十 後編 初期微動と腹の血



 刈羽優が母の手を握ったまま眠りそうになったとき、禿頭の男が診察室へ入ってきて言いました。
「どうだ? 目は覚めたか?」
 その声に優は眠気を奪われます。
「今覚めました」
「キミの母さんの方だよ」
 禿頭の男が腕組みしたまま優の母を見ました。母は額に大きなガーゼを貼り、静かに寝息を立てています。呼吸に合わせて毛布が微かに動きました。
「まだ起きませんけど、あなたが治療したんだから大丈夫だって石地さんが」
 それを聞くと男は鼻で笑い「俺の腕は並だよ」とどこか不満そうに言いました。
「ただ、万代みたいな人間を専門にやってるだけだ」
「石地さんみたいな人間?」
 男は優を見て「あいつについてどこまで知ってるんだ?」と訊ねました。優は、石地万代とは三島伸一の保護者であり、世界を駆けめぐり取材をしている男だと語ります。
「なるほどな。確かにその通りだが、そりゃビートルズってのは歌をうたう連中だと説明するのと大差ないぜ」
 優は笑いました。
「やっぱ違うんですね」
「違っちゃいない。だがあまりにも不足している」
「じゃあ、いったい石地さんって何者なんですか?」
「そりゃ秘密だ」
 禿頭の男が頬をつり上げて笑いました。優は「教えてくれないなら思わせぶりな質問しないでくださいよ」と不満を述べます。
「俺が知りたかったから聞いたんだ。キミ達がどこまで石地万代と関わっているか」
 芝居がかった言葉遣いをする人だな、と優は嘆息します。そしてふと思い出しました。伸一と共に石地邸を訪れたとき、優は見慣れない言葉を目にしています。
「あ、そーいえばなんか気になる言葉が……」
「なんだ?」
「ああ、そうだ。子宮? 輸入論? だったかいう随分怪しい書類を石地さんちで見つけたんですよ」
 中身が全部バーコードだったから少しも意味はわかってないんですけど、と優は付け加えました。すると禿頭の男が感心したように
「よくそんなもの見つけたな」
 と優の顔を見ました。そして間髪入れずに「あいつは相変わらず物の管理がなってない」と髪のない頭部を掻きます。
「あれってなんですか?」
 男はしばらく黙りました。時々優の母の顔を覗き込んだり、腕時計を確認したりしました。
「なぁキミ、名前なんだっけ」
「優です。刈羽優」
 ゆうね、ゆう、ゆう。男が優の顔と母の顔を交互に見ます。
「似てるね。流石親子だ」
 優は思いがけない男の台詞に拍子抜けしました。随分つかみ所のない人だなおい。
「えぇ、まぁ、親子ですから」
 男は手を叩いて一度大きな音を出しました。
「よし、ゲームをしよう。俺の質問に即座に答えるゲームだ。考えないし振り返らない。できるか?」
「は? なんですかそれ」
「イントロダクションだよ。所謂一つのプロローグ。パルプフィクションの冒頭を目指そう」
 優は一つも飲み込めないまま、それでも「いいですよ。答えればいいんでしょ?」と了解しました。
 禿頭の男が口元だけで笑います。
 質問が始まりました。

「キミの名前は?」「刈羽優」「よく夢を見る?」「けっこう見ます」「夢は白黒?」「カラーです」「数字に色は見える?」「いえ、見えません」「酒は飲む?」「いいえ」「煙草は?」「いいえ」「恋人は?」「いません」「音楽は好き?」「とても」「好きなバンドは?」「一概には」「特定の曲に特定のイメージを持つ?」「曲に色なら感じます」「甘い物は好き?」「好き」「甘い匂いは好き?」「好き」「人間は死んだら生き返ると思う?」「まさか」「もし生き返れるとしたら、死ぬことに躊躇いはある?」「……たぶん、あります」「食事は好き?」「ふつうに」「よく噛む方?」「たぶん」「消化された食べ物は、どうなると思う?」「身体に吸収される?」「女に生まれて良かった?」「さあ?」「母親が死んだらどう思う?」「きっと悲しい」「母親に魂は存在すると思う?」「はい?」「君自身に魂は存在すると思う?」「はぁ、たぶん」

