05 凪に紫煙(前半)

 処女がウリだった私は、好きになった男がゲイだと知った日の晩、小顔ローラーを股に突っ込んで破瓜した。その時に使った小顔ローラーは、ゲイの男から誕生日に貰った物だ。ざまあみろ。
 彼は冗談半分でそれを私によこした。だから私は半分本気で自分の顔がでかいのではないかと心配し、夜な夜なお風呂上りにこっそり頬をコロコロしていた。顔は小さくならなかったけれど、ちくしょう、小顔ローラーへの愛着だけはしっかり湧いたのだ。
 愛着というのは至極厄介なものだ。本来の目的を超えて感情に癒着する。あるいはそれは、背負う必要の無くなったランドセルをいつまでも取りおきたくなる感情に似ている。時折押入れの奥から引っ張り出し、さっと埃を払って無垢な日々に思いをはせる。ああ、輝かしき日々。私は今、こんなに腐ってしまったよ。このように、愛着をもった何かに過去を語らせ今を嗤うのだ。
 この度、好いた男がゲイであるという事実に慕情を粉砕された私は、愛着を持つ愚かしさを認めつつも、それでも小顔ローラーに彼の面影を重ねた。
 小顔ローラーでする自慰は哀愁と愛執が混在する。
 初めての自慰は墓参りのようだった。私の恋心は殺され、悔しさと妬ましさの灼熱で火葬された。火葬炉の中には塵になった思慕の念と小顔ローラーだけが残っていた。私はそれらを集めて持ち出し、失恋と彫られた墓に向かう。骨壷に塵を収めて、小顔ローラーは卒塔婆にした。そして偲ぶのだ。墓への供物は破瓜の血。南無阿弥陀仏と喘ぎまくる。なんてロマンチック。
 私は今日も、金属的な棒に彼を投影し自慰をする。
 この棒は何事も話さないが、しかしゲイの彼は優しく話す男だ。目を瞑り私の中をかき回すと、彼の顔や声があふれ出てくる。
 彼は小柄で、瞳が大きくて睫毛が長くて、唇が柔らかそうで、少し声が高めで、裏声が心底綺麗で、お酒に滅法弱くて、私に優しくて、みんなに優しくて、嫉妬させる天才だった。私は彼の顔を見るたび切なくなり、声を聞くたび触れたくなり、そばにいるだけでくらくらとした。
 しかし彼に触れることのできる人間は私ではない。全世界の女にその権利はない。
 全ての女は彼のいる舞台からはじき出されるのだ。私がはじき出された先には一つパイプ椅子が置かれていて、私はそこに吸い寄せられるように着座し停滞を強いられる。今後彼が恋愛をするとして、私がそれに参加する唯一の方法は、観客となり黙って見るという残酷なものなのだ。
 はは。ろくでもない。
 ならば私はそんなもの見たくはない。目を閉じて、彼からのプレゼントを汚してやる。
 ざまあみろ。ざまあみやがれ!

 自棄を起こしたわりに、私はバージニアなんかを吸うタイプの女で、それはつまり自分を棄てきれていない証明のようにも思えた。
 初夏の夜。二十二時を回り、空気の粒が冷えている。開け放たれた窓より煙を散らす私が、室内をローズオットーの香りで満たすのは妙だろうか。
 私はかれこれ一時間ほど煙草を吸い続けていた。
 真下の部屋に住む男女が、窓全開でセックスをしている。私は一時間前からずっとその喘ぎを盗み聞きしていた。
 ねぇリョウ君足閉じちゃだめ? と女が聞いてからいやらしい声が連発する。それはもう盛大で、スタッカートで、高まっていき、水っぽさが増し、艶っぽさが溢れ、彼女らは何度もどこかに行ったらしい。
 どこに行くっていうんだセックスすると。
 彼女らは暫く黙った後、またぞろ耳障りな甘ったるい声でそれを始めた。そろそろ窓を閉めて音楽でも聴いたほうがいい。先ほどからずっと下腹部がなにかに飢えているし、このまま放置すると下着を汚すことになりかねない。
 しかし立ち上がろうにも体がだるい。脳が溶けている。足元にバージニアの白と緑の空き箱が三つも転がっていて、私はそれらを吸い始めてから一時間しか経っていなくて、それはつまり、あれ、なんだっけ、私は煙草を何本灰にした?
