最終話 中編 おじいちゃん



 柏崎波子はヴェスパのシートの上で伸一にしがみつきながら、自分は何故またおじいちゃんの居る自宅へ戻っているのかと考えました。春先の朝の空気を裂くヴェスパに乗っていると、波子の冴えない思考にはより霞がかかり、気怠い体から体温が抜けていきます。いっそこのまま眠ってしまい、考えるのを放棄したい。けれど波子の願いはヴェスパの大げさな振動に阻まれます。こんなに世界が揺れていては、眠ることもままならないのです。波子は考えざるを得ませんでした。自分は何故また、自分の家へ戻るのだろうかと。
 波子はヴェスパを運転する伸一の背中に頭を預けました。頭がとても重たかったのです。脳の代わりにコンクリートが詰まっているようでした。しかもそれは四角形で、頭蓋骨の中には収まりが悪いのです。波子の細い頸椎では、とてもそのような重さは支えきれません。故に彼女は伸一の背中に頭を預けました。額が制服の生地に擦れて、少しだけ痒くなりました。波子の視界には、ヴェスパの艶のある黒いシートと、風になびく伸一の制服だけが映ります。黒い世界。波子は目を瞑りました。目を瞑っても、世界は黒いままなのですが。
 外界を閉ざした波子の瞼の裏に映ったのは、料理された刈羽優の姿でもなければ、狂気に犯され心を崩したおじいちゃんの姿でもありませんでした。柏崎波子は、柏崎波子を思い浮かべました。平穏だった頃の柏崎家で過ごす自分の姿を思い出していました。おじいちゃんのために野菜を細かく切って夕食を作っていたこと。おじいちゃんが寝た後、居間のこたつでみかんを食べていたらそのまま寝てしまったこと(起きたときには毛布が掛けられていました)。数学の宿題がわからなくておじいちゃんに聞いたら、おじいちゃんが困った顔で国語辞典を調べ出すので思わず笑ってしまったこと。平和に過ぎゆく日々の中では、ありふれた優しさや幸福はあまりにも透明で、その瞬間に見つけることはできないのだなと、波子は今になって色づいたそれらに思いを馳せました。しかしそれも今更です。在りし日の穏やかな温もりは、太陽の放つ熱や光とは違うのですから。波子が思い出した過去は、ただ無闇に眩しいだけでした。いたずらに影だけが強調され、光に晒される自分自身は、毛の先すらも暖かくなりません。だから波子は思い出すのをやめました。今はただ、暗闇の中に居たいのです。影のない世界で、一切衆生の持つ暗澹たる憂鬱を忘れていたいのです。
「なぁ柏崎、次の交差点どっちだ?」
 しかしそれは叶いません。柏崎波子や刈羽優を(彼の言葉によれば友達を)助けると決めた伸一は、自らが熱を発する恒星のように暖かく周りを照らしました。その光は蝋燭の先で揺らめく炎にも似た危うさでしたが、同時に波子がそれに暖かさと安息とささやかな期待を抱いたのもまた事実でした。
 やめときなよ、蝋燭なんてどうせすぐ消えちゃうよ。
 波子は波子に言い聞かせます。どうせ無くなってしまうのだから、ならば最初から欲しがる必要なんて無いのだと。彼女は伸一の背中で考えます。向かう先は風に任せ、翻弄されるビニール袋のように流されて、当て所なく生きていく方が傷つかずに済むのだと。傷つかずに済むのならば、それはとても楽な生き方でした。
 とても楽な生き方でしたが、それではなぜ波子は今泣きそうなのでしょうか。
 楽な生き方を選ぼうとしているはずなのに、なぜ波子の心はこんなにも辛く揺らいでいるのでしょうか。
「おい、柏崎?」
 不安げな伸一の声が波子に届きます。波子は何も、答えられません。
 暖かい背中だな。
 波子はそう思いました。そういえば、優の体も暖かかったと彼女は思い出しました。
 この暖かい背中も、優ちゃんの暖かい体も、無くなってしまうの?
 おじいちゃんの暖かい笑顔も、なくなってしまうの?
「なぁおい柏崎、もうすぐ交差点なんだけど」
 波子は顔を上げました。額が伸一の制服と擦れて、少しだけ赤くなっています。晴れた日の澄んだ空気が波子の顔を流れます。鼻にぶつかった風が頬や首を撫でて、柔らかな毛先から抜けていきました。空は青く、雲は白く、空気は冷たいけれど、太陽はそっと波子を暖めていました。
 波子は嫌だな、と思いました。
 この暖かさが無くなっちゃうのは、いやだなぁ。

