05 凪に紫煙(後半)

 ダフ・ダブ・メロウで瀕死の犬と酒を飲んでから三日間私は大学を休んだ。その三日間で季節は夏に乗っ取られたらしく、日中の暑さと湿気は耐え難いものへと変わった。
 大学へ行かなかったのはただ単純に面倒だったからだ。無精子症の彼と、生理の来ない彼女に会いたくなかった。だからメールも電話も無視し続けた。ゲイの彼からは何も連絡が無かった。心配しろよ、ちくしょう。
 四日目のサボりに備えてシャワーを浴び、うんざりするような部屋の暑さと階下のセックスに舌打ちして煙草を吸っていると携帯電話が鳴った。生理の来ない(彼女に対する私の印象はすっかり赤縁眼鏡から生理の来ない女に変わった)彼女からの画像つきのメールだった。

 いえい、車を手に入れたぜ!
 これから迎えに行くので海に行こう。

 その続きには古臭い車の写真が貼られていた。妙にボンネットが長く、昭和の刑事ドラマで爆破されそうな車だった。傷と錆びに汚れた銀色の車の奥で、生理の来ない彼女と無精子症の彼が溌剌としたピースサインを繰り出していた。
 わお、爽やか。
 ともすれば彼女の生理が始まったかのような笑顔だったが、それはまず無いだろう。生理の最中、彼女は私にさえろくに微笑まないのだから。もしそうなら彼女はカメラに向かって中指を突き出すはずだった。
 まもなく彼女が迎えに来た。いつもの四人がボロい車の前に並んだ。ゲイの彼が居たことに私は無表情で困惑する。彼は、私の部屋によった後、二人の男に抱かれたのだろうか。
 私は後部座席へと乗り込んだ。隣にはゲイの彼が座り、ハンドルは彼女が握った。無精子症の男は今日もやつれた犬のような風貌で助手席に座った。
 車はマニュアル仕様で、彼女はそれが初めてのマニュアル車だった。加速するたびにエンジンが割れそうに唸り、ギアを上げるたびに車体が大きく揺れた。お陰で彼女以外の全員が車酔いに陥り、車内は海に着くまでずっとくそったれな呻き声でいっぱいだった。
 海に着くと空は白んでいて、私達はやけくそで買った缶ビール片手に砂浜に降りた。空の色に朱が差し始め、つぶれたオレンジのような朝日がゆっくりと海の上に浮かび上がっている。遠くに聴こえるのはカモメの声と、時たま車が走る道路の硬い音。風はまだ冷たく、せっかちに頬を流れていった。私の吐く煙は風につれられ背後へと散った。その行方を振り返ると、ボロボロの車が海を見つめているのが小さく見えた。
 ゲイの彼と無精子症の男は波打ち際へ向かって走っていた。缶ビールに反射した朝日が眩しい。
「うーわ、子どもみたい」
 私の横に彼女が並んだ。すでに缶ビールを飲み干したようで、彼女は空き缶をはしゃぐ彼らに向かって投げつけた。
「あんたさあ」
 彼女は捨てられたレジャーシートを砂浜から掘り出し、べとつく砂を払ってそこに座った。私も隣に腰を下ろし、彼女の言葉の続きを待つ。
「なんで三日も学校休んだの?」
「面倒だったから」
 要するにそれはサボったってことね、と彼女は呆れた風に言った。私は特にそれを否定する気もなかったので、スニーカーのつま先で砂の粒をかき混ぜながら首肯する。
 彼女は私が缶ビールを一向に飲まないことに気づくと、温くなったそれを私の手から奪った。缶ビールは犬のくしゃみのような音を出して開き、彼女はそれを美味そうに飲む。私も一口もらったが、あまりの不味さに砂の上に吐き捨てた。
「車、買ったんだね」
 私が言うと、
「うん。ボロいけどね、彼氏の憧れの車なの」
 と彼女は笑った。