 煙草を消してぐでんと床に倒れこむ。
 喘ぎが連発している。
 風が冷たい。
 床が甘く臭い。
 ああ、苦しいな、寒々しくって、容易に火照る。
 私は下着の中に手を入れて劣情を確認し、それから小顔ローラーにコンドームを被せた。極厚の真っ黒いやつ。
 私もどこかに行こう。あてつけだ。でっかい声出してしてやる。
 階下の住人が喘ぎで私の部屋を侵食しているのだ。それならば抗わなければならない。私の部屋に他人のそういった声が届いてくるのはとても不快なのだ。しかし窓は閉めない。それは負けだから。
 さて、しよう。
 息を吐いて小顔ローラーをあてがったところで呼び鈴が鳴った。
 ゲイの彼が訪ねてきた。

 ゲイの彼とは大学のドイツ語のクラスで一緒になった。大学一年生の春の頃だ。ドイツ語辞書が無くても単位を取れると無根拠に思い込み、そのまま授業へ出た私は、その日たまたま隣に座っていた彼に泣く泣く辞書を借りた。
 ドイツ語の授業初日はバウムクーヘンしか意味が解らなかった。お手上げの授業だったのだ。私はとっさにまだ辞書を買っていないだけだと嘘をつき、彼は「そしたら買うまで一緒に使おうか」と微笑んでくれた。それだけの出会いだ。ただその瞬間、私はどこかでずっと辞書を買わないままにする自分の姿を見た気がした。
 程なくして私と彼の他に男と女が一人ずつ仲間に加わった。小柄で赤縁眼鏡をかけたスレンダーな女と、死ぬ間際の犬みたいな男だ。彼女達は大学で知り合ったそうだが、私と仲良くなる頃にはもう付き合っていた。ケンとメリーと呼んでくれ、と言われたが、私たちはそれを無視した。あの二人には独特の世界観があるのだろうが、どちらもケンっぽくもメリーっぽくもなかったから。
 私たちはよく遊んだ。カラオケで声を枯らし、行きつけのバーであるダフ・ダブ・メロウで喉を焼き、海を目指して国道十六号線をレンタカーで疾走し、四人そろって煙草を吸った。
 ダフ・ダブ・メロウで煙とアルコールにまみれていたある日の深夜、私がほんの悪戯心で彼にホワイトレディを飲ませたことがある。その乳白色の甘いルックスに騙された彼は、カクテルグラスに半分残ったそれを一口で飲み干し昏倒した。その瞬間、私は恋に落ちた。セーフ・セックス・オンザ・ビーチばかり飲んでいた彼からある種の童貞を奪い取った気がしたのだ。略奪、そして恋の付与。それは恋愛への墜落。
 あるいはそれは恋に流れたという方が似合うかもしれない。
 さぁ恋をするぞ、彼氏を作るぞ、なんていう下心は無く、友達として過ごしていくうちに勝手にそれが生まれていたのだ。音楽を聴きながら歩いていると、ふいに曲のテンポにあわせて足を動かしているような、境界線の曖昧な恋愛の導入だった。後にその境界線は、ただの罅かその類の模様に過ぎなかったことを知るが、当時の私にはその区切りが輝かしく思えたのだ。私は何かを跨いで越えてから、自分が景色の変わらない異世界に迷い込んだことを知った。
 始まれば恋は早い。先走る感情と妄想に体がついて行かなくて、まるでずっと風邪を引いているような気分になる。憐れな私の体……。
「すごい匂いだね。アロマと煙草の区別がつかない」
 私の部屋に入ると彼はそう言った。私は未だに意識が茫洋としているので(煙草のせいだろう)気のない返事をして床に座り込んだ。
「なに。どうしたの急に」
「メール見てない?」
「見てない」
 私はテーブルの上に置かれた携帯電話を掴み未読のメールを読んだ。用事の時間まで暇をつぶさせて欲しい、と書かれていた。
「ねぇ、この街にはスタバもドトールもタリーズもミスドもあるんだけど。時間潰す場所を選んでる間に時間が無くなる街だよ」
「どこもかしこも禁煙でさ」
「ドトールは二階が喫煙席だしタリーズは分煙してる」