 無くなっちゃうのは、嫌だなぁ。

「ここ、ここ右!」
 波子は答えました。ここで曲がってくれと、伝えました。
 伸一がブレーキを右足で踏み、速度とギアを落として交差点を右折しました。伸一と波子が事故を起こした交差点でした。
「ああ、ここか」
 二人が初めて話した場所であることを思い出すと、伸一が可笑しそうに話します。
「なんだか随分色々あったように思うけど、あれから三日と経ってないんだな」
 波子はそうだね、と答えて再び伸一の背中に頭を預けました。
 暖かい背中でした。
「なんだよ?」
 ううん、なんでもないの。
 波子は答えます。
「もうつくよ。私んち」

 柏崎家の敷地の玄関前には車を二台ほど停められる空間があります。そこにひしゃげたクーペが一台、乗り捨てられたように停められていました。車体にはいくつも擦った跡があり、美しい曲線だったであろうボンネットは大きくへこんで半開きになっていました。車内ではハンドルから牛の舌のようにエアバッグが飛び出しています。とても運転できる状態ではないそれは、優が禿頭の男から借りたクーペでした。しかし波子と伸一はそのことを知りません。ただただひたすらに、助手席側のドアについたいくつもの赤い手形が不気味でした。
 二人は玄関前にヴェスパを停めエンジンを切りました。二人の目前にある日本風の二階建て家屋が、柏崎波子の家です。玄関前には波子が手入れをしていた色とりどりの花が咲き甘い香りを漂わせていました。外壁は経年による劣化が目立っていましたが、作りはしっかりとしていて元よりこの地に建っていたことを思わせます。
「待っててもいいんだぞ」
 伸一が波子の横で呟きます。
「俺が行って、刈羽を見つけて出てくる」
 波子はそれには答えずに「生きてるかな、優ちゃん」と小声で言って「猫みたいになってないかな」と俯きました。
「大丈夫だよ」
 伸一は根拠なく言います。
 きっと大丈夫だから、心配するなって。
「大丈夫な事なんて今まであったっけ」
 今度は伸一が答えませんでした。答えない代わりに、彼は柏崎家の玄関を開きます。
 鍵はかかっていませんでした。
 伸一の後から波子も玄関に入ります。
 波子が久しぶりに吸った自宅の空気は、未だにカレーの匂いがしていました。

