20


 舞子は僕の元を離れてキッチンへ向かった。包丁を取り出し、切っ先を指でなぞり、少しだけ血を出した。それから舞子は大笑いして、それはどこか無理矢理な咆哮で、わざとらしく包丁を振り回して僕の前を通り過ぎる。脳が描かれたカーテンの前で、舞子は一呼吸して、それから一度に裂いた。裂いて裂いた。何度も裂いた。脳がバラバラに割れていく。僕はそれをじっと見つめる。舞子はまだ裂く。脳を壊す。腕を振り上げて、脳を裂く。鬼太郎のようなキャラクターも真っ二つになった。ラスボスと書かれた視床下部も壊れた。
 短冊めいた脳のスライスを一絡げにし、舞子が思い切り引きちぎった。カーテンレールが破砕し、包丁は滑り落ちてベッドに刺さり、舞子は振り向いて僕を見た。
「これがオフだよ?」
 もっと見せてあげる、と言うと舞子は部屋を荒らした。テーブルがひっくり返され、灰皿が投げ飛ばされ、酒瓶が床に叩きつけられ、アルコールの臭気が立ち込めた。舞子はキャメルを一本吸って、泣き出しそうな僕を見て笑って、それから煙草を床に広がるアルコールに投げ入れた。火の手があがる。僕は一歩引く。白檀のお香が火炎に投げ込まれて良い香りがささやかに滲む。
 ああ、どうかしている。
「私をオフのまま幸せにできるの?」
 舞子がベッドから包丁を抜き、炎で炙った。火の勢いはもう弱り始めている。延焼の心配はないだろう。床は黒焦げになるけれど、僕も舞子も、そんなことはどうでも良くなっている。
 舞子は全身を震わせて、脂汗で顔を光らせて、熱せられた包丁を己の手首に宛てがった。
「ほ、ほら、ほら、私、オフだと、こういうことするんだよ。おかしいでしょ、どうかしてるでしょ、死んじゃうよ、死んじゃうかもよ本当に、ね、見てないでよ、オフの私じゃ、やっぱり色々無理でしょ、ね、浩平さん、お願い」
 舞子は手首に包丁を滑らせる。うっすらと血が滲んだ。
「オンにしてよ、今私ってオフなんでしょ、だったら、普通の私に戻してよ」
「いやだ、いやだ、オフのままでもいいじゃないか」
「どうして?」
 舞子は包丁を握り直す。それはもう手首から浮いていた。どうせ、死ぬ気なんて無いのだ。生きている理由が死んでいないからだなんて言う奴に、死ぬために何かできるはずがない。死ぬために生きてきた人間こそが、自らを殺せるのだから。
 今や舞子は僕を見つけた。もう、彼女が死ぬ理由なんて無い。
 しかし、舞子は言うのだ。
「どうして私が変わろうとするのを嫌がるの? まともになろうとするのを怖がるの?」
 僕より強くならないでほしい。僕より逞しくならないでほしい。
 しかしそれは言わない。ここまで来ても、僕は恋人に隠し事をすることにした。
「舞子、次オンにしたらオフの舞子が死んじゃうんだ」
「え?」
「石地さんも言ってる。次オンにしたら、オフの舞子も消えて、オンの舞子もゆっくりと消えて、どちらでもない舞子になる」
 床に広がる火は消えた。酸素の薄まった部屋で、僕と舞子はふらつきながら、ぶれながら、それでも我意にすがる。
「オンでもオフでも無い舞子になっちゃうんだよ」
 舞子は呆然と僕を見た。
「舞子が二人も死んじゃうんだ」
 僕は泣いていた。舞子が怖くて、泣いているのだ。
「違うじゃん浩平さん」
 それでも舞子は笑って言った。
「それって、普通の私が生まれるってことでしょ?」
「違うよ、違うよ舞子。今までの舞子が死ぬんだ」
「怖いの? 私が生まれ変わるのが」
 僕はひっそりと頷く。舞子は笑って、包丁を放り投げて、僕を抱きしめた。
「なんだ、大丈夫よ。私、消えるわけじゃないんでしょ?」
「そうかもしれないけれど、オンもオフも消えちゃったら、僕は」

