最終話 後編 胚胎




 柏崎波子は自分の家庭環境が他と比べて際だって異常であることに気付いていました。
 柏崎波子は自分が他と比べて際だって異常になってしまったことには気付きませんでした。
 地獄だ、と彼女は思います。
 
 彼女の目の前で刈羽優の指は小間切れにされていきます。最初は四つだった刈羽優の欠片は、五つ六つとばらばらにされていきました。数が増える毎にノコギリの切れ味が鈍ります。刀身が血と肉と脂に染まりました。
「ほら、食べな」
 おじいちゃんが優の指だった物を一つ摘み上げて波子の口へ運びます。波子は抵抗せず、優の肉はすんなりと口にねじ込まれました。舌の上に血の味が広がります。人の肉は少し苦くて、少し臭くて、とても不味い物でした。
「ちゃんと噛んで」
 おじいちゃんが咀嚼を促します。しかし波子は口を開き血の混じった唾液を垂らし、視線を一点に固定したまま動かしません。怪訝に思ったおじいちゃんは、波子の視線を追いました。
 波子は口を開いたままにして、おじいちゃんの背後を見つめていました。
 三島伸一がおじいちゃんの背後に立っていました。彼は無惨に分解された優の指を見つめます。それから振り向いて、耐えきれない痛みに悶える優を見つけました。またぞろ伸一は優の指を見ます。すると、視界に映ったおじいちゃんの持つノコギリとそこに付着する血糊に気付きました。彼が自分を制御できたのはそこまででした。伸一は大きく右手を振り上げ、その先に握る包丁をおじいちゃん目がけて振り下ろします。
 波子は咄嗟に叫びました。
「やめて!」
 そして、はたと気付きます。
 いったい何をやめてほしいの?
 波子の声は伸一には届きませんでした。包丁がおじいちゃんの左肩に音もなく刺さります。おじいちゃんが唸りました。伸一は包丁を引き抜きもう一度振り上げます。凶器の先端が新しい血液に濡れました。伸一は罪悪感と怒りと殺意と少しばかりの恍惚が綯い交ぜになった衝動を全身で感じます。その衝動を包丁に乗せて、再びおじいちゃんの肩に突き刺しました。一度目より深々と刺さりました。返り血が伸一の顔に斑を作ります。
「小僧がぁっ!」
 おじいちゃんが吠え、伸一に向かってノコギリを薙ぎました。その切っ先は波子の前髪をかすめ、勢いよく伸一へ向かっていきます。しかし伸一はそれを左手で掴み止めました。ノコギリの刃が伸一の手のひらに埋まります。おじいちゃんは驚きます。伸一は痛みを無視しました。おじいちゃんがノコギリを引きます。伸一の手のひらが裂け、皮膚と肉の混ざった赤い塊が畳に沢山落ちました。しかし伸一は怯みません。ひたすらおじいちゃんを刺しました。包丁は人の脂で切れ味が無くなり、骨との接触により刃が欠けています。伸一の腕力も、全身の負傷と疲弊とで随分と弱っていました。どれだけおじいちゃんを刺しても、その刃は先端が少し埋まる程度で止まりました。それでも伸一の衝動は収まりません。振りかぶって振り下ろして、引き抜いて振りかぶってを繰り返します。おじいちゃんもノコギリで伸一の体を裂こうとしますが、そもそも切れ味自体よくないノコギリは制服に阻まれました。
 波子は伸一とおじいちゃんの殺し合いを見ています。
 なにやってんのこの人たち。
 畳に広がる伸一とおじいちゃんの血液。その奥で狂ったように悶える刈羽優。口の中には人の肉片。柏崎波子は優の血液を飲み込みました。この様な物をいくら飲み干しても、刈羽優の心が自分に入ってくるとは、波子には思えませんでした。
「どうしてどいつもこいつも邪魔をするんだ!」
 おじいちゃんが叫びました。ノコギリを両手に持ち、伸一の左肩に振り下ろします。ノコギリの刃が大きくしなり、高い音を立てて折れました。折れた刃は血をまき散らしながら空中を回転し畳の上に落ちました。おじいちゃんは柄の先に指一本分しか刃を残さないノコギリを見つめます。
「波子を幸せにしたいだけなんだ! 邪魔はさせんぞ!」
 そう言っておじいちゃんは伸一に突っ込みました。伸一の体がくの字に曲がり、おじいちゃんに押し倒されます。大きな音が響きました。畳が埃を吐き出します。