 静かな家の中に玄関の閉まる音だけが妙に大きく響きました。伸一は身構えます。この振動と音は、間違いなくおじいちゃんにも届いていることでしょう。そしておじいちゃんがそれに反応しないはずはありません。優をさらったおじいちゃんのことですから、いつ自分たちに敵意を持って向かってくるかわかりません。伸一はいつでも動けるように、息を殺して屋内の変化を感じ取ろうとしました。
 ふと、廊下の奥と繋がる部屋から物音が聞こえました。伸一が唾を飲み込みます。音は次第に大きくなり、やがてそれは足音となって二人に聞こえました。伸一と波子が廊下の奥を凝視します。
 来る。おじいちゃんが、来る。
「おかえり波子!」
 おじいちゃんが廊下に頭だけ出して明るい声で言いました。伸一はおじいちゃんの笑顔を見て凍り付きます。
 笑っていない。笑っているのに、笑っていない。なんだよ、その顔。
 おじいちゃんは笑顔などではありません。口元と目が、ただ歪んでいるだけでした。
「おまえは」
 伸一を見つけたおじいちゃんが顔から表情を消します。部屋の電気を消すように何気なく、さっと無表情になりました。伸一とおじいちゃんは見つめ合いました。黙ったまま見つめ合いました。おじいちゃんは部屋の入り口から廊下に顔を出しているだけなので、伸一と波子からは生首が浮いているように見えました。妖怪おじいちゃん。伸一にとってそれはきつい冗談でした。全然笑えません。
 伸一が優の居所を聞こうとしたその時です。
「いらっしゃい!」
 おじいちゃんは再び目と口角をつり上げて、元気いっぱいにそう叫びました。
「今日はいっぱいお友達がくるねぇ波ちゃん!」
 おじいちゃんが廊下に出てきました。
 その手には包丁が握りしめられていました。銀色に光る刃を上下させて、おじいちゃんは二人を手招きします。
「おいでおいで。刈羽んところの娘も、うんうん、あるからここに、ここにあるから!」
 ある、とおじいちゃんは言いました。いるではなく、あると。その発言に二人は不安を感じられずにはいられません。ある、という言葉は人間に使う物ではないのですから。
 刈羽優はモノになり果てたのだろうか。嫌な予感が伸一と波子の脳に広がり、皺に沈み込みました。
「ねぇ、おじいちゃん?」
 震える声で波子が言います。おじいちゃんは波子の声を聞けたので、顔を真っ赤にして喜びました。
「なんだい? なんだい波ちゃん?」
「優ちゃん、優ちゃんさ」
「うん?」
「殺したの?」
 おじいちゃんが止まりました。
「ね、ねぇ、ちょっと、ねぇ、優ちゃんは?」
 おじいちゃんは止まっていました。笑顔のまま。
 伸一も波子も全身の震えが止まりません。心臓が壊れそうなほど速まり、自ずと呼吸も浅くなりました。
「波ちゃんは」
 おじいちゃんが笑顔のまま問います。
「刈羽の娘が死んだら、嫌か?」
「は、何言ってるの? そりゃ」
 そりゃ、嫌だよ、優ちゃんが死んじゃったら。
 波子はおじいちゃんにそう伝えました。しかし、何故でしょう。波子はその言葉を、おじいちゃんの目を見て言えなかったのです。
「そっかぁ、なぁ、波ちゃん」

 どうして刈羽の娘が死んだら嫌なんだ?

「そんなの……」
「友達だからにきまってんだろ!」
 伸一が吠えました。大きな声が波子の耳に響きます。
「なぁ波ちゃん、どうしてだ?」
 おじいちゃんは伸一を無視しました。
 波子は考えます。
 考えたのですが、だめでした。
「わかんないよ……わかんないよ!」
 おじいちゃんは波子を見つめました。
「でも! でも! やだもん。優ちゃん死んじゃうの、やだもん」
 柏崎波子はそれしか言えませんでした。
 しかし、おじいちゃんには、それだけで十分でした。
「友達なんだね、波ちゃんの」
 とても、優しい声でした。
 どこかで安心したような、そんな声でした。
「じゃ、食べてあげようね。刈羽の娘、食べよう」
 入っておいで、準備をしなきゃ。
 おじいちゃんはそう言って、部屋の中へ消えました。
 二人はついていく事しかできませんでした。
 それで、精一杯なのです。

