十 前編 因子分析


 柏崎波子と三島伸一が共に倒れたその時、錆びたパイプ椅子に座る刈羽優は、目の前で眠り続ける母親の手を握りました。彼女にとって母親の温もりはあまりにも懐かしく、触れ合う手のひらが恥ずかしそうに疼きます。いつの間にか母親と同じ手の大きさになっている。優はその事実に少しだけ戸惑いました。
 刈羽家は事故の後から目に見えて家族としての団欒や安泰を失いました。安穏を殺して剣呑が蔓延ったのです。父には、人を殺し他所の家庭を破砕した重責がのしかかりました。職も失い平静も失いました。夜眠るのが怖くなり、朝起きるのが嫌になり、妻を見ても娘を見ても心に凪は訪れなくなったのです。刑期を終えてからも痩けた頬に肉は戻らず、がらんとした中空を見上げ本人にしかわからない何事かを繰り返す日々が続きました。そのような夫の姿を見た優の母もまた、懺悔に尽きる日々と変わり果てた日常に衰弱していったのです。そのように保身すら儘ならない夫婦の目には、孤立していく優の姿は映りませんでした。故に優は事故以来まともに両親のぬくもりに包まれたことはありません。寂しい夜も冷たい布団で眠り、うらぶれた感情は音楽に救ってもらうようになりました。その優が今、母の手を握っているのです。
「おかあさん」
 優は一言だけそう呟きました。母は眠ったまま起きません。
「あー、あの。あのさ」
 握った手は離さず、照れくさそうに語りかけます。
「あのね、あたし、言うことにしたから」
 眠っていることを知りながら語りかけます。
「波子に、全部言って、んで、やっぱ仲直りしたいんだ。別に喧嘩したとかじゃねんだけど、すっきりした友達になりたい」
 届かないことを知りながら語りかけます。
「そしたら、きっと全部良くなっていくよ。お父さんだって戻ってくるよ」
 何も知らない優は語りかけます。
「あは。なに言ってんだあたし」
 優は握った手を解き、目の前で大きく開きました。
「お母さんより手おっきくなったよ。こんど合わせてみようね」
 そして、大きくなったねと言われたい。その願いは優にとってあまりにも幼稚に思えたので、彼女は口に出しませんでした。
 優は母の手を再び握りました。とても柔らかく、暖かく、すこし乾燥していて、何よりも安心する手でした。彼女は握り続けました。石地万代が優の元を訪れるまで、ずっと。

 優の元を訪れた石地の手には制服の上着がありました。彼は優にそれを渡します。
「寒いだろ、それに血みどろ」
 優のシャツは母の血に染まっていました。赤とも黒ともつかない汚れが、胸元から腹部へ無造作に散らかっています。
「いえ、大丈夫です」
 手渡された制服をひざの上に置き、優は石地を見ました。石地はそうか、とだけ答えると優の母を見て言います。
「あのハゲが治療したんだから心配しなくても大丈夫だよ」
 あのハゲ、といわれて優は禿頭の男を思い浮かべます。
「あの人、お医者さんですか?」
「ブラックジャックを医者と呼べるなら、あいつだって医者だろうな」
 母が眠るベッドの下からパイプ椅子を取り出し、石地が優の脇に腰掛けました。
 その所作で石地から香水の匂いが剥がれ、優の鼻に届きます。
 たくさんの花をすりつぶした様な甘い香りでした。
「石地さん」
 優は母を見つめて言いました。
「お母さんを助けてくれてありがとうございます」
「お。意外だな。もっと母親嫌いの印象だったけど」
 優は軽く笑いました。そしてそんなことありませんよ、と言って、どうして石地がそう思ったのか考えました。
 しかし理由は思い当たりません。
「あたし母親嫌いっぽいこと言いましたっけ?」
 石地は足を組み替えて、
「違うのかい?」
 と皮肉を込めて笑い「俺はエディプスコンプレックスが人類共通だと勘違いしていたみたいだ」と言葉を切りました。優はいまいち意味がわからないまま続けます。
「まぁでもホントにありがとうございました。ぶっちゃけ目の前真っ暗でしたよ」
「ああいう泣き方を痛哭っていうんだろうな」
 石地が笑います。優は照れたように
「あんまり言わないでくれませんかね、あたしだって泣くときは泣くんです」
 とぶっきらぼうに言いました。
「ああそうだ優ちゃん」
 石地が優を見つめます。
 綺麗な顔だな、と彼女は思いました。
「キミが過去を話してくれた後、俺はキミに随分と嫌な事を言ったけど、まぁ気にすんなよ」
「気にすんなよ?」優は笑います。「謝られるのかと思った」
「まさか」
 石地が立ち上がりました。
「人間の心を丸裸にするのに優しさなんかいらないんだよ。ひん剥くくらいが丁度良い。裸にして押し倒して身動きを封じれば、こっちのもんだろ?」
 優は嘘つき、と思いました。
 優しくしてくれたくせに。よく言うよ。
「どっか行くんですか?」
「へぼ伸一のお迎え」
「場所、わかるんですか?」
「俺の”勘”って外れたこと無くてね」
 石地が嘯きます。優は呆れて、
「それって勘って言えるんですか?」
 と問いました。
「俺はこの世に生まれてきたことを偶然と思うタイプの人間だが、キミはどうだい?」