「あ……」


 伸一が声を出しました。呆気にとられた声でした。おじいちゃんを見て、伸一は急に血の気が引きます。全身の毛穴が閉じたようです。
「あ、あ、」
 おじいちゃんの首に折れたノコギリが刺さっていました。おじいちゃんの持っていた折れて鋭くなった刀身が、倒れた拍子に首に突き刺さったのです。おじいちゃんは自分の身に起こったことをまだ理解していません。呼吸をする度に、首とノコギリとの間から泡になった血液がぽこぽこ湧き出てきました。
「お、おい、じいさん……?」
 おじいちゃんは自分の首筋に手を伸ばし、木の枝のように首から飛び出たノコギリの柄を触りました。そのまま指を首元に這わせてノコギリの刃が刺さっているのを確認すると、下唇を噛んで伸一を睨みました。伸一は「ちがう、ちがうよ」と首を振ります。
 おじいちゃんはふらつきながらも立ち上がり、伸一に背を向け波子の元へ歩み寄りました。伸一からは、おじいちゃんの背中と、おじいちゃんの首元を見て首を振る波子がよく見えました。
 伸一は急に怖くなります。
 あれ、おれ、今何をしてたんだ?
 彼は自分の握る包丁を見ます。
 あれ? あれ? 
 俺、
 うそだろ?

 おじいちゃんは波子の前で屈みました。喉からノコギリの刃が生えています。波子はおじいちゃんの首と顔とを交互に見つめ、不安げな眼をきょろきょろと動かします。
「波ちゃん」
 首から血が噴き出しました。
 優しい声でおじいちゃんは言います。
「おじいちゃん、やられちゃったよ」
 喋るたびに柄ごとノコギリが上下に小さく震えます。波子は必死に体をよじり縄から抜けようとしました。縄から抜けて、おじいちゃんを助けようと思いました。このままでは、おじいちゃんは死んでしまいます。

 それの何が困るの? 波子は自身に問いかけます。

 だってさ、考えてみなよ。あんなに散々酷いことされて、優ちゃんも三島くんもこんな目に遭っていて、それなのにおじいちゃんを助けたいと思うの? それって変じゃない? 優ちゃんを殺そうとした人だよ? 三島くんを殺そうとした人だよ? そんな人を助けたいと思うの?
「おじいちゃん……」
 柏崎波子はおじいちゃんを見つめながら考えました。
 私って変じゃない? もう嫌だとか辛いとか苦しいとか死んでしまいたいとか考えてるくせに、どうしてこんな簡単に死んで欲しくないなんて思えるんだろう。私だけが壊れちゃえばいいのにって思うのはおかしな事なの? わかんないよ、わかんないんだ。本当は死にたいのか死にたくないのか、死んで欲しいのか生きていて欲しいのか、終わりにしたいのか続けていたいのか、欲しいのか要らないのか。
「なみちゃん、強く生きてゆきなさい」
 おじいちゃんは微笑みました。優しい笑顔です。
 あ、おじいちゃんの笑顔だ。優しい顔だなぁ。素敵な顔だなぁ。
「嫌だよぅ、おじいちゃん」
 波子は泣きました。涙を零しながら、彼女はどこかで冷めた思考をします。

 ほら、今は悲しい。さっきまでとは別の気持ちだ。その瞬間は本当にそう思ってるんだけどな。辛いとか死にたいとか。でも、その本心がいくつもいくつも積み重なった過去を振り返ると、全部嘘に見えちゃうのはどうしてかな。結局私って、どう生きていきたいの? あれ、どう死んでいきたいんだっけ?