「私はよくわかんないんだけど、あの車のCMにケンとメリーってキャラが出てたみたい。あいつ、車好きだから。それで自分のことをケンって呼ばせたいんだ」
 へえ、と私は答えた。なるほど、あいつも男の子なんだな。馬鹿みたいだけど、車が好きだなんて、ちょっと可愛い。ケンと呼んでやっても良いような気がした。
「あいつさ、本当にゲイなの?」
 彼女は少し控えめな口調で聞いてきた。
 ゲイの彼はケン(仕方ない、そう呼んでやろう)と並んで朝日を浴びている。
「そうみたいね」
「ショックじゃない?」 
「別に」
 私は私を装飾する。ショックを受けないはずが無い。しかしどうにもならないことをどうにかする力など、私は持っていないのだ。そんな劇的な力、都合よく持ち合わせてるわけないじゃん。
 彼女はつまらなそうに鼻を鳴らし、それから海辺の彼らを一瞥した。
「わたしさ、まだ生理来ないの」
 ふいに彼女が言った。メリーはまだ生理が来ないらしいぜ、ケン。
「へえ、いつか電話で言ってたね。どれくらい遅れてる?」
 何も知らない振りをして訊ねる。私には守るべき交友関係があるのだ。
「もうかれこれ三週間は遅れてる」
「随分たってるね。なにか心当たりは?」
「沢山あるから困ってる」
 彼女は缶ビールを飲み干し、空き缶を砂に埋めた。
「あのね、ぶっちゃけるけど、わたしもうダメっぽい。エッチばっかりしてる」
「それは別にダメじゃないでしょ」
「そう、彼氏とだけならね」
 死んだ犬のような、いや、ケンが着衣のまま海へ飛び込むのが見えた。波が白い粉を撒き散らして泡立つ。ゲイの彼はそれをみて笑っていた。
 私はそののどやかな光景を見つつ、彼女の言葉にぞっとする。彼女は自分の腹を撫で、淡々とした口調で言った。少なくとも私には、彼女はとても冷静に見えた。
「わたしね、気づいたんだ。セックスするきっかけなんて腐るほどあるって。みんなセックスしたがってるって」
 私は彼女の言わんとしていることを察した。
「……何人としたの?」
「わかんない。酔った勢いでおっさんとしたこともあるし、ライブ観た帰りに適当なイケメンともしたし、バイトの後輩ともした。もし妊娠してても誰の子かなんてわかんないし、もう彼氏にも言えないし、わたし、いったい、」
「ちょっと、ちょっと、待って待って!」
 私は彼女の暴露を制した。
「ちょっとやめてよ。そんなこと私に言わないでよ。私はどこの神父なの? そんな懺悔されても私には許す以外の選択なんてないじゃない」
「うわ、エグイ事いうね」
「だってさ、それって、私があんたの彼氏とセックスしたことをあんたに言うのとは違うじゃない。私がどっかのおっさんとやったことを後悔してても、あんたは許すしかないでしょ?」
 彼女は少し考えて、お説教した後に許すね、と言った。
 私はそれに吐き気を覚えた。だったら許されないほうがマシだ。
「でも、もしあんたが私の彼氏とエッチしても、もうわたしには何も言う権利が無いよ。だからしても良いよ。ただし言わないでね、きっとわたし、嫉妬しちゃう」
 彼女は笑顔でそういった。
 私は、ケンとセックスする場面を想像する。なんだかそれも悪くない気がした。どうせ恋は叶わないし、私の体は誰のものでもないのだから、ケンを借りて穴を埋めるのもまた友情なのかもしれない。
 朝焼けが終わり始めている。
 私はこの浜にいる四人の関係が崩れていく音を聴いてみた。
 それはほぼ無音だ。