 刈羽優は暴力と信仰の中に沈んでいました。
 居間の畳の上には様々な調理器具や調味料が置かれていました。塩や砂糖の袋、醤油やお酢の瓶、赤い味噌、黄色いサラダ油、茶色いごま油、緑の瓶のバージンオイル、真っ黒なソースと真っ赤なケチャップ、赤と黄色のコンソメ、溶けたバター、油にまみれた塩こしょう、カセットコンロの上に大きな鍋、そして銀色の包丁、銀色のナイフ、銀色のフォーク、銀色の鋏、銀色のノコギリ。畳の上で両手両足を拘束された刈羽優の周りを囲むようにそれらは置かれていました。
 優は動きません。美しかった顔は所々が腫れ上がり、下唇の皮が中心から半分ほどめくれていて、さながら口紅を塗ったようでした。口内は奥歯と頬の内壁の接触により、粘膜と肉が剥がれていました。そこより溢れ出た血液は半開きの口からこぼれて、白く細やかな肌を艶のない汚濁で台無しにしていました。後ろ手に縛られた両手を見ると、右手の中指が薬指側に直角に曲がっていました。中指の付け根が藍色に染まり肥大しています。
 これらはすべて、おじいちゃんの仕業でした。
 刈羽優に暴力をぶつけ、その自由を奪ったのもおじいちゃんです。
 刈羽優の自由を奪い、解体と調理の準備をしたのもおじいちゃんです。
 居間の奇妙さに動けなくなった二人にも、それだけははっきりとわかりました。
 二人は思います。
 おじいちゃんは本気だ。本気で刈羽優を、食おうとしている。
 優を見つめておじいちゃんはしゃがんでいました。右手には包丁が握られたままです。
「おじいちゃんな」
 二人を見ながら、おじいちゃんは優しい声で語り出しました。右手には包丁が握られ、その後ろでは刈羽優が両手両足を縛られています。そんな光景の中で、おじいちゃんは穏やかに語りました。
「波ちゃんに、友達ができたときは嬉しかったなぁ」
「おじいちゃん……? 何言って、」
「波ちゃんは、ずっと、ずーっとひとりぼっちなのかと思っていたから。学校から帰ってきて、女の子の友達ができたって聞いたときは、おじいちゃん涙がでそうになったもんだよ」
 おじいちゃんの声が震えます。瞳には涙が浮かんでいました。
「波ちゃん、刈羽の娘、好きなんだろ? 友達だからな」
 波子は答えられません。
 おじいちゃんは、そんな波子を見て笑いました。
「友達を友達って認めるのは、恥ずかしいよなぁ! そうだよな、波ちゃん! わかるよ、波ちゃんわかるよ!」
 おじいちゃんは大声で笑いました。そういうものさ! そういうものさ! と時々咽せながら笑いました。
 波子と伸一は怖くて動けません。怖くて怖くて、動けません。
「おじいちゃんな」
 包丁を握る手に力が入り、太い血管が浮かび上がりました。
「この娘も、許せねんだ」
 だってよ、とおじいちゃんは続けます。
「ぜーんぶ、持っていこうとするんだよ、こいつらは。大事なものを、ぜーんぶ」
 哀しそうな声でした。
 
 伸一は震える足に意識を集中させます。
 ビビってる場合じゃない。やられるぞ、このままじゃ。いいか、俺、動けよ俺、動けよ、俺の足。助けろ、刈羽を助けるんだ。
「だからなぁ、波ちゃんになぁ、刈羽の娘をなぁ」
 伸一の心臓が大きく脈打ちます。その拍動は肋骨を震わせ、肺に廻る空気を揺らしました。
 駆けるぞ、賭けるぞ、懸けるぞ。刈羽を取り戻すんだ。友達を取り戻すんだ!
「食ってもらおうと思う」
 波子が笑いながら涙を零しました。
 どこか決定的なその言葉を聞き、伸一は無言で優の元へ駆け寄ります。畳がずれるほど力強く、一歩を踏み出しました。
 
 一瞬の出来事でした。
 優の元に駆けだした伸一を、おじいちゃんは慌てて取り押さえました。
 たったそれだけの動作でした。
 たったそれだけなのに、伸一の腹部には包丁が突き刺さっていました。
 衣擦れの音すらしないほど、あっさりとしたものでした。
「いっ……た」
 伸一は自分の腹から生える包丁の柄を掴み、咄嗟に引き抜きます。おじいちゃんは一歩後ろによろめいて、畳に落ちた包丁を見下ろしました。刀身の半分ほどが赤く染まっています。
「……みしまくん?」
 包丁と伸一の背中を交互に見やり、困惑した声色で波子が伸一を呼びます。
 伸一は「いや、大丈夫、なんでもない」と言って、波子に振り返って微笑みました。
 おじいちゃんが震える手で包丁を拾い上げ、伸一に切っ先を向けます。
「じゃ、邪魔は、邪魔はさせんぞ」
 伸一は赤く染まった包丁を向けられても、ちっとも怖くはありませんでした。腹から流れる血は暖かく、心臓は恐ろしいほどにゆっくりと脈打っています。伸一を呼ぶ波子の声はどこか遠くに聞こえ、目の前にいるはずのおじいちゃんは次第に見えなくなっていきました。伸一は一歩進み、ゆっくりとしゃがんで、横たわる刈羽優の頬を撫でました。
「まもってまもってまもるんだろ、刈羽」
 掠れた声でした。
「やめろ! やめろ! 邪魔をするなこの餓鬼めっ!」
 おじいちゃんはしゃがみ込む伸一の背中を包丁で斬りつけました。制服が裂け、皮膚が割れました。伸一の顔が一瞬歪みます。
 波子はただひたすら顔に笑みを張り付けて、何も言わずに座り込みました。そして笑ったままで涙を零します。もう、わけがわかりません。どうして今おじいちゃんは、伸一を包丁で切り裂いているのだろう。
 波子が声を出して笑います。したたり落ちる血を見て笑います。おじいちゃんの怒号を聞いて笑います。
 限界でした。
 柏崎波子は、いよいよ限界でした。
「どいつもこいつも! どうして、どうして……!」
 まるで動じない様子の伸一を見て、おじいちゃんは困惑して叫びました。
 伸一はおじいちゃんを無視して、優を抱きかかえようとします。
 もちろんそんな力は伸一には残っていないのですけれど、しかし彼は何事も厭わずに優を救おうとしているのです。
「どうして波子を! 幸せにさせてくれないんだ!」
 おじいちゃんは絶叫し、伸一の背中に包丁を突き刺しました。右肩肩胛骨に突き刺さったそれは、伸一の背中から羽のように生えています。
「幸せだぁ?」
 伸一が振り向き、おじいちゃんを睨みました。
「てめぇ勝手な幸せなんて、いらねんだよ」
 この、くそじじいめ。
 三島伸一は、そのまま倒れました。
 おじいちゃんを睨み付けたまま、倒れました。
 畳に真っ赤な血が広がっていきます。
 三島伸一もまた、動かなくなってしまいました。