 彼が鞄を部屋の隅におろす。
「喫茶店ってのはコーヒー飲んで煙草を吸ってから何をしていればいいんだろうね」
「口の中が苦くなるのを悔やめばいいんじゃない」
 私は彼を見ないように努めた。それからテーブルの下に隠したコンドームを被った小顔ローラーを密かに掴む。まずい。こんなもの見せられない。
「煙草吸っていい?」
 彼がマルボロを咥えて訊ねた。私はどうぞ、と窓辺を指差す。
 階下の住人の喘ぎは途絶えずに私たちの耳に届いていた。彼が火を点けている隙を見て、私は小顔ローラーをクッションの下に押し込んだ。
「ねぇ、女の人はセックスをするとき何を考えているの?」
「処女にする質問じゃないと思うよ」
 彼が煙を吐きながら笑って言う。
「そう。質問を変えるよ。キミが処女を棄てるとき、いったい何を感じると思う?」
 私はクッションを見つめる。
「あっけないなとか、気持ちいいなとか、痛いなとか、屈辱だなとか、想像できるのはそのくらいかな」
「へえ」
 彼の吐いた煙が夜に消えた。私の脳も幾分まともな回転を取り戻し始める。
「あんたは、セックスってしたことあるの?」
「あるよ」
 男の人とだけね、と付け加えられた。私の恋が二度死んだ。そう思うのは身勝手だろうか。
 しかしそれも仕方ない。だって彼はゲイなのだ。
 彼がそのことを私に伝えたのは突然だった。なるほど、というのが実直な感想だった。納得である。私が彼を振り向かせんがためにしてきたあらゆる努力(それは例えば、彼の前を歩くときに限定して自身の後頭部を美化する程度のものだったのかもしれない)が一向に通用しなかったのも頷ける。
 晴れ間の見えない片想いの理由が、その時やっと判明した。曇天の辟易が晴天の霹靂によりボロクソに荒らされただけだったけど。
「でもね、僕はセックスがよくわからない。あれは、もしかしたら純度の高い愛情のやりとりなのかもしれないけれど、それでも他にやりかたが無いのかと考えてしまう」
「やりかた?」
「そう。愛情の伝え方。それは言葉だけではだめなのかな。キスだけではだめなのかな。抱きしめるだけではだめなのかな。いま下の階でやりまくってる二人は、いったい何をそんなに求め合っているのかな」
 彼が二本目の煙草に火をつけた。私は部屋に充満した煙とアロマと彼の匂いを吸う。
「どうも、汚い気さえするんだ。セックスをしている瞬間、相手が僕の直腸を広げる瞬間、僕のお腹が爆発したら愉快だろうなって思う」
「大惨事だと思うよ」
「そうかな。きっと綺麗さ。僕がよくするセックスは、僕の内臓だけに価値があるんだもの」
 私は彼のお腹が爆発して、相手の男が血まみれになる様を想像する。動かなくなった彼の上で、それでも相手は懸命に腰を振るのだろうか。
「要するに、セックスなんて気持ちの悪い事だって言うの?」
「そうかもね」
「なんだかそれって処女の言い訳みたい」
 彼は目を細めて、ゆるく嘆息し、
「ありがとう、それ、最高に嬉しいよ」
 と、ほざいた。

「ねぇねぇ! ちょっと聞いてよ! 今さっき歩いてたら、あんたの好きな人が男とホテルに入るところ見ちゃったの。そう、男と。なにこれどういうこと? え、は、マジでゲイなの? うっわ、あんた、それご愁傷様じゃん。いやーありえない。心底ありえない。いやー女っ気ないなーとは思ってたんだけど、男っ気あったってことかーマジかー。きついなー失恋じゃん。どういう人って言われても、そうだなぁ普通の人って感じかなー。会社帰り的なアレっぽかったよ、もう一人はちょっとゴツい系の……あぁ、うん、いやね、その、そうそう、彼と他に男二人で、うん、合計三人でホテルに」
 私は赤縁眼鏡の彼女からの電話を切り、彼が忘れていったマルボロを一本吸った。
 窓を開けても、もう何も聞こえなくなっていた。