 海へ行った翌日、ケンが風邪を引いた。ケンは掠れきった声で「煙草と薬買ってきて」と私に電話してきた。彼女に頼めば良いのだというと、何度電話をしても通じないそうだ。ふと浜辺で聞いた彼女の暴露を想起する。もしかしたら、彼女はどこかで知らない誰かとセックスしている最中なのかもしれない。そう考えるとケンは惨めな立場である。私は面倒だったけれど、シャワーを浴び化粧をしてケンの部屋へ向かうことにした。
 ケンの部屋は私のアパートから歩いて二十分とかからない距離にある。彼の部屋へ向かう道すがらエコーと風邪薬を買った。私は日光から逃げて影を進む。強い日差しを受け路傍のあらゆるものが焼ける路面に濃い影を落としていた。どこかで蝉の声が聞こえた気がした。
 ケンの部屋は鍵が開いていて、冷房のついた室内で彼は布団にくるまっていた。カーテンが閉められていて薄暗く、エコーの匂いが強くこびりついた部屋だ。玄関を入ってすぐのキッチンを抜けてケンの枕元に座る。
「やーいやーい。だっせーの。風邪引いちゃってさ」
「どうとでも言えよ。煙草買ってきてくれただけで天使だぜ」
 私はまず自分の煙草に火をつけ、それからエコーの紙箱を破き短いそれを彼に咥えさせた。
「火くれよ」
 弱弱しく彼は言った。本当に死にそうだ。無精ひげとだるそうな表情があいまって、今のケンはいつもより相当犬っぽい。私は口に挟んだバージニアをケンのエコーにあてた。ケンは少しだけ恥ずかしげに私の火を吸い込んだ。
「おいしい?」
 彼は最高だと笑った。私は灰皿を探し出し、彼の枕元に置く。
「ご飯は食べた?」
「いや、何も食べてない」
「こういう時こそ彼女なのにね」
「愛が無いだろ」
 どうかな。私はキッチンを借りて簡単な雑炊を作った。ケンはそれを心底美味しそうに食べる。私はその姿を、バージニアの煙越しにじっと見つめる。そうしているとケンの顔に浮かんだ脂汗が気になってきた。私は煙草の煙よりゆっくりと立ち上がり、タオルをお湯で濡らし、それをケンに渡す。すると彼は勢い良く顔や首や耳の裏をこすった。彼の顔はみるみる飾り気無い男の肌に戻っていった。
 いいなこういうの。私は彼との距離が存外近いことに驚く。
「すっきりしたでしょ」
「ありがとよ。おまえ、意外と献身的だな」
 そういうケンの声はやはり掠れていて、頬が少しだけ紅潮していた。私はなんだかとてもかわいそうな気持ちになって(犬が病気じゃかわいそうだもの)ケンの頭を撫でてしまう。ケンは目を閉じて、ぐうと鼻を鳴らした。
「犬みたい」
 目を閉じたケンを覗き込む。濃い眉と荒い髭。男の顔だった。
 ケンは不意に目を開ける。そして私たちは見つめあう。刹那的に世界から全ての音が欠落した。ケンが口をあけてピンク色の舌を覗かせると、私の頬を舐めた。
「ちょ、うっわ、なに」
「犬だろ。舐めるもんだよ、犬は」
 私は動揺の割りに少し身を引くことしかできなかった。
「ばっかじゃないの、まじ、ちょっと、やめてよ」
 消え入りそうな声しか出せなかった。ケンは、彼に似つかわしくない真面目くさった顔で言った。
「自分にまるで興味を持っていない人間を好きでいるのは辛くないか?」
「どういう意味さ」
「見ていて痛々しいよ。友達として言わせてくれ」
 ケンが咳き込む。私は泣きそうになる。
「あいつは、残念だけどおまえに興味ない。友人として、当たり障りの無い距離を保っているだけじゃないか」
「やだ、やめてよ。決め付けないで」
「好きになる理由なんて、優しいからとか見た目が良いからとかその程度でいいけどさ。でもあいつの優しさは日差しと同じで、無差別に無条件に注がれるものでしかないじゃないか。それを掴んで自分のものにしようなんて、馬鹿だよ」
