、俺。そりゃ確かに、柏崎を探しに行くのは面倒じゃないさ。あいつを一人にさせておくのは危険だ。そりゃわかる。刈羽だって言ってたよ、柏崎を守るって。まもって、まもって、まもるって。ただ、俺の本心は、どうなんだろう。俺は、いったい、どうしたいんだろう。
「ねぇ、石地さん」
 背後で見送る石地に、伸一は小さく声をかけます。
「俺って、これでいいんですか? なんだか流されっぱなしで。俺には、いえ、俺は何をしたいのかわかりません。どうするべきなのかも、わかりません」
 石地は煙草を取り出し火を点けました。
「おまえ、友達は居るか?」
「はい?」
「友達は居るか?」
 伸一は、地面を見つめて答えます。
「いません」
 石地が笑います。笑い声と一緒に、白い煙が闇に消えました。
「いるよ」
 伸一は石地を振り向きました。
 石地がビニール傘を伸一に渡しました。
「俺には、友達なんて」
 伸一がビニール傘を開きながら言おうとすると、刹那一陣の風が吹き荒れ、彼の手から傘を奪い取り吹き飛ばしました。
 石地万代はそれを見て、堪えきれず哄笑します。
 伸一はよろめきながらも堪え、空高く舞い上がった傘を見送りました。
「伸一、行って来い」
 三島伸一は石地万代に背を向け、歩きだしました。
「伸一!」

「走れ!」



sage