最終話 前編 ねじれ波と間欠


 三島伸一は診療所の待合室(とは名ばかりの居間でした)に敷かれた布団で目を覚ましました。起き抜けの粘度の高い思考で彼が見た窓の外は、雨上がりの白っぽい朝日に輝いていました。窓の枠に垂れる昨夜の雨の名残が朝日を反射しています。伸一はその水滴の中に七色の円を見つけました。晴れたな、と彼は再び目を瞑ります。
 昨夜、石地万代に救出された伸一と波子は、その足で禿頭の男の診療所へ運ばれました。その際石地と男の間に、低体温症の人間を無闇に暖めるのは命に関わるとか関わらないとか、そういったおぞましい会話がなされたのですが、寒さと大腿部の激痛に身体を乗っ取られた伸一の耳には届きませんでした。
 寝返りを打ち、伸一が再び目を開きます。脇に敷かれた布団で横になる柏崎波子と目が合いました。
 遠くから雀の鳴き声が聞こえます。二人は見つめ合ったまま、なにも音を立てませんでした。波子が気まずそうに目を伏せて、布団の中で何度か身体を捻り伸一に背を向けました。寝癖で乱れた波子の後頭部が伸一の視界に映ります。
 伸一はその頭になにか声をかけないといけない気がしました。ここで何か言わないと、もう今まで通り話せなくなる気がしたのです。
「なぁ、柏崎」
 波子は反応しません。
「その、昨日なんだけど」
 伸一は枕の皺を見ながらバス待合所でのことを思い出しました。
「ごめんな、嫌がってたのに。俺、なんか無理矢理、その」
 波子は布団を引き上げて自身の顔を半分ほど隠し「べつにいいよ」と小さく答えました。その声は布団の綿に吸収されてしまいそうで、言葉の真意をなにもかも置き去りにして伸一に届きます。伸一はちっとも良さそうじゃない「べつにいい」だなと嘆息しました。
 そんな声で言われたって気にしてくれとしか聞こえないよ。伸一はそう言いたかったのですが、彼にその勇気はありませんでした。ただ布団の中でなんども手を握ったり開いたりしながら、持て余した感情のやり場を探します。
「もういいの。本当に、もう、いいから」
 波子はそれだけ言うと布団の中に潜り込みました。貝かよ。伸一は波子の本心を酌み取れません。
 それからしばらく時間が流れました。窓から射し込む朝日が、先ほどより随分はっきりと畳の色を浮き上がらせます。
 鳥の声に混ざって車が走る音や犬の鳴き声が増え、やがて人間の出す騒音しか聞こえなくなりました。その間ずっと、伸一と波子は何も話しませんでした。
 しばらく経ち、沈黙に引きずられて伸一が眠りに落ちそうになった頃、勢いよく部屋のドアが開いて禿頭の男が現れました。
「起きろ。おまえらに話しがある」

 伸一と波子はそれぞれの布団の上に安座させられました。布団から半ば強制的に掘り起こされた二人は、一度だけおはようと朝のあいさつを交わしましたが、そこにはこれ以上の会話を成立させてなるものかという波子の意識が滲み出ていました。
「よし、起きたな」
 禿頭の男が二人の前に腕を組んで立ち、それぞれの表情を見ます。
「シケてんな……。まぁいい、手短に言うぞ」
 刈羽優が戻ってこない。
 禿頭の男はそれだけを二人に伝えました。伸一は手短すぎますよと抗議すると、男は舌打ちしてから優が着替えを取りに自宅へ戻ったきり帰ってこないことを告げました。伸一はなにかあったのかと心配し波子を見ました。波子はただ項垂れているだけでした。
「万代にも言おうと思ったんだが、あいつお前らを連れてきてすぐにどっか消えたからな」
「どっか?」
「行き先なんて知らんぞ。俺は万代みたいな趣味はない」
 なんにせよ、と男は続けます。
「刈羽優が戻ってこないってのは事実だ」
「家で寝てるとか……ないっすよね」
「ありえなくもないが、わざわざこの状況にあって自宅で寝るとは考えにくいだろう」