 私の吐いた煙が先ほどより湿気の増した空気を引き連れて消えた。

 翌日、大学の授業を終えた私は死に際の犬とダフ・ダブ・メロウへ向かった。赤縁眼鏡の女の彼氏だ。ケンとも言うらしいが私はまだそう呼ぶつもりは無い。彼は今日も変わらず瀕死の犬みたいで、その容姿からは無条件に優しくしたくなるみすぼらしさが滲んでいた。出し抜けに彼は言う。
「彼女、煙草やめてさ。部屋だとどうにも吸えないからこの場所はありがたい」
「へえ。吸わない人の前では吸わないなんて博愛だね。あんたにまで禁煙迫ってきたらどうするの? やめるの?」
「どうかな。別れちまうかもしれないね」
 私たちはカウンターに並んで座る。ビールを二つ頼むと彼は煙草に火をつけた。それからわざとらしく高い声を出して言う。
「おねがい、煙草やめて体に悪いんだからプンスカプンスカ!」
「うわきもい」
「だろ。こんなこと言われた日にはさよならだ。煙草よりけむたい」
 そうかな。私も煙を吸う。メンソールが口内を冷やす。
「どうしてあの子は煙草をやめたの?」
 彼が目を細めて黙った。ビールサーバーから注がれる真っ白い泡を見つめていた。バーテンが泡を切るのを見届けてから彼は言った。
「彼女、生理がえらく遅れてるんだよ」
 煙を吐く。妊娠。その言葉だけが頭に浮かんだ。
 ビールがカウンターに置かれる。バーテンは何も聞いていないような、聞き耳をたてているような、どこかはっきりとしない他人の顔をしていた。
 さぁ乾杯。彼は喉を鳴らしてそれを飲み、大きなため息をつく。
「つっても、もともと不安定な体なんだけどね。彼女よく言うんだ。向こうで吹いた風が私に届くタイミングなんて知るものかって」
 彼が折れ曲がったエコーの辛い煙を吸い込む。私は少しだけ、向こうで吹いた風について考えてみた。彼女はその風をどこで待っているのだろう。草木のかわりにアスファルトとコンクリートが敷き詰められたこの街では、風にたなびく物は何も無い。
「それで、どれくらい遅れてるの?」
「二週間」
「そう」
 私にしてみればそれは遅延ではなく停止だ。私はそれの来る時期をだいたい予測できる。元気な一週間を過ごし、そこから続いてつまらない七日間を越えたあたりで世界の滅亡を願う破滅的な気持ちになる。それからホットケーキを敷き詰めた階段を下るようなぶよぶよとおぼつかない十日間が続き、作り笑顔が辛くなる頃に生理が始まる。すべて順調な上昇と下降。
 二週間生理が遅れたとして、それまでにセックスをしていたのなら私はまず妊娠を疑う。もちろん、期待せずに不安がる。腹の中になにか居るのではないかと。
 私たち学生にとってそれは望まれない命だ。すばらしい言葉。その捉えかたの自己中心さには反吐が出る。面倒ごとに厄介ごと、自身の世界に波風を立てる異物。つまるところその何かは邪魔者なのだろう。
「避妊してないの?」
「最初のほうは避妊しなかったし中に出してたよ。今はゴムを月初めに買って、それが切れるとつけない。翌月また買うまでは生だ」
「馬鹿じゃん」
 ビールを飲む。鉄の味がした。
「そんなの、できて当たり前でしょ。マジでありえない。むしろ作ってるじゃん」
「そうかな?」
 悪びれも無く彼は言った。
「そうだよ。むしろ今まで無事だったほうが奇跡だね。もう一年経ってるでしょ?」
「来週で交際歴十五ヶ月だ」
「いつからセックスしてるの?」
「付き合ったその日の夜。告白されてから三十秒でキスをして、その一時間後にセックスして、やりはじめて二十分後にはお互い愛してるって言った」
 私は想像する。好きです、付き合ってください。いいよ、付き合おう。そんな美しい寒気のするようなやり取りがなされてすぐ、彼らはベッドに入りお互いの体を繋いだ。彼らの間にどのような駆け引きや騙し合いがあったかは知らないが、しかしその甲斐あって交際が始まったというのに、獲得した喜びや幸福なんかを噛み締める間もなく行為に及んだというのだ。