 やめてよ。私はそう言ったつもりだ。ケンには聞こえていないのだろう。私にも聞こえなかったもの。
「日光は独占できないのに、そんな馬鹿げたことをずっと続けるつもりか?」
 馬鹿げたこと、と彼は言ったがそれは恐らく恋愛のことだろう。
「適当にセックスだけしてみろよ。時々空っぽな気分になるけど、それって人を好きになって嫌な気分になるより随分マシだぜ」
 そう言うとケンは私の頭を掴み、少し乱暴に手繰り寄せ、それからキスをした。
 私は抵抗する。とても小さく抵抗する。
 ケンのキスはエコーと雑炊の味がした。
「ほら」
 唇を離し、ケンはいつもの口調で言う。
「キス一つじゃ何も変わらないだろ。セックスして変わるような世界なら、お前にはそもそも必要ないんだよ」
 私は顔を伏せて呟く。
「ばかみたい」
 私はケンの胸に顔をうずめた。妙な気分だった。ケンとキスをする。それは彼女への裏切りだ。けれど何故だろう、まるで心苦しくは無い。彼女だって、ケンに黙って色々な人間に抱かれているのだ。その事実は究極の免罪符のような気がした。
 ゲイの彼は私に特別な感情を抱いていない。それくらい、私にだってわかる。
 私たちはもう一度キスをした。今度は唇の端を埋め尽くすキスだった。お互いの歯が触れ合い、時折舌のぬめりが唇にあたり、私は息するタイミングを完全に見失う。どこかで呼吸をしなければ。その焦りと挑戦が、いつも自室で聞いている階下の喘ぎと似ていることに気づく。気色の悪い声だけれど、気持ちが悪いわけではなかった。
 ややもすれば快感だったのかもしれない。
 そしてその快感は鈍感を引き連れてやってきた。
「ねえ、あんた達なにしてんの?」
 その声に私たちは一切の自由を奪われた。
 生理の来ない彼女が、私たちを睨みつけていた。
 彼女は右手にコンビニのビニール袋をぶらさげて、私たちをドブネズミの死骸でも眺めるかのような目つきで見ていた。
「は。なにこれ。気づけよ、ドア開けて入ってきたんだから」
 私は彼女の名を呼んだ。
「なに? 夢中になって気づかなかった?」
 ケンが震える声で何か言った。私は彼女の存在に気づかなかった。夢中だったかどうかは別として。
「サイテー」
 彼女がビニール袋を投げ捨てて、怒りに満ちた足取りで私たちの元へ進む。
「サイテー!」
 それから大きく右手を振りかぶった。私の背後でケンが身構えるのがわかった。私は彼女の平手打ちがケンに炸裂するところを思い描く。理不尽な暴力だ。
 しかし、彼女の平手打ちは私の頬を叩き付けた。破裂する音が煙草の煙で変色した壁に響き渡る。彼女は身を翻し、死ねよ、と喚いてから部屋を後にした。
 置き去りにされた私たちは呆然とする。左の頬が熱を帯びている。今更になってようやく痛みが広がり、私はその痛みのためだけに涙を流した。
「なんで私なの」
 なんで私が殴られなくちゃいけないの!
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫なわけ無いじゃん! 意味わかんない! 言ってることとやってること、ぜんぜん違うじゃん!」
 セックスしてもいいならキスしてもいいのではないのだろうか。それとも、あの言葉はなんとなく出た思い付きだったのだろうか。ではあの懺悔は、あの暴露は、あの発言は、全てろくな意味も持っていなかったということなのだろうか。
 どうしてよ。私は涙を止められない。
 どうして、自分の事を棚に上げて生きていられるのよ。
 そんなやつ、糞じゃないか!