 伸一がそうですねと何度か頷きます。その脇でずっと波子は黙っていました。視線を布団に落として、膝を抱え込んで少しも動きません。その様子を見て禿頭の男が「どうした、まだ具合が良くないか?」と訊ねました。波子は「いえ、大丈夫です」とほとんど口を動かさずに答えました。
「大丈夫なら大丈夫そうな態度でいろよ、鬱陶しい奴だな。死ぬ間際の人間がよくそんな顔してるぜ。うわーもうだめだーってよ」
 男の発言に伸一は言葉を飲み込んでしまいました。弱っている人間に向かって鬱陶しいと言うなんて、あんたそれでも医者かよ。
 波子は尚更頭を垂れてしまいました。
「ああ、すまん、言い過ぎた。心ってのは額みたいに縫うわけにゃいかないよな。軽率だったよ」
 悪びれなく男が言いました。
「さて、もう一つ話しがあるんだが、ああその前にこれだ」
 男が白衣のポケットから青い携帯電話を取り出しました。それは波子の携帯電話でした。男は波子の前にそれを投げました。柔らかい毛布に携帯電話が落ちます。
「すまんね、持ち物は俺が預かってる。持ち物と言ってもその携帯電話しかなかったけどな」
 波子は静かに礼を述べ、携帯電話を両手で握りました。今にも落としてしまいそうなほど弱々しく握りました。
「なぁ」
 禿頭の男が言います。
「かけてみたらどうだ? 刈羽優に……というのがもう一つの話しだ」
 波子の手に少しだけ力が入りました。携帯電話のプラスチックが擦れる音を出しました。
「いえ、いいです」
 震える声で波子は拒否します。刈羽優を拒否します。
「は? あれ、友達じゃないのか?」
 男が伸一に問います。
「えーっと」
 伸一は横目で波子を伺いました。携帯電話を見つめる波子は髪で表情が隠れていました。
「いや、やっぱりいい」
 男が伸一を静止します。
「どうも俺は無粋なところがある。他人のクソが詰まったトイレを流そうとしちゃいけないな」
「ちょ、どういう意味ですか」
 それこそ無粋な物言いだ。伸一はいよいよ手に負えなくなってきたと焦ります。男は眼鏡を押し上げて言いました。
「トイレにクソが詰まったことはあるか?」
「いやまじ何ですか急に」
「あれは酷いもんだ。絶望感がある。流せば溢れるし無視しても消えない。今後に差し支えも出る。お前ならどうする?」
 伸一は露骨に嫌悪感を込めて「知りませんよ」と答えました。
「俺は自分で何とかするね。トイレのトラブルが何千円かは忘れたが、自分のクソの処理に人様を巻き込みたくないからだ」
「随分イメージと違うこと言うんですね。ふざけてるんですか?」
 言葉に苛立ちを込めて伸一が言いました。
 こんなくだらない話しをしている場合じゃない。俺達は、もっと大事な問題を抱えているんだ。彼は舌打ちします。
「イメージ? なんだ、硬派なイメージか?」
「えぇ、多少はそう思ってました」
 男が呆れた風に笑います。
「思いこむなよ、思いこまれると鬱陶しいから。想像と印象で他人と関わるな。人間関係は獲得と構築だ」
 遺棄と破砕もついて回るがね。男はそう付け加えると、一つ咳払いをしてから話を続けました。伸一は何も言えず、ただそれを聞くばかりです。
「とにかく、クソを処理する義務はそれを生んだ人間にある」
 言い終わると男は二人に背を向け部屋を後にしました。選べよどうするか、と言い残して。
 
 波子も伸一も、布団の上に安座したままでした。自分たちのあらゆる問題をクソ呼ばわりされたような気がしていました。石地万代も禿頭の男も、自分の周りの大人は基本的に嫌な性格をしてるんじゃないだろうか。伸一は深く息を押し出しました。
 なぁ柏崎。そんなこと言われたってさ、想像するなとか言われてもさ。他人の気持ちなんて想像するほか無いんじゃないのか。今の柏崎みたいに黙り込まれちゃ、俺は何もできない理由をまたキミに求めてしまいそうだよ。
「なぁ、かし……」
 
