エピローグ



 刈羽優は柏崎波子をじっと見ていました。血溜まりに座る波子をじっと見ていました。汚い人間と手で溶けあう波子をじっと見ていました。おじいちゃんの死んだ視線を受ける波子をじっと見ていました。
 波子は真っ赤に染まっていました。おじいちゃんの血で真っ赤に染まっていました。伸一の血で真っ赤に染まっていました。優の血で真っ赤に染まっていました。踝も、太股も、股も、腹部も、胸も、肩も、首筋も、顎先も、唇も、歯も、舌も、鼻も、目も、髪も、真っ赤に染まっていました。優は事故の日に見た波子を思い出しました。両親の内臓と血液に汚された波子は、その日も真っ赤に染まっていました。
 波子が血に埋めた指先で円を描きました。ぐるぐるぐるぐる。くるくるくるくる。軌跡に一瞬だけ畳のい草が見え、すぐ血に覆われました。そこにもう一度波子の指が回ってきます。畳が見えて血に消えました。もう一周した波子の手が戻ってきます。畳が見えて消えました。波子はしばらくの間、ひたすらその行為を繰り返していました。見えて消えて、見せて消してを繰り返します。
 血が乾き始めるにはどれほどの時間がかかるのでしょうか。波子の指先に付着した血液は既に乾いた泥のようにひび割れています。畳に広がっていた血も、少しずつ吸収されてその量を減らしていました。波子は指を止めます。そして小さな声で呟きます。
「あのね、こうしてるとね、私がバラバラになるの」
「バラバラ?」
「そ、バラバラ」
 波子が一度、指先で円を描きます。
「こうすると、ここに居る汚い人が、一瞬だけバラバラになるんだ」
「汚い人って、何?」
 波子は優を見つめます。わたし、と声を出さずに口だけで優に伝えました。
「こうしてるとね、自分を壊しているみたいでとっても落ちつくの」
「波子?」
「なぁに?」
「自分を壊したいの?」
 首肯。ボールが跳ねるような小気味よい肯定でした。
 優は、どうして自分を壊したいのかと問います。波子は答えました。
「おじいちゃん言ってたの。好きな人と永遠に一緒に居るとか、そういう事言ってたの。心を受け取れば、その人とずっと一緒にいられると言っていたの」
 波子がくるくると円を描き、汚い人間を破壊します。
「好きな人と永遠に一緒にいる事なんて、絶対に無理だよね」
 そうでしょ? 優ちゃん。
 唇を動かさずに波子は優に問いかけました。優は答えません。
「永遠に何かが続くのなんてありえない。きっと、全部無くなっていく事が決まっているんだ」
 それならどうして、在ろうとするの? 波子は優ではなく、汚い人間に向かって話しをします。
 生まれてくれば死ぬんでしょ? お父さんもお母さんもおじいちゃんも死んじゃったから、私にはそれがよく分かるの。大事な物は無くなるの。ずっと持っている事なんてできないの。そしてそれを無くすときはとても辛い。辛くて苦しくて気持ち悪くて我慢できない。大事な物があるということは、そんな最低な気持ちを味わう日が来るということなの。
 波子はずっと血溜まりに円を描きました。汚い人間を、自分自身を、攪拌するのです。
「優ちゃん、優ちゃんもそうなんだよ」
「私も?」
「そう、優ちゃんも」
 波子は血を混ぜます。血と血の中の人物を混ぜます。
「私の友達に、刈羽優って女の子が居るんだ」
「……波子?」
 波子は目線を落とし、血溜まりと会話を始めました。
「とても、とても素敵な人。優しくて、可愛くて、胸もすっごい大きくて、私を助けてくれるんだ」
 すごいでしょ? 波子が血に笑います。
「私ね、ずっと友達居なかったんだけど、優ちゃんとは友達になれたんだぁ。でもね、でもねぇ、優ちゃんはね、私に隠し事をしていたの」
「波子、ねぇ、波子?」
「私のお父さんとお母さんを」
 波子が優を見ます。
「殺したのってね」
 波子が視線を血溜まりに戻しました。
「その優ちゃんなの」
 それから波子は三回ほど円を描き、畳に指先をつけたまま、優の太股までそれを這わせていきました。赤く太い線が優と血溜まりをつなぎます。優は動けません。波子は自分の指を、太股から臍を通し胸の谷間を抜けさせ、優の口元まで運びました。優は波子の名前を呼びます。その隙に波子は優の口の中へ指を入れました。柔らかい舌と暖かい唾液の感触が波子に伝わります。優の口の中には酸化した血液が広がりました。刈羽優と血溜まりの中の波子は、赤い線で結ばれました。
 優は波子の指を口に含んだまま涙を流しました。
 そうだよね、あれは、殺したのと何も変わらないよね。
 やっぱ、そうだよなぁ。
「殺して、優ちゃん」
「波子……どうして?」
「優ちゃんの舌、すっごく暖かいね。でもこれも無くなっちゃうのなら、いま全部終わらせたい」
 柏崎波子は泣きながら笑いました。