「魂は形而上の世界から具象化できると思う?」
「えーっと……」
 なんか宗教っぽいなこの人。優は思わず言葉を止めてしまいました。
「質問を変えよう。魂とやらをパーソナリティだのアイデンティティだの、意識や無意識だの、つまるところその人物の持つ性質をひっくるめた総称とした場合、その魂は身体のどこに存在すると思う?」
「魂が身体のどこにあるかって質問ですか?」
「その通り」
 まどろっこしい言い方をするもんだ。嘆息した優はぶっきらぼうに「脳じゃないですかね」と男に答えました。
「そう。それが子宮輸入論の概説だ。同時に石地万代の側面でもある」
「なんかの宗教ですか? ちょっとそういうのは苦手で」
 男が笑って「子宮輸入論の提唱者も、石地万代も、神様なんて必要ない生き方をしているよ」と静かに言いました。
「俺の話はこれで終わりだ」
「すいませんマジでぜんぜん意味わかんねーです」
 率直な感想を述べた優に男はわざとらしく肩を落としました。
「平成生まれは冷めてるな」
「昭和生まれが熱いってわけじゃないですけどね」
 かわいくないガキだ。禿頭の男が優を睨みます。
「あたし、お母さんの着替えとか取ってきます。自分の服も替えたいし」
 優は自分のシャツを引っ張って言いました。そこには優の母が流した血液が染みこんでいます。
「車運転できるらしいな。車庫にカマロがあるから使えよ」
「マニュアルはちょっと。ヴェスパならイメトレしてるから乗れそうなんですけどね」
「原理は同じだけどな。まぁいい。そしたらもう一台クーペがあるから使え。オートマだ」
「マジですか。それじゃ、ありがたく」

 男から鍵を受け取った優は、車庫に停めてあったクーペに乗りました。ドアを閉めシートに座ると、煙草の焦げたような残り香が鼻を突きました。
 エンジンをかけると低く静かな音が発せられ、車体が細やかに揺れます。優しく撫でるようなその振動が心地よかったので、優は少しの間目を瞑り先ほどのやりとりを反芻します。魂とか子宮輸入論とか、優にはあまり馴染みのないその言葉は、彼女の体の中で居場所を探して彷徨っていました。
「つってもね。魂とか言われてもね。全然興味わかねーですよ。あたしには関係ないよね、こんなの」
 掠れた声でそう言うと、優はシートの上で一度背伸びをしてからヘッドライトを灯火しました。夜の闇に細い雨粒が浮かび上がります。ブレーキを離すと、車がゆっくりと前進を始めました。車道に出てアクセルを踏み、車を滑らかに加速させます。そういえば音楽を聴けないなと、慣れない車を運転する頭の片隅で、優は少しだけ孤独を感じました。
 優の家を目指してクーペが進みます。道路に薄い轍が浮かび、すぐ消えました。

 優が自宅の前にクーペを停め夜空を見上げると、先ほどまで降り続いていた雨は弱まり、間もなく止みそうな気配を漂わせていました。住宅街を抜けるぬるく湿った風も、少しずつ弱まってきました。優は今朝、伸一と交わした会話を思い出します。意味無く降る雨はないとしたら、まもなく晴れそうなこの夜空にいったいどのような意味があるのだろうか。優はひとりかぶりを振って思索をやめます。やめやめ、だって今朝もいい感じに晴れてたのにおじいちゃんに追いかけ回されたんだし、駄目なときはなにやったって駄目ってことだな。
 車から降りた優は、雨を避けながら玄関の軒下へ駆け込みました。優の母を運び出した際、玄関の施錠を忘れたことを思い出し、彼女は不用心だっただろうかと後悔します。
 優はドアを開き、暗い玄関に足を踏み入れました。自宅の匂いに安心した優の耳に、ドアがゆっくりと閉まる音が聞こえます。時刻は零時を回っていて、玄関は一切の光を感じさせない硬骨な闇に支配されていました。濃密な闇は触れられそうなほどの存在感を漂わせています。光の届かない黒色を一枚めくれば何が飛び出すかわからないのです。優はその暗澹の裏側にややもすれば露骨な悪意さえ潜んでいるのではと震えました。そしていかに己が疲弊しているかを知ります。
 まったく、ろくな目にあってないからだ。暗いの怖いのなんて今日日はやんねーよ。
 玄関の照明のスイッチを手の先のみで探り、優はただいまと声に出さずに言ってから明かりを点けました。
 玄関には、なにも居ませんでした。
「はは、何にビビってんだか」
 いつの間にかじっとりと湿った手を擦り合わせ、玄関に落としていた視線を正面に向けます。