 波子の電話が鳴りました。
 刈羽優の携帯電話からでした。

 波子の携帯電話の画面にはゴシック体で「優ちゃん」と文字が出ました。それは刈羽優の携帯電話からの着信を知らせる表示でした。波子はその文字を読み「優ちゃんだ」と音程のない声で呟きます。彼女は着信を受けず両手で携帯電話を握りしめました。規則的な鳴動を彼女は無視します。
「おい柏崎、それ刈羽からなんだろ?」
 伸一の問いかけにも波子は答えません。黙って俯くだけでした。
 伸一は歯がみします。折角、自分に素直になれたというのに、本心から助けたいと思ったのに、黙られてふさぎ込まれてしまっては自分の言葉が響いているのかわからない。流されまいと覚悟を決めたのに、その途端に波自体が消え失せてしまったようでした。
「かしてくれ、俺が出る」
 しかし彼は諦めません。三島伸一は櫓を手に入れたのです。あるいはそれは、砂糖を一掬いするのがやっとのスプーンよりも小さいかも知れません。水底を押すには長さが足りないのかも知れません。しかし、手で櫛を模せば髪をくしけずることができるように、それがどのような形であれ、三島伸一は前に進む手段を手に入れたのです。
 乗る船が泥の船でも、舵取りさえいれば、沈むまでは進めるのです。
 三島伸一は柏崎波子の手から携帯電話を奪い、通話のボタンを押しました。
「もしもし? 刈羽おまえ今どこに居るんだよ!」
 電話の向こうは無言でした。伸一は一度携帯電話を耳から話し、画面で通話が正常にされていることを確認します。
 波子は不安そうに伸一を見ていました。やっとこっちを向いたな、伸一は少しだけ安心しました。
「おい、刈羽?」
「  …… 、」
 伸一の耳に微かに声が届きます。
「どうした? おい、かりわ」
「波子をどうした!」
 おじいちゃんの声でした。
 急に大声が発せられたので、伸一は肩を跳ねさせました。
「誰だお前は! 波子を、波子をどうした!」
 電話から漏れる声に、波子が泣き出しそうな顔をして耳を塞ぎます。そして誰にも聞こえないような声で「やだ、いやだ、いやだもうやだやだやだ」と繰り返しました。伸一は波子を一瞥し、その死体のような顔色に焦燥しました。
 なんだ、どういうことだ、考えろ考えろ考えろ。
 伸一は思考します。この声は、刈羽の車で襲われた時に聞いた声だ。刈羽優の携帯電話から着信があり、それを受信したところおじいちゃんの声が聞こえた。それの意味するところはただ一つでした。刈羽優はおじいちゃんに捕らえられたのです。
「おい……」
 伸一は思わず叫びました。
「刈羽をどうした!」
 波子が頭を抱えて蹲りました。背中を丸め、顔を布団に押しつけ、あらゆる物を遮断しようとします。
「波子に何をした!」
「何もしてねぇよ! おまえこそ刈羽どうしたんだ! なんで刈羽のケータイからかけてんだよ!」
「だまれ! だまれえ! 波子はどこにいる!」
 スピーカーが割れそうな声量でした。鼓膜を震わすおじいちゃんの敵意に伸一は戦慄します。
「か、柏崎なら、無事だよ。なにもしてない」
 無事、と言った途端、おじいちゃんは伸一の声にかぶせるように
「波子! 波子ぉ!」
 と叫びました。
 おじいちゃんはひたすらに波子の名を呼びました。伸一が声をかける余地すら与えずに、波子が答える暇すら設けずに、波子、波子と呼び続けました。次第に名前は意味を崩壊させ、なみこという発音だけが二人の耳に流れ込みました。狂ってる。波子と伸一は思いました。おじいちゃんは、紛れもなく狂っている。おじいちゃんは、間違いなく壊れている。
「狂ってるよ、あんた……」
 伸一は携帯電話に向かって諭すような口調で言いました。彼自身このような言葉を言うつもりはありませんでしたが、意思とは裏腹に本音がこぼれ落ちたのです。
 ふと受話器の向こうでおじいちゃんが黙りました。