 おじいちゃんは息を荒くして、動かなくなった伸一を見下ろしました。色あせた畳に伸一の血液が染みこんでゆきます。うつぶせに倒れる伸一の奥には、四肢を拘束された刈羽優が転がっていました。調味料と調理器具に囲まれて二人は動きません。伸一の腹から湧き出る赤色が、ゆっくりと広がっていくだけでした。
 おじいちゃんは波子を見ました。力無く畳に座り込み、顔面に引きつったような笑顔を張り付けて、優と伸一を見つめていました。波子の大きな瞳からは今にも涙がこぼれそうです。
「波ちゃん……」
 おじいちゃんの声に波子は全身を震わせました。いやだいやだと消え入りそうな声で呟き首を振ります。
「波ちゃん、怖がらなくてもいいんだよ」
 努めて優しい声を出し、おじいちゃんは波子の目の前にしゃがみます。
「やっ、やだ! 来ないで!」
 おじいちゃんは力無く波子の名を呼びました。
「どうしてそんなことをいうんだい?」
 そして涙を抱えた瞳を見つめて問います。
 波子は何も答えません。
「波ちゃんはね、刈羽に連れて行かれるかもしれないんだよ」 
 波子は何も答えません。
「いいかい、柏崎の家はね、刈羽の家に連れて行かれたんだよ。死に連れて行かれたんだよ」
 波子は何も答えません。
「みんな死んじまったろ? せがれも嫁も、みーんな刈羽に奪われたんだ」
 波子は何も答えません。
「おじいちゃんな、はっきり言うとな、刈羽の家の者は生かしておけない」
 波子の肩が跳ねました。
「殺してしまってもいいと思ってる」
 波子はおじいちゃんを見つめました。やめてくれと願いを込めて、よしてくれと縋るように。
「おじいちゃんがあの子を殺しちゃったら、嫌か?」
 いやだよ、と波子を答えました。声を出したら急に涙が溢れてきました。波子は倒れる優と伸一を見ます。波子を助けようとした二人が、今は動かなくなっていました。
「いやだよ……いやだぁ!」
 いやだ! やめて! やめてよ! そんなことしないで!
 波子は叫びます。体にはまるで力が入りませんでしたが、それでも波子は喉の奥が切れそうになるくらいに叫びました。やめてくれと懇願する毎に唾液が血の味に変わっていきます。吐きそうになるほどの大声で、波子は叫びました。
「やめて! おねがいやめてよっ!」
「どうしてだ?」
 おじいちゃんは落ちついた様子で波子に尋ねます。
 その声色を聞いて、波子は叫びたい衝動を抑えました。本当ならば嫌なものは嫌なのだと強引に済ませてしまいたい所でした。しかし、部屋の奥で動かないでいる二人を見ると、波子の閉じかかった心の奥底が、それでは駄目だと抗うのです。
「だって」
 波子は全てを素直に、そのまま言葉にしました。
「だって、無くなっちゃうの、もう嫌なんだもん。優ちゃんも三島くんも無くしたくないんだもん」
 おじいちゃんはそれを黙って聞きました。
「あのね、わたしね、言われたの。三島くんに。無くしたくない人を友達というんだって」
 うん、とおじいちゃんは相づちを打ちます。その時のおじいちゃんのおだやかな表情に、波子は気づきませんでした。
「でもね、いつ無くなっちゃうか分からないから嫌だって言ったの、そんな友達いらないって」
 波子は手を強く握りしめます。
「そしたら三島くん、いつ無くなるかわからないなら、今無くならないようにしろって、そういってくれた」
 おじいちゃんが目を伏せました。波子は震える声で言います。
「わたし、優ちゃんも三島くんも無くしたくない」
 無くしたくない! 波子は大きな声で叫びました。
 おじいちゃんは涙を零します。鼻水をすすり、皺だらけの指で熱くなった目頭を掻きました。
「そうかぁ」
 天井を仰ぎ大きく溜息をつくと、おじいちゃんは笑顔で波子に聞かせました。
「本当に良い友達ができたんだな。よかったなぁ、波ちゃん」
 その笑顔は波子が大好きなおじいちゃんの笑顔でした。