 ずっとむこうでおじいちゃんが見ていました。

 優は思わず「あ」と恐怖と驚きを吐露します。その震えは照明の橙に浮かんだ空気に乗って、おじいちゃんの耳に届きました。
 おじいちゃんが突然顔を歪めて、夜の闇と照明の光があやふやに混ざる廊下の奥から駆け出します。
 優は突然現れたおじいちゃんと、それに敏感に反応した恐怖に圧倒され、ドアを背にしたまま少しも動けません。
「波子に何をした!」
 おじいちゃんは優に掴みかかり、力任せにドアへ叩きつけました。優の背中が硬い玄関ドアにぶつかり家全体が揺れ、少し遅れて後頭部も鈍い音を立ててドアに衝突しました。衝撃の波が後頭部から鼻腔へかけて勢いよく突き抜けます。優の視界がぼやけ、鼻の奥の粘膜が焼けるように熱を持ちました。
「貴様っ、波子をどうしたんだ!」
 朦朧とする優の身体を何度も何度もおじいちゃんが揺さぶります。その都度、優の艶やかな髪に守られた頭部に激痛が走りました。ドアと頭部が衝突する音が家中に響きました。
 いたい! いたいいたいいたい! 優の叫びは声になりません。おじいちゃんは「おい! おいぃ!」と優をドアに叩き続けました。
「この血は!」
 おじいちゃんが優のシャツを掴み上げます。ボタンがいくつも弾け飛び、白い腹部が露わになりました。力無く項垂れる優の後頭部から血が垂れました。
「この血は! なんてことを……! 波子に何をした!」
 おじいちゃんは優のシャツを握りしめ、瞳に涙をためて優を睨み付けます。優は口を魚のように開けたり閉めたりするだけでした。それは波子の血ではなく自分の母親の血だ。それを伝えたいのに、脳を散々揺らされた優の身体は弾けるような痺れに支配されていました。
「答えろ!」
 おじいちゃんの皺だらけの手が優の喉にかかります。
「あ、、ぐ……」
 死ぬ。優はそれだけ思っていました。脳への血流が著しく減り、優の意識はみるみる遠のいていきます。
 くそったれ。だめだ、まじで、これは、だめだ。
 暗転していく視界の中で、優は涙を流しながら謝りました。
 ごめんね、なみこごめんねなみこ。
 あたしは、もうだめみたいだ。殺される、はは、殺されるのか。すごいなぁ、あたしの人生。だってさ、殺されるんだよ? すごくね? ねぇ波子、あんたの親を殺しちゃったから、あたしもきっと殺されるべきなんだよね。やったらやりかえされるのか。いい勉強に、いい経験になったよ。でもさぁ、これは、こんな幕切れは、嫌だなぁ。ごめんねって、いってないじゃんね、波子。なみこ、なみこ。
「……ぁっ、みこ。なみ、っ」
「その名前を呼ぶんじゃない!」
 おじいちゃんは首から手をほどき、その手で優の顔面をドアに叩きつけました。優の顔が削れました。もたれかかるようにして血の跡をドアに描きながら、優は静かに座り込みました。額や目尻や唇から皮膚が剥がれています。頬の内側が破けています。半開きの口から唾液と血液の混ざった物が溢れだし、顎を伝い喉を過ぎて胸を這い下着を汚し、白く細い腹部に赤い線をいくつも作り上げました。
 おじいちゃんは優の髪を鷲掴みにして、彼女の目線を自分の顔へ向けました。柔らかい毛髪が小さな音を立ててたくさん抜けました。
「波子を、波子を殺したのか」
 優は微かに首を振ります。まさか、そんなことするわけないじゃん、馬鹿かよ、ちくしょう。
「じゃ、じゃぁ生きているのか!」
 髪を掴まれたまま優は首肯します。
「教えろ! 教えろ! 波子はどこに居るんだ! 波子を返せ!」
 血の味が広がる口内。焦点の合わない視界。朦朧とする意識。それらは全て優から自由な行動を奪っていました。度を超えた痛みに神経は麻痺し、すこしでも苦痛を和らげようとしています。その代償として、優は五体を満足に動かせないのです。ただひたすら頭部だけが重く淀んでいました。
「教えろ!」
 途切れそうな意識の中、優は口角を上げておじいちゃんを睨みました。
 痺れる右手を無理矢理動かし、おじいちゃんの目の前に突き出します。
 波子。ごめんね。
 優は中指を突き立てました。
「渡すもんか。くそったれ」

 突き立てた中指がへし折られ、おじいちゃんの蹴りを浴びた優から意識が飛びました。
  

 優は夢を見ていました。
 波子と伸一とピクニックに行く夢でした。
 静かな丘の上で三人は寝そべっています。
 優がふざけると波子が笑い、伸一が呆れました。
 バスケットの中には波子の作ったお弁当が入っていて、近くに停めた車からは穏やかな歌が流れています。
 時折吹く強い風がくすぐったくて、優は逃げるように波子と伸一と手をつなぐのです。
 幸せな夢でした。
 そんな光景を、そんなありえない光景を、優はずっと夢に見ていました。
 そんな夢をずっと。

 優は一度目をさましました。
 見慣れない畳の部屋で、おじいちゃんが包丁や調味料を優の目の前に並べていました。
 しかし身体は動かず、優はそのまま再び眠りに落ちました。

 次起きるときまで優は夢を見ませんでした。
 そんな優を、調理器具一式を用意したおじいちゃんはじっとりとした視線で見つめていました。
 時折何事かを発するのですが、優の耳には入りません。
 優は眠り続けています。
 両手両足を縛られて、柏崎家の畳の上で。



sage