「あぁ、このまま生きてたら頭がおかしくなっちゃう。だから私をいま殺してよ、人殺し」

 刈羽優の限界はここでした。彼女は一度に全てを感じます。
 自分の力の限界を。自分の声の小ささを。自分の思いの儚さを。自分の心の脆さを。 
 彼女は自分の言葉を思い出します。
 ほんと、くそ野郎だよな。 
 刈羽優の細い両手が、柏崎波子の首を絞めました。
 優は波子を押し倒し、馬乗りになって殺し始めました。
 波子の首に優の両手が絡まります。
 少しずつ、少しずつ、力が込められていきます。
「     」
 波子は声が出ません。
 首が絞まっているのです。
「     」
 優は涙を零しました。
 首を絞めているのですから。
「     」
 自分にできる償いとは何か。
 刈羽優は気付きました。
「     」
 柏崎波子を守ることは、あるいは殺すことなのかも知れません。
 これ以上壊れてしまわないように、終わらせてあげることが、彼女を守ることなのかも知れません。
「     」
 これ以上無くさないように。
 これ以上、おかしな世界で生きて行かせないために。
「     」
 殺してあげれば、全てが解決するのかも知れません。
 こんな世界では、生きていることが一番の苦痛なのです。
 一番の、苦痛なのです。
「     ぅ」
 一番の、苦痛なのです。

本当に?

「ぐ、、げっ、げえ、っぐ、うっ」
 刈羽優は手を離しました。
 柏崎波子は、生きています。
「げえええ」
 柏崎波子は嘔吐しました。
 刈羽優は、自身の諸手を見つめます。
 右手には指がありません。左手は震えていました。
「無理だよ」
「……優ちゃん?」
「だって、あたし、右手の指無いもん。こんな手じゃ、波子殺せない」
 刈羽優は泣き崩れます。
「波子! 波子! ごめんね、ごめんね! ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
 刈羽優の謝罪は短躯な感情の羅列でした。
「ごめんなさい! ずっと黙っててごめんなさい! 言えなくてごめんなさい! 親殺しちゃってごめんなさい! 波子殺せなくてごめんなさいっ! 殺せなくてごめんなさい!」
 柏崎波子は、自分に馬乗りになって泣きわめく刈羽優を見ていました。
「ごめん! ごめんね! ごめんねぇ! 殺してあげた方が良くても、私には無理、殺せない!」
 刈羽優は繰り返しました。
「殺せなくてごめんね、ころせなくてごめんなさい」
 柏崎波子は痺れる両手で優を抱きしめました。
 暖かい体を肌で感じます。
「優ちゃん」
 胃酸の匂いのする鼻をすすり、波子は言いました。
「ありがとう」
「なみこ?」
「好きよ、優ちゃん」
 刈羽優はその言葉を聞いて、すべてを救われたような気がして、嬉しくて情けなくて、無い指の痛みも忘れて波子を抱き返しました。
 あぁ、よかった! よかった!
 殺すのなんて辛いだけじゃん!
 こんな肥溜めのような世界では目を瞑って生きていくことが一番の楽なんだ!
 目を瞑って!
 目を瞑って生きていこう!
 これから先も嫌な思いをし続けよう!
「あたしも大好きだよ、波子!」
「ありがとう。殺そうとしてくれて」
「いいの、いいの。帰ろう波子、みんなの所へ、帰ろう」

 深く。
 深く。
 深く。
 柏崎波子は溜息をつきました。




sage