 石地の居なくなった部屋で、優は母親の顔を見つめました。まもなく目を開きそうな、穏やかな寝顔でした。
「意味のわからん人だなぁ」
 優は少し寒くなったので、制服の上着を着ました。
 何度も上着を渡してくれた石地を考えて、悪い人ではないんだろうなと優は思います。
 袖に腕を通し、制服の皺を伸ばしました。
 すると襟から黒く細長いものが落ちました。
「なんだこれ?」
 床に落ちたそれを拾い上げ、首をかしげながらその正体を探ります。制服の襟の裏側にすっぽりと隠れてしまうくらいの長方形で、表面を撫でると指の腹に引っかかる極小さな突起が無数にありました。優が制服に宛がってみると、それは糊で貼られたようにぴたりと張り付きます。片方の端に丸く膨らんだ箇所がありますが、そこ以外は非常に薄いつくりでした。
 防犯タグ? いや制服に必要ねーだろ。じゃーなんだろ。予備ボタン? 襟にはつけないよな。
 そして彼女は気付きます。
「これ、石地さんの匂いがする」
 


 石地万代は進行方向に少しの迷いも無く車を走らせていました。雨降る夜道で前方の注視もそこそこに、彼はミニ・クーパーのラジオを操作しています。電波を拾ったラジオが女性の声を流しました。雑音が多く何を言っているのか判然としません。
「あれ。調子わりーな」
 石地はラジオを別の周波数に合わせました。先ほどの周波数よりも雑音はありませんでした。ボリュームを目いっぱい上げると、微かに雨音が聞こえてきました。
「うーん、なんかピンチっぽいじゃねーか」
 気だるそうにそう言うと、彼はラジオのボリュームを落としました。それから携帯電話を取り出して画面を確認します。周囲の地図と自車の位置、自車から離れたところに赤い円が点滅していました。
 石地はゆっくりとアクセルを踏み込みます。
 エンジンの破裂音が、闇夜をつんざきました。