 花を摘んで蜜を吸う。いかにも人間らしい。蜂は花を摘んだりしないのに。
 そりゃ、愛してるって言いたくもなるのだろう。いやらしさを隠すために、その言葉は便利だろうから。
「彼女、嫌がらなかったの?」
「喜んでたね。初めての相手にそんなことされて。むしろ、それをスタンダードだと思ってるんじゃないかな」
 初めての相手。その言葉が喉にへばりついた。
「処女だったってこと?」
 彼はそうだよ、というと新しい煙草をテーブルの上でとんとんと叩いた。
「おまえの前じゃ取り繕ってビッチ演じちゃいるけどね。涙流して血ぃ流して、声も出さずにしがみ付いてくる女は処女だろ」
 彼女の顔を思い浮かべる。清楚とはいえない彼女。ゆるくふわりと髪をうねらせ、きつめの香水をふりまき、この歳にもなってアイラインが妙に濃い。あるとき彼女は私に「はやくエッチしなって、ほらこれ、いける体開発的な本。この本の言うとおりにしてれば完璧」と言ってスローセックスがどうとかいう本を寄越してきた。
 その彼女は彼と付き合うまで処女だったのだ。そしてそれは、好きな男に捧げられたのだ。
「意外だな。でもさ、それってなんか卑怯じゃない?」
「卑怯?」
「そ。だって、何も知らない人間に、これが普通だよーって風にするんでしょ、その、中に出しちゃったり、そういうこと」
 お酒が欲しい。グラスには泡の残骸と水滴だけがついていた。
「なるほどね、卑怯か。俺は、卑怯な男ってわけね。クズって言葉も似合いそうだ」
 彼がマティーニをグラスが割れるほどドライに、私はホワイトレディをキャンディみたく甘めに注文する。
「面白い話してやるよ」
「なにさ」
「俺、中学生の頃に自分の精液を顕微鏡で観察したことがあるんだ」
「ほんとにきもいね」
「だろ? 爽やかな中学生男子が居たら、そいつはイカれてる。さて、ここからが面白い。俺は期待で胸を膨らませた。なにかが大量に蠢いていると思うとたまらない。あんなちんけな頭でっかちが、いったいどんな風に動いているのか知りたかった」
 飲み物が出され、彼の灰皿は新しいものに変えられた。
「生命の神秘。スタートラインにいるタネのグロテスクな形。俺はずっと以前、親父から放出されて母さんの腹の中を這い上がって、受精して着床して盛大に分裂しまくって、魚が腐ったみたいな胎芽になって、猿が腐ったみたいな胎児になって、それからまた母さんを下って来た」
 私は煙草を吸った。煙がカウンターに溶ける。照明のオレンジが白い靄に反射した。
「その過程の最初に親父の股にぶら下がっていたんだと思うと不思議でね。そのときの俺はいったいどんな風だったのか知りたくなったのさ」
「そう、なに、酔ってる?」
「大真面目だよ」
「あんたみたいな男によく彼女ができたね。それで、どうだった? 動いてた?」
 彼の吸うエコーは木炭を燃やした匂いがした。
 そしてあっけらかんと言う。
「いやぁ、一匹もいなかった」
 は? と思わず口に出す。
「無精子症だろうね。レンズの倍率をどれだけ上げても、ちょっとざらついた粘液のようなものしか見えなくて、精子はひとつもおりませんでしたとさ」
 ちゃんちゃん。そういって、愉快そうに私を見つめた。
「え、それって、医者とか行ったほうが良いんじゃないの?」
「そうかな。別に困ってないよ。俺には精子がない。俺には子どもができない。俺の血は、ここでおしまい」
「そんな。でも、なんか、見間違いとか」
「いいねそれ。何度も何度も自分で観察したよ。日を変えて、体調を整えて。いつまでたってもすっからかんさ」
 それでもお前は、俺を卑怯な男と呼ぶか?