「でも駄目だ」


 おじいちゃんは首を振って顔から一切の表情を消し去りました。波子は声も出さずに口を半開きにして、立ち上がるおじいちゃんを見ます。おじいちゃんは調理器具の山の中から、優を縛るのに使った縄を取り出します。それから動けないままの波子を引きずって、いつかと同じように柱へ縛り付けました。前よりも複雑に緊縛します。腹の上を一周、胸の下を一周、両脇の下を一周させ、余った縄で柱の後ろに回した両手を縛りました。
 私の声はおじいちゃんに届かないんだ。縄により強制的に背筋を伸ばされた波子が、首から上だけをぶらりと脱力させました。体に巻き付く縄に体重が乗り波子の肌に食い込みます。
「波ちゃん、よく聞きなさい」
 おじいちゃんはノコギリを手に持ち、神妙な面もちで波子に語りかけます。
 好きな人と永遠に一緒にいる方法を、おじいちゃんは見つけていました。

 おじいちゃんの持つノコギリの刃に朝日が反射しています。その光は、柱に縛り付けられた波子の目へまっすぐにぶつかりました。目を細めて波子はおじいちゃんを見ます。おじいちゃんは優の前にしゃがんでいました。
「なぁ、波ちゃん。人間には心があるよなぁ」
 おじいちゃんは優の傷だらけの顔を見つめて言います。
「人間ってのはな、生きていくうちに心をやりとりするんだ。好きな人に心を捧げたり、自分の子どもに心を配ったりするんだ。でもな、生まれながらに自分の持つ心ってのは無限にあるものじゃない。少しずつ減っていって最後は無くなってしまう。その時が人の死ぬときだ。普通は死ぬまでに自分の心を使いきるか、ほとんど残っていないくらいになるんだよ。その代わりに他の人から優しい心や愛される心をもらって、隙間を埋めるんだ。それを幸せって言うんだ」
 それなのに、とおじいちゃんは続けます。
「時々、心が余っているのに死んでしまう人がいる。まだ人に与える心が残っているのに、まだ人から埋めてもらわなきゃならない隙間が残っているのに、死んでしまう人がいる。それが波ちゃんのお父さんとお母さんだ」
 波子は優の顔を見ようとしました。しかしノコギリが邪魔で見えません。
「おじいちゃんな、思ったんだよ。波ちゃんのお父さんとお母さんの、誰かに与えるはずだった心はどこに行ったのだろうって。だってそうだろ? 本来は色々な人の心の隙間に入り込むはずだったんだ。そうやって受け継がれて、語り継がれて、心ってのは続いていくんだからな」
 波子はおじいちゃんの言うことがよく理解できません。それどころか、不快ですらありました。綺麗な話しをしているようですが、そんなおじいちゃんのすぐ横では優と伸一が倒れているのです。それなのに、この人は、いったい何をいっているのだろう。波子は顔を歪めます。
「誰の元にも行かなかった心は、きっとまだ本人達の中にあったんだよ」
 そう言っておじいちゃんは自分の胸を叩きました。まるでそこに心があるかのように。
「おじいちゃんは、波ちゃんのお父さんの親だから、その行き場を無くした心を無下にしたくなかった。せがれの体の中には、まだ心が残っていたはずなのに。でもそれに気づけなかったから、火葬場で灰にしちゃったんだ」
 ノコギリを握る手に力が込められました。獣の牙のような刃が天井を向きます。
「もし、その余った心をおじいちゃんが全て受け取れていたのなら」
 おじいちゃんは波子の目を見つめます。
「せがれは、おじいちゃんの中でずっと生きていられたのに」
 それを聞いた波子は、
 ボケているんじゃないだろうかうちのおじいちゃんは。