「なみちゃん」
 おじいちゃんはノコギリの柄を掴み、ゆっくりと刃を首から抜きました。
「おじいちゃんをお食べ」
 血が噴き出します。
 おじいちゃんは血をまき散らしながら、波子に向かって倒れ込みました。波子の肩におじいちゃんの頭が乗ります。止めどなく血液が流れ出し、波子の体は真っ赤に染まりました。生暖かい濁流が波子の平らな体を滑り落ちます。凄まじい生臭さと錆びた鉄の匂いが居間に広がりました。大量の血液を失ったおじいちゃんは痙攣を繰り返します。小刻みに震え続けます。時折小さく「なみこ」と呼ぶのが聞こえました。その声を聞いていると、波子の体の奥底に真っ黒な花が咲きます。いくつもいくつも花が咲いて、とうとう地面が見えなくなりました。
 優も伸一も、それぞれの激痛を忘れて、死んでいくおじいちゃんを見つめていました。
「おじいちゃん?」
 それはもう動かない肉体でした。
 波子の肩から頭部が滑り落ち、赤黒い水たまりにおじいちゃんの死体が浮かびます。
「あは」
 目を見開いたまま絶命したおじいちゃんと、波子の視線が噛み合いました。
 波子は笑います。
「おい、柏崎?」
 伸一が体を引きずって波子と死体に近づきます。強烈な血の匂いに彼は咽せました。
 波子は笑っていました。涙と鼻水とピンク色の唾液をまき散らして笑っていました。
 伸一は思います。終わったと。
 何もかも、終わってしまったのではないかと。

「いま、縄解くから」
 伸一はおじいちゃんの肉体をめった刺しにした包丁を使って、まず波子の両手に巻かれた縄を切りました。脂でぬめってなかなか思うように作業は進みません。伸一は自身の視界が霞み始めているのに気付きました。このままではまずい、はやく石地さんの所へ戻らなくては。
「波子?」
 優が波子を呼びます。彼女は縛られたまま身動きも取れず、一部始終をじっと見ていました。
「波子!」
 波子はなにも反応しません。おじいちゃんの死体と見つめ合ったまま笑っています。
 優は懸命に波子の名を呼び続けました。波子は笑うばかりです。
「おい刈羽、大丈夫か?」
 伸一が波子の縄を切りながら優を呼びます。優は涙声で「大丈夫なわけないでしょ」と怒鳴り「それに波子が……」と笑い続ける友人を見つめました。
「……よし」
 波子の両手を塞いでいた縄が切れました。それを機にして全身を締め付けていた縄も緩みます。解放された波子は前のめりになり血の海へ突っ伏しました。顔まで真っ赤に染めて、それでやっと彼女は笑うのをやめます。
「柏崎?」
 波子は無言で血の中に横たわりました。大きく一度溜息をついて、おじいちゃんの死体の顔を撫でます。真っ赤な跡が付きました。
 伸一はぞっとして、逃げるように優の元へ向かいます。優を拘束する縄を切ろうとすると、指の無くなった右手が見えました。優が強く傷口を押さえていたので出血はほぼ治まっています。断面は凝固した血液と肉と骨が乱雑に混じり合っていました。伸一は吐き気を抑えます。腹の傷が痛みました。
「刈羽、いま解くから」
「ねぇ、波子は? 怪我してるの?」
「いや、新しい傷はないはずだよ」
 手の縄を切った伸一は、足首に巻かれた縄へとりかかりました。
「……おじいちゃんは?」
 伸一は唾を飲み込みました。
「……死んだ」
 優は少し間をおいて、そっかと答えました。
「あんたが、殺したの?」
 伸一は震える声で言います。
「わ、わからない。でも、でも殺してたら、どうしよう」
 優の足を縛っていた縄も切れました。
 優は体を起こし、自分の右手を見てすぐ目を逸らします。
「俺、俺、人を殺しちゃったのか?」
 伸一は泣き出しそうな顔で優を見つめました。体中に返り血を浴びて、全身を切り裂かれた三島伸一が、優の瞳に映ります。
「あんた、死にそうじゃん」
 優は泣き出しそうな伸一を見つめます。
「なぁ、刈羽、俺は、人殺しか?」
 それを聞いた優は伸一を抱きしめました。無い指が痛くて痛くて、彼女は涙を流しました。
「ばかだなぁ。ほんとにばかなんだなぁ。あんたは人を守ったんだよ」
 伸一は優の胸の中で泣きました。涙に負けじと腹から血が溢れます。
「あんたは、あたしたちを守ったんだ」
 優が強く伸一を抱きます。伸一の嗚咽が制服に吸い込まれ、彼女の体に響き渡りました。
「刈羽、おれ、おれどうしよう……!!」
 優は左手で伸一の頭を撫でます。
 伸一は大声で泣きました。
 人を殺したかも知れない。それが怖くてしかたありませんでした。
 波子の唯一の家族を奪ってしまったかも知れない。
 三島伸一は、ただひたすらに泣きました。