 彼は私にそう聞いた。私は答えられない。
「いま、俺の彼女の生理が来ないのは、多分いつものことだろう。向こう側で風が吹いていないだけだ。でも彼女は、いいかい、自分の体を気遣って、それか腹の中に何かが居ると信じ込んで、煙草をやめたんだ」

 それでも俺を卑怯な男と呼ぶか?

 咥えたままの煙草の煙が私の目に触れて、思わず顔をしかめた。こんなに女々しい味のする煙草でも、そうか、確実に毒なんだな。ただそれだけを漠然と感じて、彼の問いには沈黙を差し出した。
 ここには今、私と彼の煙が充満している。ただそれだけだ。

 雨が降っている。
 ダフ・ダブ・メロウで彼と別れてから一人で帰路に着いた。アルコールで緩やかな波を打つ脳を持て余し、雨に打たれながらコンビニに立ち寄る。深夜のコンビニはこうこうと白い明かりに満たされている。目の奥が痛い。
 傘を買おうかな。篠つく雨をみつめる。雨粒に塗りつぶされた夜の景色は輪郭線が歪んでいて白っぽい。
 その薄い白に煙を混ぜる男が一人、コンビニ前の公衆電話にもたれ掛かっていた。男の隣には細長い銀色の灰皿が置かれていた。そうか、煙草を吸えるのか。
 私は灰皿を挟んで男の隣に立つ。ポーチから煙草とライターを取り出し火を打とうとしたが、濡れた手と風に阻まれてなかなか上手くいかない。
「火、貸しましょうか」
 男が私を見てそういった。男の長い髪は雨に濡れて頬に張り付いている。その表情は柔らかく、私はゲイの彼を思い出した。
「ありがとうございます」
 ほんの少しだけ声に警戒の色が入った。しかし男はそれに微笑み、自分の咥えていた煙草を口から外すと先端を私に向けた。
「これなら火が点きますよ」
 私は煙草を深めに噛み、彼の差し出した先端にバージニアをくっつけた。吸うと雨の匂いと男の煙草の味が私に流れ込む。
「点きました?」
「ええ、助かりました」
 しばらくの無言。横目で男を観察する。男はゆっくりと煙草を吸っていた。隙間を縫うような喫煙だった。体中に雨を纏っているところを見ると、男は雨宿りにコンビニの軒下に入ったように思える。
「随分降ってますね」
 私がなんの気なしに男に話題をふる。
「そうですね。雨は好きなんだけど、こう降ると香りが流れてもったいない」
「香りが流れる?」
 男がはっとして私を見た。そんな言葉を出すつもりは無かった。そう言いたげな表情だった。
「いや、変な事言ってごめんなさい」
「いいえ。その、香りってのは、香水とかのですか?」
「そう」
 男が一口煙草を吸った。
「さっきまで、好きな人と会っていたんです。その人の香りがとても好きで」
「へえ。なんかすてき」
「特に香水とかつけていない奴なんだけど、それでも不思議と身にしみる香りがして。その香りが俺の服についていたんですけどね、この雨に流されてしまった」
 きっと可愛い人なんでしょうね。私が訊くと男は笑って、
「ええ。小柄で、瞳が大きくて睫毛が長くて、唇が柔らかくて、少し声が高めで、裏声が心底綺麗なやつです。抱きしめるだけで満足してしまうような、そういう奴なんです」
 と言った。

 コンビニで傘を買いアパートへ向かう道すがら、携帯電話が鳴動した。
 赤縁眼鏡の彼女からだ。