 としか思いませんでした。あまりにも荒唐無稽な話しだったからです。心を受け取ればずっと生きている。波子には毛ほども理解できない理屈でした。
「そうすれば、ずっとずっと一緒にいられたのに」
 波子はなんだか馬鹿馬鹿しくなって笑いました。ずっと一緒にいられるわけない。波子はそれを身をもって知っています。
「だからな、波ちゃん。好きな人とずっと一緒にいるには、その人の心を自分の中に取り込めばいいんだ」
 波子は
「何言ってるのおじいちゃん」
 と抑揚のない声で言います。 
「波ちゃんにとって、この刈羽の娘は大事なんだろ。それはよくわかったよ。けれどな、おじいちゃんにとって刈羽の家族は、うちから大切なものを奪う鬼の集まりなんだ。波子を奪う奴なんだ。だから、この娘は生かしておけない。もちろん、あの母親もだ」
 おじいちゃんはノコギリを握り直しました。
「それでも黙っているなら、うちに近寄らないなら見過ごそうとも思っていたよ。けれどダメだ、もうダメだ。刈羽の娘は波ちゃんを奪って隠したんだから、もう、ダメだ、もう奪われてなるものか」
 波子は唾液を飲み込みます。おじいちゃんの言葉の端々には明確な殺意が滲んでいました。
「でもな」
 おじいちゃんは少しだけ語調を弱めました。
「おじいちゃんにとってな、波ちゃんの言った友達を無くしたくないって願いは、何より大切なんだ」
 それは本心でした。幼い頃から不幸の渦中に身を沈めてきた波子の幸せを、おじいちゃんは何より願っていたのです。両親を失った心の隙間を何かで満たせないものか。自分が死んだ後でも強く生きていけるようになってほしい。おじいちゃんはそう思っていました。ただ、おじいちゃんもまた絶望の中にいたのです。家族を失い他人を恨み生きていくことで、普通を失っていったのです。
 おじいちゃんは続けます。
「だから、波ちゃんに刈羽の娘を食べてもらう。そうすればおじいちゃんの生かしておきたくないという願いも、波ちゃんの無くしたくないという願いも、どちらも叶えることができるだろ?」
 会話が途絶え、静寂が居間に広がります。
 おじいちゃんの話を聞いた波子は、項垂れたまま笑いました。
「なに? おじいちゃん、なに言ってるの?」
 肩を震わせ頬をひきつらせ波子はおじいちゃんに向けて言い放ちます。
「おかしいよ、おじいちゃん。狂ってる」
 おじいちゃんは肩を落とし、大きく頷いて
「そうかぁ」 
 と言いました。
「でも、間違いないから、食べような」
 波子は泣きました。
 おじいちゃんはノコギリの刃を、刈羽優の親指に宛います。

 ちょっと待ってよ。
 波子はだらしなく口を開いたまま、その光景を見ることしかできませんでした。
 優の両手は背後で縛られているので、おじいちゃんが優の手に何をしているのか波子からは見えません。ただ、波子には「嫌な確信」がありました。おじいちゃんがノコギリを持って優の背後に回ったということ。先ほどからおじいちゃんは優を「食べよう」と繰り返していること。これらを踏まえれば、混乱で思考がうまくいかない波子にも予測がたつのです。
 刈羽優はこれから解体されるのです。
 やめて、やめて! そう叫びたかったのですが、波子は声が出ませんでした。
 おじいちゃんが優の背後でノコギリの刃を引く見当をつけていました。
 波子の背中に脂汗が滲みます。喉の奥が乾き、口内が粘つきました。
 ふと、波子とおじいちゃんの視線が合いました。
 波子は精一杯の声を出そうとします。けれどもやっと絞り出したそれは、蚊の羽音よりも小さなものでした。
「ね、やめて?」
 おじいちゃんは微笑み、一気にノコギリを引きます。
 