「ねーえ、三島くん?」
 血の池に居る波子は大きな瞳をさらに大きく開いて、伸一を呼びます。
「ねぇ、私のこと殺してくれない?」

 柏崎波子は畳に染み入るおじいちゃんの血を見ながら言いました。
「殺してよ、三島くん」
 伸一は優の体から顔を上げて「……は?」と聞き返します。優も同様に波子にどういうことか聞きました。
「だからさ、もう殺してよ私を」
 だってさ、と彼女はその意味を告げます。
「こんな嫌なことばかり起こる世界で生きていたくないんだもん」
「ちょ、波子?」
 優が身を乗り出します。きっと自暴自棄になっているだけだ。彼女はそう自分に言い聞かせました。
「ねぇ、優ちゃん」
 波子は冷たい声で言います。
「私ね、知ってるんだ」
「なに、を?」
「優ちゃんのお父さんが、うちの両親をひき殺したこととか。それを優ちゃんが黙ってたこととか」
 優は脳が揺れたのを感じます。そして言葉が出なくなりました。どこでそれを知ったのかすら聞けません。波子の冷え切った声を聞いていると、何もできなくなりました。
「おかしいよね、世界ってどうしてこう嫌なことばかりなのかな」
 波子は血の池で寝そべったまま起きようとしません。
「さっきまではね、みんなが居なくなるのは嫌だなとか、暖かい人を無くしたくないとか、そう思ってたの。でもさぁ、結局それってさ、今よりもっと悪くなるのが嫌なだけなんだろうね。私はね、きっと嫌な人間なんだ。優ちゃんと三島くんが居なくなるのを嫌だなと思ったのってさ」
 波子は小さく息を吸い込みます。
「二人を好きなんじゃなくて、二人が居なくなって自分の世界がおかしくなるのが嫌なだけなんだよ」
 嫌な女でしょ。波子は呟き、それから大声で言いました。
「だから殺してよ!」
 叫び声が柏崎家を揺らします。
「殺してよ! 殺してってば! どうしてこんな世界で生きてなきゃいけないの? 嫌なことばかりじゃん! 辛いことばっかりじゃん! おじいちゃんも、お父さんもお母さんも死んじゃったの! もういやだよ、辛いだけじゃん生きてたって! わたしどうすればいいの!」
 優は波子に近づいて、彼女の頭を指の無い手で撫でました。
「波子、大丈夫だよ、一緒に生きていけば……」
「うるさい!」
 波子は優の手を払いのけます。
「生きていたくないって言ってるの! なにそれ、なによそれ!」
 波子は体を起こし優に掴みかかりました。
「生きていけば? 優ちゃんそれどういう意味か分かってるの? これからも嫌な思いをしていこうって言ってるんだよ?」
「そんな、波子……そういう意味じゃ」
「うるさい! うるさいっ! もういいよそういうの! それっぽいこと言って期待させないで!」
 波子は優の服にしがみつきました。両手で強くシャツを握り、その手で優の胸を叩きます。優の体が揺れました。
「もうやだよう、もうやだぁ。全部忘れてたのに全部思い出しちゃったじゃん」
「波子……」
「どうせさ、この先もずっと無くしていくばっかりなんだ。元からあった物は無くなって、新しく見つけた物も消えちゃうんだ。それなら要らないもん! どうせ! どうせ、どうせっ、どうせっ!」
 波子は立ち上がりました。真っ赤に染まった波子が優を見下ろして叫びます。
「どうせ全部無くなるんだ! どうせ全部奪われるんだ!」
 おじいちゃんの死体に波子の散らす唾液が飛びました。
「だったら今ここで死んで! これ以上無くっ……!」
 波子がおじいちゃんの血に滑って転びました。尻が血溜まりに激突し、小さな波紋が広がり消えます。
「うううう」
 これ以上無くすことのないようにしたい。波子はそう言いたかったのです。しかし言えませんでした。
「うううううううう」
 尻が痛くて、下着に血が染みこんで気持ち悪くて、自分を見つめる優の目が怖くて、犬のように唸ることしかできません。
「ううううううううううう」
 死を望む彼女は実に惨めでした。
「うううううううううううううう」
 溢れてくる死への欲動を波子は抱え切れません。口を開いて汚物を吐くように、彼女は唸るのです。
「ころしてよう、ころしてよう、ねぇおねがいよ、ころしてよう」
 波子は殺してくれと繰り返しました。
 何度も、何度も。
 優も伸一もそんな波子を見つめるだけでした。
 何も言えないし、何もできません。
 