 しばらく、黙っていました。
 やがておじいちゃんは穏やかな口調で、どこか磊落な印象さえ与えるような口ぶりで言いました。
「波ちゃん! うちへ帰っておいで。刈羽の娘もいるから! 美味しいご飯を作ってまってるからね!」
 伸一と波子は顔を見合わせました。
「おじいちゃんな、わかったんだ! 波ちゃんの気持ち、ちょっとわかったんだ! 一緒に食べような!」
 波子は目に涙をいっぱい蓄えて「もうやだよぅ」と微笑みました。伸一は、その撞着した笑顔を見ていられませんでした。
「いっしょに刈羽の娘、食べてあげような!」
 おじいちゃんがそういってしばらく経つとと、携帯電話のスピーカーから何度も叩きつけるような音が聞こえて、やがて通話は途絶えました。
 伸一は慌てて、着信履歴から優の電話番号を探して発信します。電話は繋がらなくなってしまいました。
「くそ、なんだよ、なんなんだよ」
 波子は苛立つ伸一を見て、いっそこの場で死んでしまえたら楽だろうかと、ほんの一瞬思ってしまいました。
 本気で。

 伸一は携帯電話を波子に渡そうとしました。しかし、手が震えていて、波子に渡ることなく畳の上に落としてしまいました。波子はそれを拾おうとはしません。急に静かになった携帯電話を、泣き出しそうな微笑みのまま見つめているだけでした。
 刈羽の娘を食べてあげよう。波子は猫の入ったカレーライスを思い出しました。
 ああ、ああ、そっかそっか、優ちゃんもカレーライスになっちゃうのかな。優ちゃんカレーライスか。最低。最悪。なにこれ、どうしてこうなったの。いつからこうなったの。馬鹿じゃないの。どうかしてるよ。
 波子の頭の中では、猫の姿やカレーライスの黄色や刈羽優の顔がめまぐるしく回っていました。それを追いかけるように、波子の大きな瞳が実際に動きます。伸一からしてみればそれは異様な光景でした。まばたきもせず、存在しない物の軌跡を追うように眼球を運動させているのですから、それは奇異といって差し支えありません。怖い。波子を見て、伸一はそう思いました。
 しかし怖いからといって、彼は波子から離れる気はありません。
「柏崎……行こう」
 波子は伸一を見やりました。
「え、どこへ?」
 波子はわかっていました。わかっていましたが、聞いてしまうのです。
「どこへって、刈羽を、助けよう」
 波子は乾燥した砂のような声で
「やだ、やだよ……もうやなの、もうやだ……みんな無くなっちゃうのは。まためちゃくちゃで、ずっとめちゃくちゃなんでしょ?」
 と言いました。言葉の最後は伸一には難解でした。
 まためちゃくちゃで、ずっとめちゃくちゃだ。波子は思います。今までまともだったことなんてあったのだろうか。これが普通と思い込み、これで自然と信じ込んでいたけれど、実はなによりおかしくて、実はなによりずれていた。私が生きてきた今までは、本当はおかしかったのではないか。
 波子はもうずっと、冷静ではありません。
「お、おい柏崎」
 伸一は震える声で自信なさげに問いかけます。
「友達、だろ? 刈羽、大切な、友達だろ? 本当に食われちまうよ、本当に。だから、助けるんだろ?」
 波子は笑いました。口元だけで笑いました。取り繕うように笑いました。隠すように笑いました。見せないように、笑いました。
「わたし、もうわかんないの。友達とか、なんなの? 大切とか、ほんとに何だっけ?」
 そして柏崎波子から表情が消えます。
「わかんないよ。私、もう、どうすればいいかわかんないや」
 三島伸一はすぐに答えられませんでした。
 大切とは何か。友達とは何か。それは、どうすれば理解できるのか。それは、どうすれば共有できるのか。三島伸一は考えます。なぜ、自分は刈羽優を助けたいのか考えます。大切だから助けたいのでしょうか。大切であるということは、助ける理由になるのでしょうか。きっとならないだろうと伸一は思いました。それは、違うのです。