 私はちぐはぐな絵を見たような気になって、それからふと自分こそが世界最大の糞なのだと直感的に理解し、それでもその裏づけなんて考えたくはなくて、涙を流しながらケンの部屋を出た。
 どうして自分の事を棚に上げて生きていられるのだろう、私は。

 嘘つき。あんたこそ好き放題生きてるくせに、どうして私をぶつの。
 そう言おうと携帯電話を耳に当てたが、彼女は応答しなかった。

 私がケンとキスをして変わったことは幾つかあるが、目下問題となっているのはケンの風邪が私にうつった事だ。頭が痛くて体が重い。骨が倦怠に陵辱されていて、なにより煙草が無くなったことは死因になり得る。
 私は応急処置として風邪薬を二錠飲んだ。溶けた錠剤が私を巡り、少しだけ体は軽くなった。しかし、心はまだ重い。身の内を埋め尽くす疲弊がおぼろげに在り続ける。体を騙しているだけなのだ、薬というのは。
 私は携帯電話を操作して、ゲイの彼の番号を手繰り寄せ、逡巡に逡巡を重ね躊躇に躊躇して、それから思い直しケンの声を求めた。私はゲイの彼よりケンに会いたくなった。その理由ならいくらでも並べられる。彼女はあの後何か言ってきたかとか、昨日したキスに理由はあるのかとか、介抱の恩を返せとか、そこら辺は自在だ。
 ケンは明朗な調子で応答した。昨日の掠れた声が微かに尾を引きずってはいたが辛そうではなかった。
 風邪をうつされちゃったから、私に煙草を買ってきて。
 私が言ったのはそれだけだ。ケンは何も文句を言わず、すぐに行くよとだけ答えた。それを聞いた私の心根は途端に熱を持つ。昨日のキスと彼女のビンタを思い出すと、ゲイの彼の事を忘れられた。
 私は軋む体を無理に起こし、熱めのシャワーを浴び、念入りに歯磨きをした。それからわざとらしく髪をぼさぼさのままにし、新しい下着が肌に馴染んでいることを確認し、まるで病人のように布団を被って、そういえば風邪を引いていたんだと笑う。

 その日ケンとしたセックスについて仔細に語るつもりは無い。

 ケンは素裸のまま、生理の来ない彼女とのその後を私に聞かせてくれた。私はぬめりの消えない股を何度も不快に思いながら黙ってそれを聞いた。
 あの後、それはつまり私が彼女に難解な平手打ちを食らった後、ケンは彼女に一切連絡をしなかったという。すると程なくして彼女のほうから電話があり、妊娠していたことを告げられたそうだ。海から帰った後、彼女が市販の妊娠検査薬を使ったところ、疑いようも無く陽性だったのである。彼女はその事実を涙ながらにケンに伝え、愛しているという台詞を撒き散らしつづけ、最後のほうになると諸悪の根源はケンだと主張した。私はここで一度笑った。
 ケンは「ここからが面白い」と続ける。彼は自分に精子が存在しないことを彼女に伝えた。彼女はその意味するところを瞬時に察知することができず、しかし徐々に狼狽の色を見せ始め、震える声で「本当に?」と言った。ケンはダフ・ダブ・メロウで私に語ったことをそのまま彼女に伝えた。
「その腹に居るのは何だ? って聞いたんだ」
 ケンは私の髪の隙間を柔らかく撫でて言った。とてもきもちいい。
 ケンの問いに彼女は答えられず、ただごめんなさいとだけ言って電話を切り上げた。しかしその謝罪は暴露より雄弁で、ケンは彼女が他の男と寝ていたことをその時初めて知った。しかし彼は思いのほか無感動だったらしく、煙草を一本吸ってシャワーを浴びたら、私の事のほうが気になっていたそうだ。私はここでもう一度笑った。
 ケンにとって彼女は煙草とシャワー以下の存在だったのか、もしくは私への架け橋がそのような卑近な価値だったのかは聞かなかった。
「どいつもこいつも、心底くそったれだ」
 私を抱きしめてケンは言った。汗の匂いとセックスの香りが布団からはみ出してきた。
「それは自分も含めて?」
「まさか。彼女の浮気を知った傷心の男が友人の女とするセックスは純粋だから」
「本当に馬鹿なんだね」
「どうして」
 ケンが手のひらで私の乳房を撫でた。