「殺してやれよ、友達だろ?」

 ふいに声が響きました。
 居間の入り口で石地万代が、ゆっくりと煙草の煙を吐き出しました。

 石地万代は居間の状況を一瞥し紫煙を吐きました。それからゆっくりと伸一の元へ向かい、何も言わずに怪我の具合を確認します。手のひらの傷、背中の傷、肩の傷、それらを見られる毎に伸一が苦痛の声をあげるので、石地は気持ち悪いな男のくせにと茶化しました。優と波子はそのやりとりを呆気にとられて見ています。まるでこの惨状を気にも留めないように、石地は笑っているのです。
「あぁ、この腹のはヤバいな」
 おじいちゃんに刺された伸一の腹部を見て石地が言いました。
「結構深いじゃねぇか。血もだいぶ出てるし。痛いってか寒いんじゃないか?」
 伸一が頷きました。
「うんうん、あと目が霞んで心臓がゆっくりになってんじゃないか?」
 伸一が頷きました。
「こりゃ死ぬかもしれんな伸一」
 伸一が頷きました。
「頷いてんじゃねーよ」
「石地さん」
「あ? なんだよ伸一くん」
「どうして、ここに居るんですか?」
 石地は愚問だなぁ、と伸一を嘲笑します
。 「迎えに来たんだよ」
 伸一が石地を見上げました。石地万代は微笑んでいました。
「ベスパで三人乗りとか無理だろ?」
「あぁ、そう言われるとそうかも」
「馬鹿だな、伸一」
 伸一は笑って、それから石地に頼みます。
「柏崎を、助けてやってください」
 石地が波子を見やります。波子は尻餅を付いた姿勢のまま、じっと石地達を見ていました。
「でも波子ちゃんは死ぬんだろ?」
 優が石地を睨みます。
「今さっき殺してくれーって叫んでたじゃないか」
 優の視線を笑顔で避けて、石地は飄々とした態度で悪態を付きます。
「んだよクソ面倒くさいな。あんな盛大に殺してくれって言えるんなら自分で死んじまえば良いじゃないか。ほらまたお前らすぐこれだ。何をするにもど派手な理由が必要なのかよ。おい柏崎波子、お前の周りを見てみろ」
 波子は視線を動かしません。もう何も聞きたくないし、見たくもないのです。しかし石地はそれを良しとしません。伸一の元から立ち上がり、不遜な態度で波子の背後に回りました。
「目ぇ開いてよく見ろっつってんだよ」
 石地が波子の頭を片手で鷲掴みにしました。血管が浮かぶほどの力を込めて、石地の手が波子の頭部を締め付けます。
「いっ、痛っい!」
「痛くない」
 石地が煙草を畳に押しつけて消しました。それから波子の首を力任せに左へ向けます。おじいちゃんの死体がありました。
「見たか?」
 波子は答えません。
「お前のじいさんだ。訳のわからん事を言い続けて死んじまったじいさんだ」
 波子はおじいちゃんの死体を見ました。首に赤黒く太い傷があり、目を開いたまま事切れています。ああ、本当におじいちゃんは死んでしまったんだ。あんなに優しかったのに。あんなに愛されていたのに。おじいちゃんは、死んだんだ。
 終わってしまえば呆気ないものです。闇夜に浮かぶ月のような冷たさと執念深さを持って波子達を追い続けたおじいちゃんの死は、実に突然であり淡泊でもありました。
「なんでこんなにあっさり死んじゃうの?」
 思わず波子は問いかけました。当然答えは返ってきません。
 石地は泣く間も与えず波子の顔を正面の優に向けさせました。優と波子が顔を見合わせます。泣き腫らし血に濡れた汚い顔でした。