 それはきっと違うのです。
「なぁ、柏崎」
 三島伸一は語ります。
「お前さ、いま無くなっちゃうのが嫌だって言ったよな」
 三島伸一は、初めて語ります。
「俺、今わかった。無くしたくない、一緒にいたいって思うのが、友達だ」
 三島伸一は、友情について、生まれて初めて語りました。
 誇らしげに、恥ずかしげに、それでいて惜しげもなく。
「俺は、俺の友達を無くしたくない。だから助ける。それは柏崎、その、お前もだ」
 自己中心的で、詭弁のようでもあり、根拠も曖昧で、説得力に欠ける決意の標榜でした。
 だからこそ、三島伸一の弁は、柏崎波子の壊れかけた自我にまとわりついて離れなくなりました。棘がなければ刺さることはないのです。色がなければ染みることはないのです。傷んでいるから引っかかることができるのです。
 三島伸一の放った理由は、とても素直な物でした。傷だらけの波子に染み渡る、柔らかく清らかなものでした。
 しかし、それでも、波子は動けませんでした。
「どうせ、どうせ無くなっちゃうのに、一緒にいたいと思うの? やだ、もう、そういうのは苦しい」
「いつ無くなっちまうかなんてわからないよ」
 伸一は言いました。
「だから今この時は、無くならないようにする」
 柏崎波子は黙りました。
 三島伸一は柏崎波子の手を引きずって診療所を出ました。
 友達をまもるために。


 外は綺麗な青空でした。
 伸一は、拒否するでも受けいれるでもない波子の手を引き、診療所の玄関を閉めました。すると丁度良く石地が伸一のヴェスパに乗って現れました。石地がヴェスパのエンジンを切ります。
「うお、なんだ手とか握っちゃって。おまえらどっか行くのか?」
 伸一は石地よりもヴェスパの登場に喜びます。
「ほんとタイミングいい人ですね。柏崎んちに行ってきます。ヴェスパ使っていいですか?」
「いいかもなにもお前のアシだろ……? で、なにしにいくんだよ」
 伸一は波子を見ました。波子は、今にも泣きそうな顔で、ヴェスパを見つめていました。
「刈羽を取り返しに行くんですよ」
 石地はしばらく考える素振りを見せて、はぁーん、といやらしそうに笑いました。
「細かいことは知らんが、まぁまぁ青春っぽいな、そういうの好きだぜ俺は」
 伸一は石地の言葉を無視し、ヴェスパの細長いシートに座りました。後輪がすこし沈みました。
「いくぞ、柏崎」
 波子はヴェスパの前で立ちすくみます。
「でも……」
 石地が煙草に火を点けました。
「お前が居ないと、そもそも場所がわからないよ」
 伸一が微笑み、波子に手を伸ばしました。波子は朝日を浴びるその笑顔を見て、思わず手を掴みました。伸一が波子を力強く引き寄せます。
「行こう」
 波子は答えませんでした。答えませんでしたが、痛む足をかばいながらもシートに跨ります。
 伸一がヴェスパのキックスターターを踏みつけました。緩やかにエンジンが回転を始めます。一度アクセルを手前に捻るとエンジンが勢いよく音を立て、ヴェスパのボディを隅々まで揺らしました。
「おい伸一」
 石地が煙草をくわえたままで言います。
「心配してやろうか?」
「……はい?」
「俺が心配すれば万事解決だぜ」
 伸一は何言ってるんですか、と思わず笑いました。
「いいですよ別に、ちょろっと行って、あっさり帰ってきますって」
 そうかい。石地が言うと、二人は走り出しました。
 甘い排気ガスを残して、ゆっくりと走り出しました。
「あいつ馬鹿だなぁ」
 石地が楽しそうに笑いました。
「ヴェスパで行ってどうやって三人で帰ってくるんだよ。三人乗りに挑むのかな」
 そして彼は、純粋な笑みを消し、煙草を大きく吸いました。
「いやぁ、参ったね。迎えに行かなくちゃなぁ」



sage