「私、思ったんだけど、セックスしたって何も満たされなくない? ぶっちゃけさ、今あんたとやってお腹に精液ぶっかけられたときは死ぬほど鬱陶しかったよ。私の中からあんたが出て行ったときは凄く寒かったし、お腹を拭くときなんて惨め極まりないし、私としたセックスが純粋ならこんなに哀れな気持ちにはならなかったと思うな」
「それはお前が俺を好きじゃないからだろうね」
「そうだね。でもね、あんたに抱きしめられてる今この瞬間は、ちょっと満たされてる」
 私は素直に言ったつもりだ。しかしケンはそれを嘲笑う。
「錯覚だろうな」
 その後の三日間、私とケンは毎日朝から晩までセックスをした。その間、ケンの携帯電話には何度も生理の来ない(来るはずがない)彼女から着信があったが、ケンはそれを全て無視した。私の携帯電話には誰からも連絡は来なかった。
 発情期の犬よりも腰を振り続けた毎日で私が発見したことは少ない。一つは、ケンに抱きしめられて感じた満たされるという体感は、回を重ねるごとに薄らいでゆく錯覚であったこと。一つは、セックスよりも小顔ローラーでする自慰のほうが快感であること。一つは、ケンも私もお互いを好きではなく、ケンにおいては私の内臓のほうに価値を見出していること。
 私はゲイの彼との話を思い出す。セックスなんて気持ちの悪い事だっていうの? と私は訊いて、彼はそうかもしれないと答えた。今なら彼の言葉を処女の言い訳なんて言えない。

 ケンは私を三日間抱き続け四日目の朝にこっそり部屋から消えた。朝ぼらけの沈滞したベッドから這い出るケンの背中を私は密かに見つめていた。ケンは何も言わず、私を振り向きもせず、エコーと服を掴んでどこかへ行った。私の携帯電話にケンからメールが届き、そこには「しばらく旅に出ます。講義の出席はとっておいて」と書かれていた。くそったれ。
 一人になった部屋を見渡す。ビールの缶と煙草の空き箱が散乱していた。ゴミ箱はカルキ臭いちり紙で溢れかえっていた。ベッドのシーツは染みだらけで、テーブルの上には小顔ローラーが消えて無くなりそうな存在感で置かれていた。
 私は煙草を吸いながら、これでいよいよ処女で売るような事ができなくなったのだと思い知る。
 セックスしてもどこにも行けやしなかったな。
 とても疲れた。

 ケンと寝ていた三日の内に我が家から食料が消えた。ビールもコーヒーも消えた。消えたそれらを取り戻すために私は買い物へ出かける。アパートから出ると日差しが肌を焦がした。街並みの色が陽を浴びて濃い。路面が揺らめき、巷風に混じる湿気が全身を蒸した。不愉快な夏の日だ。蝉がうるさい。吹き出る汗が煩わしい。額にへばり付く髪から垂れる自分の匂いに頭痛がしそうだ。
 歩くのも限界だった。私は駅前のドトールコーヒーに寄る。
 店内の冷房を背中の汗越しに感じ、アイスコーヒーを受け取る。二階に喫煙席があるのでそこで一服しよう。煙草を吸わないと死にそうだ。私はまだ死にたくない。
 階段を上った喫煙席には意外な人影があった。ゲイの彼が往来を見下ろせる窓際の席で煙草を吸っていた。
「異なところで会うね」
 彼は私を瞥見して言った。
「異も何も喫煙席で喫煙者が出会うのは必然的じゃないの」
 私は精一杯平静を装う。彼は私を手招きし横に座らせた。灰皿には四本の吸殻があった。
「ケンとキスしてたって?」
 出し抜けに彼は言った。
「ケンって呼び方浸透したね」
「はぐらかすなよ」
 バージニアに火をつける。私はその冷えた煙を飲む。
「彼女から聞いたの?」
 彼は静かに首肯した。その綺麗な首筋や柔らかそうな唇を見ると、私は急にあらゆる全ての事が益体無く思えた。何をどう繕っても、これを手に入れることはできない。むしろここ数日の私は、友情を筆頭に美しい何かを大量に棄てた気にさえなった。
 疲れていたのだ。だから全てを話した。髪の毛の詰まった排水溝にブラシを突っ込んで掃除するように、嫌悪感とささやかな使命感を持って、洗いざらい何もかも披瀝した。ケンとのセックス。彼女の妊娠。彼女の爛れた性的接触の多発。そして今私が空っぽだということ。
「最低だね」
 彼はマルボロをゆっくりと吸った。彼の感想はその一言で終わった。