 まもなく石地は伸一の携帯電話を見つけました。画面には大きな罅が入り、液晶はその機能を失っていましたが、本体に埋められた基盤は辛うじて無事のようです。石地は辺りを見回し、バス待合所を見つけました。
 バス待合所の中には波子と伸一が居ました。伸一は地面に、波子はベンチにそれぞれ倒れていて、少しも動きません。
「おい伸一。おまえちゃんと見つけてるじゃねーか」
 三島伸一は少しも動きません。それを見て石地は微笑みました。
「波子ちゃんも、動かない体でよくここまで逃げてきたな」
 柏崎波子は少しも動きません。それを見て石地は微笑みました。
「やばいこいつら死にそうだ」
 二人の下に近づいた石地は、まず伸一の首筋に手を当てました。弱弱しくも脈はありますが、春先の雨に体温は奪われ、冷えたコップのように体が固まっていました。波子の体も同様に酷く冷たくなっていました。低体温症かなと石地が呟きます。
「どうすんだっけな。低体温症」
 石地は伸一の頬を叩きながら考えます。
「まぁいいや。暖めよう」
 最後に大きく伸一の頬を打つと石地は立ち上がって、横たわる二人を待合所の奥に移動させました。それから車に乗り込みエンジンを掛けます。何度か切り替えして車をバス待合所に相対させると、
「シュワちゃんみてーだ」
 と笑って、車を突っ込ませました。トタン作りの待合所はとても脆く、車の前方が押し入っただけで入り口がひしゃげました。ヘッドライトのガラスに罅が入り車体の塗装が剥がれ、ボンネットだけが待合所の中に進入しました。
 石地は車を降りると破壊された待合所の入り口をくぐり、二人の前まで歩み寄ります。そして先ずは伸一をボンネットの上に載せました。ついで波子を伸一の横に寝かせます。ミニクーパーのボンネットは、高校生二人を寝かせるのにはいささか手狭でした。しかしエンジンの高熱を浴びたそこは、二人の体を温めるのには良い塩梅だったのです。石地は運転席に戻り、ギアをニュートラルに合わせエンジンを空ぶかしさせました。タコメーターが勢い良く跳ね上がり、金属の焼ける臭いがあたりに充満します。石地はタバコを一本取り出し火をつけました。ボンネットの上でエンジンの熱に晒される二人を見て、彼は焼肉を連想し一人で笑います。タバコを吸い終わる頃になると、ボンネットは高温になっていました。伸一と波子の服から白い蒸気が遡上しています。
「やりすぎかな」
 車から降りた石地はボンネットの二人に呼びかけました。起きろよ、体から湯気たって刃牙復活みたいになってるぞ。すると伸一が目を開きおぼつかない口調で何か言います。
「いしじさん、さむいです」
「あ? 今ほかほかにしてやるからな」
 伸一が首だけ起こし辺りを見回しました。そして小さく笑って「ありえねー。車でつっこんだんですか」と呆れます。すると石地が「雨の下でやっても温まらない気がしてね」と答えました。外は未だに雨が降り続いています。緩急をつけて、油断させては脅かすような狡猾さで、ずっと降り続いています。
「かしわざきは?」
「お前の横で寝てるだろ」
「そうじゃなくて」伸一が波子へ首を向けます。「起きましたか?」
「いや、起きてないよ。つっても起きても体が動かないだろ」
 石地が波子を覗き込みます。唇を真っ青にして、エンジンの振動に揺られるがまま眠っていました。
「ハゲの注射の影響なんだけど、筋肉が弛緩するってのは思った以上にキツイもんだよ。弛緩とは言うが体感的には硬直に近い。動かないことを弛緩というセンスには脱帽するけどな」
 伸一は力なく「そうですか」というと、ボンネットに頭を落としました。
「嫌だって言われたんですよ、柏崎に」
「嫌だ?」
 ボンネットの上で熱せられたまま、伸一がはいと答えました。
「俺は、俺は何もできないけど」
 伸一の声が震えます。
「でも、それでも柏崎たちを助けたくなったんです。理由なんてわかりません。可哀想だからとか、そんな程度です」
 石地は黙って聞いていました。まっすぐと伸一の目を見て静かに聞いていました。
「それで、俺は、流されてばかりの自分が嫌で、だから、こんな自分はやめたくなったんです」
「ああ、それで?」
「だから俺はもう今までの俺をやめます」
「やめてどうする?」
「俺は、自分が助けたいから柏崎を助けます。もう決めました」
 でも、と伸一が波子を見ます。
「それを言ったら、柏崎は嫌だって。嫌としか言いませんでした。ずっと嫌だって、全部嫌だって、そう言ってました」
 目じりに涙を浮かべて、伸一が呟きます。
「俺は、どうすればいいんですか」
 唐突に石地が伸一の頭を鷲づかみにしました。伸一はとっさに身を強張らせます。しかし石地は満面の笑みで伸一の頭を撫でました。髪の毛が抜けそうなほど撫で回しました。伸一は急な出来事に呆然とし、石地にされるがままで居ます。
「女が言う嫌だって言葉はお願いしますって意味だ」
 伸一が石地の手を払いのけ、
「おっさんですか。柏崎はきっと、心のそこから嫌だったから嫌だって言ったんです。そんな気がします」
 と落胆した声色で言いました。
「これだから童貞は」
 目を伏せる伸一を指差し、石地が挑発するような口調で言いました。
「嫌だって言われたらやらねーのか? やめてって言われたらやめるのか?」
 伸一が何か言おうとしましたが、石地がそれを遮りました。
「お前の気持ちに他人は関係ない」
「ただのワガママ野郎じゃないですか」
「違うよ。そこら中に散らばってる、ただの自分勝手とは違う。考え抜いて出た答えのままに生きてる奴は、割と冴えてるワガママ野郎だ」
 石地はそこで話を打ち切り、眠り続ける波子を担ぎました。
「帰るぞ。なかなかやるじゃねーか、伸一」

 帰り道の車内では一言も会話はありませんでした。波子は後部座席で眠り続け、伸一は助手席から外を見ています。伸一は涙をこらえるのに必死でした。なかなかやるじゃねーかという一言が嬉しくて堪らなかったのです。彼は漠然と、自分自身が石地に認めて欲しいと思っていたことを自覚しました。石地が認めてくれるのなら、自分の出した答えはあながち間違っていないのではないかと、自信の火が小さく灯ります。彼は噛み締めるように自分に言い聞かせました。よし、やってやるよ。冴えてるワガママ野郎で居てやるよ。そんで、こればっかりは意地だけど、柏崎に料理を作ってもらおう。そしたら刈羽も一緒にして、三人で食べるんだ。
 この下らない騒動が終わったら、みんなで飯を食おう。
 そうしよう。


sage