「こいつがお前の友達だ。お前を守ろうとして指まで無くした友達だ」
 波子は首を振って「やめて!」と叫びます。
「やめてだぁ?」
 怒気を孕んだ声が波子の鼓膜を震わせました。
「どうせ死ぬんなら死ぬ気で友達の顔を目に焼き付けろ。二度と見られなくなるんだからな」
 石地は更に強い力で波子の視線を伸一に向けさせました。少し離れた部屋の隅で、伸一は血を流しながら倒れていました。彼はもう起きていることさえできないのです。
「そんであいつがお前の新しい友達だ」
 波子は伸一の顔を見ました。その顔はなんだか人形のように白くて、波子の瞳に美しく映りました。
「あいつは馬鹿だ。つい昨日までは自分で何もできない、流されるだけの意気地なしだった。それがどうだ、見てみろあのボロ雑巾っぷりを。見てみろあの燃料切れな感じを。考えなしで突っ走った結果があれだぜ、なかなか格好良いだろ」
 刈羽優も三島伸一も、自分のために死力を尽くしてくれた人物であることを、彼女はちゃんと分かっていました。助けてあげるとか守ってあげるとか言われた事も、もちろん覚えています。
 しかしそんなもの、死にたい気持ちには何の関係もありません。
 波子は俯きました。
「そうだ、そうやって下を向いてみろ。お前が今へたりこんでる血溜まりはな、お前の友達とじいさんが命削って作った血溜まりなんだよ」
 赤く臭い池。彼女はそこに、ぼやけた何かを見つけます。
「見えるか? 血溜まりに映るお前の姿が」
 そこに映るのは柏崎波子でした。ゆらゆらと波打つ血の上に、彼女は彼女を見つけました。
 とても汚い人間でした。
「どうだ、お前の友達が守ろうとしたお前は、それでも死にたいってのか」
 とても汚い人間は答えます。

「殺して」

 石地万代は波子の頭から手を離しました。
「勘違いするなよ。お前は死にたくもないし、殺されたくもない。何とかして欲しいだけだ」
 波子は血溜まりに映る汚い人間を眺めます。なんだこいつ。彼女はその汚い人間が何者か分からなくなってきました。これが私なんだろうか。この真っ赤で濁ってて暗くて臭いのが、私なのだろうか。波子は首を傾げます。それに合わせて汚い人間も首を傾げました。
 なんだこいつ。
 波子は汚い人間の映る血溜まりに手を差し伸べました。汚い人間も手を差し伸べて、二人の指が触れ合います。粘度の高まりつつある血液に穏やかな波が生まれました。赤色の縁に跳ね返った波が、彼女の指に戻ってきます。汚い人間の顔が波に揺れました。波子は瞳が乾いているのを感じます。もう随分とまばたきをしていないような気がしました。
「命だの人生だのでかい方へばかり話しを膨らませやがって」
 石地は立ち上がり、煙草を一本口にくわえました。
「無くした分だけ手に入れて、それをまた無くそうとしてるだけじゃねぇか」
 波子は血溜まりに指先を浸けたまま、小さく円を描いてみました。指と指の間に粘り気のある血液が流れ込みます。爪の間にも赤の汚濁が割り込みました。それは波子の知らない感触でした。ぬるぬるしていて、少しざらついていて、気持ちよい物でした。
「お前は本当に、死ぬほど辛いのか? 例え死ぬほど辛かったとして、それで死んじまうのか? それで万事解決か?」
 波子は汚い人間と指先で溶け合ったまま言います。