「何さ。あんただって、色んな男とやりまくってるんでしょ」
 彼が私を見た。睨みつけるような視線だった。
「人のこと言えないくせに。最低だなんて言わないでよ」
「どこで聞いたか知らないけれど、僕の体は金になるんだ。そして僕は金が無いと生きていけない。母さんは蒸発して父さんはボケた。言ってなかったっけ」
「聞いてない。なにそれ、そういうの、言って欲しいよ」
 彼は嘆息した。そして小声で、自分の目の前で全てが起こるなんて幻想だよと呟く。
「体が売れるから売ってるんだよ。時々空っぽな気分になるけれど、それでも売り物と割り切った部分は売る。そうやって金を貰って、学費を払って、友達と遊んで、恋をする。今僕はすごくプラトニックに恋愛してるよ。少しだけ触れるような、セックスとは程遠い恋愛さ。僕はそれを獲得した。それでもキミは、壊すだけ壊したキミは、僕を最低って呼ぶの?」
 私は「わからない」とだけ答えた。彼は煙を吐いて「わかろうとしてないんじゃないの」と言った。わかろうとはしている。わかろうとは思っている。
 そう思って、何もしていないだけだ。みんなそうでしょ、そうじゃないの? ちくしょう。
「キミはケンと寝て彼女との友情をぶっ壊して、ケンの秘密と彼女の秘密を僕にばらして、それで疲れたって言ってるだけじゃないか。最低だね」
 私はバージニアの煙をわざと眼球に当てた。そうして顔をしかめ、溢れそうな涙を隠す。
「ねえ、一つ聞かせてくれないか」
 彼は席を立ちながら言った。
「女の人はセックスをするとき何を考えているの?」
 私は俯いて答える。紙ナプキンに滲むグラスの水滴しか見ることができない。
「死んだほうがマシだって、私はそう思った」
 彼は何も言わずに去った。
 私は窓越しに、店を後にする彼の頭を見下ろした。ドトールコーヒーの前で、彼は一人の男と一緒になった。いつか深夜のコンビニ前で私に火をくれた男が現れ、彼の頭を優しく撫でた。彼は男と並び、満面の笑顔で街へ消える。私はそれをガラス越しに見送って、バージニアを一本灰にし、それからこっそり泣いた。

 どいつもこいつも、心底くそったれだ。
 買い物を終え部屋に戻った私は冷房をつけてからシャワーを浴びた。墜落していく水滴を俯いて見つめる。誰彼かまわずセックスをする彼女も、私を抱くだけ抱いてどこかへ行ったケンも、優しいくせに優しくしてくれない彼も、そんな彼らを嫌いになり始めている自分も、どいつもこいつも、心底くそったれだ。
 あっけなく私たちの関係は崩れた。悲しいが、それ以上は特に何も思わないし、きっとそれで困ることも無いだろう。
 あるいはこれで万事に結論が出たのかもしれない。ゲイの彼には最低と蔑まれ、彼女には死ねと罵られ、ケンには好きでもないのに抱かれた。停滞していた片想いは、ガラス越しに見る演劇のように、明瞭かつ不可侵な所で腐敗を始めた。ゲイの彼をどうでもよく思うまできっとそう時間はかからない。
 私が恋の始めに踏み越えた曖昧な境界線は、今振り返っても模糊としたままだった。私は誰にも好きといっていないし、誰からも好きと言われていない。沢山の事が悪化したけれど、私たちはこの先も勝手に生きていくのだろう。
 明日は明日の風が吹くのなら、私は帆を張らないまま煙のように散っていたい。どこかで吹いた風など私はいらない。なにもしたくない。
 テーブルの上の小顔ローラーを掴み立ち上がる。
 私はキッチンのグリルに小顔ローラーを入れて焼いた。樹脂が爛れ金属部が赤く光る。キッチンを悪臭が支配した。換気扇を回す気にはなれない。この匂いを吸わなければならないと、そう感じたのだ。
 しばらくして小顔ローラーは金属部だけを残して燃え尽きた。一度火葬された私の恋は、今度は地獄の火炎に包まれて弔われる。もうあんな惨めな墓に参ることなどしたくない。
 階下の住人は今日もろくでもないセックスに励んでいる。それを耳にし、私は爽やかな心持ちでメンソールの毒を吸う。
 小顔ローラーはグリルの中で、きっとまだ熱を持ったままだろう。
 後は冷えて固まる一方だ。
 ざまあみろ。
 ざまあみやがれ。

(了)
sage