 僕は舞子に優しくできないかもなぁ。
 と言うと、舞子はそれでも良いと答えた。

「私がまともになれたら、浩平さんが狂っていても大丈夫」
「うん、そうだね」
「私ってまともになれる?」
「うん、舞子はまともになれるよ」
「けれど、それが嫌?」
「うん、それが少しだけ嫌だ」
「少しだけ?」
「うん、少しだけ」
「ものすごく?」
「うん、うん、とても嫌だ」
「私がおかしいほうが、浩平さんは幸せ?」
「うん、そうかもしれない」
「おかしい私とまともな私のどちらが好き?」
「どちらも好きなんだ」
「まともな私が生まれると、おかしい私は死ぬ?」
「うん、舞子が死んじゃう」
「死ぬの?」
「うん、死ぬ」
「生まれ変わるんじゃなくて?」
「そうかもしれないけど、死ぬことにかわりない」
「浩平さんは私を殺してくれる?」
「僕に舞子は殺せない」
 生かせるかどうかも怪しい。
「じゃ、私、自殺するね」
 
 気づくと舞子は僕のポケットからスイッチを奪っていた。
 もう彼女は心に決めている。いや、最初からそれを望んでいた。
 普通になることを望んでいた。異常を望んでいた僕は、異常を選んでいた僕は、だからそれが嫌なのだろう。
「私が普通になったら、恋愛がごっこじゃなくなるね」
 うん、そうだね。
「私が普通になったら、弱っちい浩平さんを守ってあげるね」
 うん、ありがとう。
「だから、無理しなくていいよ。浩平さんはそのまま、おかしい人のままでいいよ」
 うん、僕のほうがおかしかったんだね。
「結婚してくれる?」
 うん、結婚してあげる。
「そしたら、私が黒いパジャマを着る理由のわかる旦那さんになってね」
 うん、よく気づく恋人になるよ。
「本当に 好き?」
 (無言)
「私は大好き」
 と言って、舞子は自分を一人、殺した。

 夜、焦げ臭い部屋の中で、僕と舞子は初めて最後までセックスをした。僕たちは血みどろになった。とてもとてもとても臭かった。
 僕はがむしゃらに舞子を抱いて、舞子も止めどなく悦んだ。僕は舞子で、綾乃と同じように射精できた。感慨も喜びも安心も充実も、何一つそこには無かった。
 事の後に僕たちは泣いた。舞子は嬉しくて泣いていたし、僕は死にたくて殺したくて泣いていた。

 僕は、普通じゃなくて幸せでもない所に帰ってきたのだ。地獄を作る粒子として。

 舞子がよしよしと頭を撫でてくれるから、殺意だけが残ったけれど、舞子は二度も死ななかった。

 翌朝になって舞子の部屋を出ると、石地老人がドアの前に立っていた。
「昨夜は盛大にやったようだね、少年」
「老醜って言葉知ってますか」
「餓鬼という言葉を引き立たせるね、それは」
「舞子、オンになりましたよ」
「そりゃ良い」
 石地老人がパーラメントに火を点ける。僕もそれをもらって、今度は全てを吸い尽くした。
「ところで少年、ここの大家の奥さんが亡くなったようだ。君が出てくるのを待つ間、ご主人と話をしたが、あれは立派な男だね」
 廊下を掃く片割れが死んだ所で、僕はもう何も感じない。だから、そうですか、とだけ答えた。
「君に聞かせてやりたい事を言ってたよ」
「別に聞きたくないですけど」
「愛する人間が死んだあと、どうするかについての言葉でも?」
「別に、聞きたくなんてないです」
 石地老人は吸い殻を踏みつぶして笑った。
「腑抜けるな少年。彼はこう言った。死んだあとも好きなものは好きなのだから、愛していく以外に道はないと」
「地獄ですねそれ」
 石地老人は笑う。
「彼は今後も廊下を掃除し続けるそうだが、君は何を続けるつもりかね」
「簡単ですよ。僕は僕を殺し続ければいいんでしょ」
 石地老人の脇を抜けて、アパートを出ようとする。
「なぁ浩平君!」
 僕は振り向かない。
「舞子は新しく生まれたんだ。もう普通の女の子だから、大事にしてやってくれ。スイッチは頃合いを見て切ってくれたら良い。切らなくても、そのうちバッテリーが上がるけれどね」
 僕は振り向かない。