「ねぇあんた、わたしの彼氏と会ってたってマジ? いやうん、それは別にいいんだけど、あいつさ、煙草とか吸ってなかった? え、吸ってた。はぁ、うん。いいんだけどね、それは別にさ。あ、わたし禁煙はじめたんだー。え、……うん、ちょっとやっぱ、体に良くないかなって。そうそう心境の変化的な。んはは。マタニティーぽいでしょ。ん。冗談冗談。ないでしょ、ちょっと遅れてるけど。いや、遅れがちっていうか、わたしって不安定っぽいの、色々。多分、あんたは波打ち際で生きてるタイプなんだよ、よせてはかえす波のよう。でもわたしって、海の真ん中でゴムボートに乗って風を受ける人間なんだ。どこから何が来てどこへ行くのか、それがわからない」
 へえ、そうなの。
 私と彼女の会話は、概ねいつもこんな感じだ。

 部屋に戻っても酔いは抜けなかった。それほど飲んだ量は多くないはずなのに、吐く息にはジンと麦芽の香ばしさがふんだんに混ざっていた。
 閉めきった部屋の据えた臭いが気持ち悪い。アロマと煙草と死んだダニの臭いだ。私は窓を開けた。雨音と一緒に階下の住人の喘ぎが聞こえてくる。
 どうして飽きもせずに毎日おなじことをするのだろう。そうでもしないと枯渇するのだろうか。恋人関係は揮発性でその補填とでも言うのだろうか、セックスは。
 窓辺に腰掛けバージニアを吸った。嚥下し息を止める。肺胞から毒が血に乗り脳を犯す。死んでいく感じがした。
 人間は日々ゆっくりと死んでいく。足元から伸びる命という糸を巻き取りながら、止まることのない散歩をしている。喫煙や飲酒というのは、その散歩の合間にスキップするようなものだ。たんたんたかたん、たんたかたん。ちょっと死に逝くのが楽しくなるでしょ。
 ねぇリョウ君、足閉じちゃダメ? 今日も彼女らは同じように愛し合っていた。
 私はクッションの下に隠したままの小顔ローラーを持ち出した。黒いコンドームを被ったままのそれを握る。世の男性諸君はこのようなサイケなラバーを股間に装着する瞬間、どこかで己を滑稽だとは思わないのだろうか。私はコンドームに包まれた小顔ローラーでそこそこ笑える。
 笑い種を性器にぴたりと寄り添わせる。コンドームは表面の潤滑剤が乾ききっていた。このまま入れ込むのは怖いので、それを口に含んで唾液を絡ませる。とても苦くてそこはかとなく悲しい。
 私は何をしているのだろう。
 雨に濡れて着替えもせずに、頬を膨らませて小顔ローラーを咥えている。しばらく舐めていると粘性が復活した。口内がゴム臭くて無様だ。
 口から離すと唾液の橋がたるんだ。そしてぷつりと途切れる。
 再び性器と出会った黒い小顔ローラーは、すこしだけいやらしい水音を鳴らし、ゆっくりとゆっくりと、私の中に進入した。入り口にせつない痛みが滲み、ごわごわと中を押し広げて進む。背中が痺れて唾液が増し、奥まで到達したことがわかった。ここが一番きもちいい。奥深くのすこし広くなった所。熊の寝床のような秘密の場所。
 ゆっくりとかき混ぜる。コーヒーにミルクを垂らし、その渦を台無しにするように粗野で粗雑に。
 私は下品だ。小顔ローラーに彼の面影を重ねて、それで喘ぐのだから。
 ああ、とてもきもちいい。
 ああ、ああ、惨めだ、死んでしまいたい。
 子宮口に起爆スイッチがついていればいいのに。
 そしたら、今この瞬間、奥底の肉のうねりをいたぶるこの瞬間、爆発して死ねるのに。
 私は泣きながら自慰に耽った。それから子犬が甘えるみたいな気色の悪い断末魔を発し、股に小顔ローラーを突っ込んだまま眠る。
sage