 はい、そうです。死ぬのが、一番楽です。

 石地が煙草を血溜まりに叩きつけました。
 ああ、そうかい。それだけ言って、彼は再び伸一の元へ戻ります。
「おい伸一。俺はお前が死にたいとか言っても死なせないからな」
「は、え? なに言ってるんですか?」
 伸一の声は随分と細くなっていました。
「お前が柏崎波子を助けたいって言ったのと同じだよ。その気持ちと、俺のお前に生きていて欲しいと思う気持ちは同じだ」
 石地が伸一を担ぎました。
 伸一の体に鋭い痛みが走り抜けます。
「ちょっと、石地さん、なにするんですか?」
「あのハゲの所に連れて行くんだよ。お前マジで瀕死だぞ」
 軽々と伸一は運ばれて行きます。彼はなんとしてでもここに残り波子と優を助けたかったのですが、どれだけ身をよじって下ろしてくれと訴えても石地は無視しました。
 彼は伸一を担いだままでノコギリの柄側と刀身を拾い「馬鹿かよこんなの足がつかないわけがないだろ」と包丁も回収しました。
 そして居間の入り口で、石地は優を振り向きます。
「じいさんの死体は俺がなんとかする。その時俺の仕事が二倍になってようが三倍になってようが構わんが」
 嘆息して、彼は吐き捨てます。
「ヴェスパだけは返しに来い」

 石地は居間を後にしました。
 優は追うことができません。
 波子は動こうともしません。
 廊下を担がれて進む伸一が、精一杯の声を振り絞ります。
「待ってくださいよ石地さん! 止まってくださいよ!」
「嫌だね」
 伸一は石地の背中を叩きました。肩の傷が開きます。
「止まれ! 止まれよ! なんで助けないんですか!」
 石地は黙って、伸一を担いだまま乱暴に靴を履きます。
「死にそうだから助けるのは違うんですか!?」
 玄関が開きました。朝日が伸一と石地を照らします。
「沈んでたら引き上げるのは違うんですか!?」
 朝の住宅街に伸一の声が響きました。
「辛いとき助けるのは違うんですか!?」
 石地はミニクーパーの後部座席を開けます。
「それが友達じゃないんですか!?」
 伸一は後部座席のシートに投げ込まれました。革張りのシートの上で、彼は悶えます。体中の傷から新しい血液が滲み出てきました。
 石地は伸一を見下ろして、
「お前は正しいよ、伸一」
 と少し寂しそうに言います。
「あの子はな、浮き上がるには沈みすぎてる」
「放っておくんですか?」
 石地はおかしそうに笑います。
「帰ってくるだろ、どーせよ」
 それだけ言うと彼は車のエンジンをかけミニクーパーを発車させます。
 柏崎家はみるみる遠のいていきました。
「めんどくせーなー。また引っ越さねーとなぁ」
 石地の声が車の騒音にのまれます。
 伸一は悔しくて涙を流していました。
 助けてあげられなかった。連れて帰れなかった。自分は一体、何ができたのだろうか。
 彼はもう、指先一本動きませんでした。
「なぁ伸一。俺は思うんだ。人間ってのは<いつか>死ぬから味があるんだよ。物事は<いつか>終わるから価値があるんだよ。それを永遠なんて下らない規模で引き延ばしたり、今この瞬間なんて衝動で終わらせることに一体どんな意味があるんだろう」
 伸一は何も言いません。
 彼はもう、口さえも動かせませんでした。
 波子の手料理を食べていないことなんて、もうどうだって良い事です。


 そして居間には波子と優だけが残りました。
 おじいちゃんの死体は、一足先に得た全てからの解放を喜ぶかのように、じっと終わっていました。



sage