 夏がうるさい。
 日差しが肌の産毛すら焼きつくす。
 蝉はまだ生きているのか。早く全滅すれば良いのに。
 むき出しのうなじが焦げてゆく。
 髪の隙間から汗が滴り落ちる。
 粘性の汗が瞳に滲んで痛い。
 背後のタクシーが熱せられていくのがわかる。
 駆動音が喧しい。
 運転手はきっと、面倒くさそうに僕を眺めているのだろう。
 アスファルトから熱が遡上する。
 道路を剥がしても地獄は無いが、しかし溶岩くらいは流れているのかもしれない。
 照り返す夏の日差しや、淀む熱や、背を溢れる大粒の汗や、死にぞこないの蝉たちの声や、妙に白い雲の色が、すごく嫌だ。
 蒸す世界に溺れて死にそうなんだよ、保則。

 僕は目の前の金網を掴んだ。皮を溶かし肉を焼くほどに季節を蓄えたそれの向こうに、若い女の子が居た。彼女は口を開いて僕を見つめている。
「こんにちは」
 僕が言うと、彼女は笑った。
 金網に額をくっつけた彼女は、何か僕にはわからない言葉を繰り返している。
 そのままで良いのだと許された世界は眼前で陽炎に揺れた。
 そして僕は此方にいる。
 僕は金網に腕を押しこみ、彼女の首を絞めようとしたけれど、僕の両手があちらへ行く事は無かった。
「そっちに行きたいな」
 僕だけでもね。
 彼女も僕も笑った。

 焦げ臭い部屋に戻ると、舞子は裸にシーツを纏い、恥ずかしそうに言う。
「おかえり。お部屋また掃除しなきゃね」
 僕は首肯して、それから舞子に気付かれないように、スイッチをゴミ箱へ捨てる。
「ねえ浩平さん、今日はなにしようか」
「うん、そうだなあ」
 ハッピーエンドの小説でも書こうか、と言うと舞子は
「とびきり幸せにしてね」
 と、欠伸をした。
「ところで舞子、オフの舞子が死んだ今は、普通になりたいと思う? それとも前言ったように普通を消し去りたいと思う?」
「どうかしら。生まれたばかりだから、私にはまだわからないよ」
 空調を強めて、僕たちは夏を追い出した。
 切り裂かれ床に落ちたた脳や、砕け散った酒瓶や、炭化したフローリングや、血みどろのベッドや、壁に空いた穴が、舞子を祝福しているように思えた。痛みに溢れた舞子の人生がやっと終わったのだ。
「そうだ、乾杯しない?」
 舞子が出し抜けに言った。
「乾杯?」
「うん、実はね、ラフロイグだけ割らなかったの」
 恥ずかしげもなく笑う舞子が、ラフロイグの深緑の瓶を取り出し、生き残ったグラスに注いだ。ストレートの温くなったウィスキーが、床に二つ並べられる。
 僕たちはお互いに嘘つきなのだ。
「何に乾杯するんだい」と僕。
「私の誕生日に」と舞子。
 僕たちはグラスを合わせる。
 電極女の絶え間ない放電は、僕の見えない所で弱まり止まるだろう。
 僕は舞子を愛していかなければならない。
 僕の好きな人は死んだけれど、まだ舞子は生きているのだから。
「お誕生日おめでとう、舞子」
「ありがとう、これからも仲良くしてね」
「もちろんさ」
 命日に乾杯。

 了

sage