 ごりごりごりごりごり。


 優が目を覚ましました。顔を歪め眼球がこぼれ落ちるくらい目を見開きます。波子は優が生きていたことに安心しました。そしてすぐに優の背後で起こっている惨事を想像し、唇をかみしめます。
「い……ッ」
 芋虫のように身をよじることしかできない優は、頭を浮かせて自分の背後を見ました。しかしほんの少しの所で優には見えません。
 おじいちゃんがもう一度、ノコギリを引きました。骨を削る低い音が鳴りました。
 優が絶叫します。
 骨が削れました。
 優が暴れます。
 おじいちゃんが押さえつけました。
 優が絶叫します。
 波子が泣きました。
 おじいちゃんが額の汗を拭います。
 ふう。
 血塗られたノコギリが波子の目に映りました。
 ノコギリが再び優の背後に消えます。
 優も泣いていました。
 おじいちゃんは無表情で、ノコギリを引きます。
 骨が削れました。
 優が暴れます。
 おじいちゃんは無表情で、ノコギリを引きます。
 優が削れました。
 ノコギリが暴れます。
 たくさん血が出ました。
 優が叫びます。
 やめてくれと叫びます。
 おじいちゃんはやめません。
 やめてくださいと叫びます。
 おじいちゃんはやめません。
 ごめんなさいと喚きます。
 おじいちゃんはやめません。
 優が暴れます。
 おじいちゃんが押さえつけます。
 おじいちゃんが優を壊します。
 優は叫んでからまた叫んで、それから叫びました。
 波子は目を閉じ歯を食いしばり、彼女の中で鎌首をもたげたデストルドーに、ひたすら犯され続けました。
 そんなに乱暴にされては波子は壊れてしまいます。
 おじいちゃんは波子を見ていません。
 すこしも見ていません。

 いつの間にやら優の悲鳴は消えていました。
 
「ほら」
 おじいちゃんが波子に向かって何かを放り投げました。それは拘束される波子の目の前に落ち、ばらばらに四散します。
「ゆうちゃん」
 刈羽優の右手の指でした。親指が付け根から切断されています。人差し指は付け根と第一関節の間から、中指は第一関節を分断して、薬指は爪の根本から先のわずかな部分が、それぞれノコギリで破壊されていました。
「ゆうちゃん!」
 切断面から血液がこぼれ落ちました。肉と骨がノコギリの荒い刃で切られています。波子の脳裏に両親の死体が蘇りました。血と肉と死が、波子の小さな体に押し寄せます。
「ゆうちゃん、ゆうちゃん!」
 刈羽優は泣きながら左手で右手を押さえます。熱いのか痛いのか優には分かりません。ただ、波子の目の前に投げ捨てられたものが自分の肉体の一部だったことははっきりと分かりました。あるはずの指が消え失せ、血が噴き出しているのを優は感じました。
 無い! 無い! 指が無い!
 優は人間らしさの欠片もない音を出しました。喉の奥底、腹の内側から、大きな音を出しました。言語の造形は無く、空気を揺るがす悲鳴を発しました。痛いのです。痛くて痛くて痛いのです。彼女は指を失ったのですから。
 おじいちゃんは波子の元に寄り、切断した優の指をさらに細かくノコギリで刻んでいました。食べやすいようにするよと波子に告げて。
 波子はそれを見ていました。
 小さく笑って涙を零し、口を開いて涎を垂らし。

 そして三島伸一はゆっくりと立ち上がり、背中に刺さったままだった包丁を引き抜きました。
 血溜まりの中にいる彼は、自分が本当は何をするべきかなんて見当も付きません。
 それでも彼は一歩踏み出しました。
 腹から血を垂らして。
 背中から命を漏らして。
 右手に包丁を構えて。



sage