19


 アパートへ戻ると、駐車場に見慣れない車が何台か停まっていた。アパートの隣にある浅見邸の玄関は開け放されていて、どこか騒がしい様子だった。もしや、浅見夫人に何かあったのだろうか。浅見夫人の余命が幾ばくも無いと知らされてから、もう一週間は経っている。そろそろなのかもしれない。

 アパートの廊下を歩き舞子の部屋の前に来ると、ドアから堆朱が消えていた。ドアには両面テープを剥がした跡が残っていた。
 呼び鈴を鳴らすと寝間着姿の舞子が現れた。新しい寝間着だろうか、薄い青のシャツに黒いジャージを履いていた。
「おかえり浩平さん」
 舞子は僕を招き入れるとよく冷えた麦茶を一杯よこした。
「ねえ舞子、玄関の堆朱取ったの?」
「うん」と、舞子はどこか静かな様子で頷く。
「どうして?」
「えっと、なんか変じゃん。玄関にあんなの貼っとくのって」
 そう言って、舞子は黙った。どこか様子がおかしかった。オンの静謐とは違った、憂鬱な沈滞を身に纏っている。話しを続けるのは躊躇われたが、しかし、確認しておきたいことを聞くことにした。
「あの堆朱って、なんで貼ってたんだっけ?」
「え?」と、舞子はため息混じりに言った。僕はその嘆息にささやかな苛つきを嗅いだ。
「えっとね、夏を閉めだしたかったの。雪椿が描いてあるでしょ? なんか名前が涼しそうな花だなって、そんな感じで貼っただけ」
 実に面倒くさそうな口ぶりだ。僕は心当たりが無く、身のふりを考えてしまう。
「舞子、どうかした?」
 舞子は僕を見て、泣きそうな顔で首を振った。
「別になんでもない」
「いや、でもなんか辛そうだよ」
「いいから」
 舞子は「ごめんなさい」と謝ってから立ち上がり「ご飯作っておいたから食べて」と素麺をテーブルに並べた。薬味にネギやキュウリがあり、小皿にわさびが盛られていた。僕は不審に思いながらもそれらを食べる。沈黙の食卓だった。舞子はもう食事を済ませているらしく、煙草を吸って俯いていた。
「えっと、舞子」
 僕は耐え切れなくなり、粗雑に話題を作った。
「パジャマ変えたんだね。かわいいよ」
 舞子は苦笑した。
「うん、変えなきゃだったから」

 舞子はその日ずっと苛立っていた。僕との会話も少なく、トイレへ行ってはため息をつき、コーヒーを淹れては乱暴に飲み干した。その間、僕はずっとパソコンに向かって小説を書く振りをしていた。何か言ったら辛辣な応対をとられそうだ。
 夕刻になり、腹が減ったので何か作ろうかと聞くと、舞子は何も食べたくないと答えた。そしてベッドに潜り込み、布団を被って沈黙した。
「舞子……大丈夫?」
「うん。ごめんね」
 くぐもった声が布団の中から聞こえる。
「その、僕なにかしたかな?」
「ううん、何もしてないよ」
 本当に大丈夫だから、と舞子は繰り返す。舞子がどういった状態なのかわからなくなる。スイッチを切ってから八日経ったのだから、そろそろオフへ戻るのだろうか。しかし、昨日までは少しもその様子は無かった。僕が出かけて帰ってきたらこの調子なのだ。
「もしかして、僕が朝出かけたことが嫌だった?」
「ううん。それは全然気にならないよ」
「じゃあ、どうして?」
「……別に言わなくても良いことだから」
 なんだそれは。それでは僕は何もしようが無い。判然としない態度に次第に辟易した。突拍子もなく訳の解らない事を言うのが女なのだろうか。まさか。
「そっか。なんか調子悪いみたいだし、今日は部屋へ戻るよ」
 舞子は何も言わなかった。鼻をすする音だけが二度聞こえた。
「それじゃ、何かあったら呼んで」
 僕が部屋を出るまで、舞子は何も言わなかった。

 深夜、僕が眠っていると何事か唸り声のような物が聞こえてきた。茫洋とする聴覚に低い音が引っかかる。
 小さい声だ。
 小さい声で誰かが呻いている。
 体を起こし、暗闇に沈む部屋で音を探ると、それは壁に空いた穴から聞こえてくるようだった。となれば、それは舞子である。舞子が深夜に呻いている。やはり、なにかあったのだ。
 舞子にとっての何かというのは、恐らくオフへの移行だろう。
 僕には、それしか思いつかなかった。
 僕はスイッチを持ち、次オンにしたらオフの舞子が死ぬのだと思いつつ、舞子の部屋へ入った。幸い鍵は開いていた。やはり、舞子はオフへ戻ったのだ!

 舞子の部屋は白檀の香りが薄くあった。明かりは無く、虫の声が闇にかそけく滲み、舞子は蹲っていた。夜具に収まることもせず、床の上で背を丸め、僕の方を一瞥したように思えた。
 照明を点けると額に脂汗を滲ませた舞子が居た。
「舞子、どうした?」
 僕の問になかなか返答は無かった。側に寄り舞子の背を撫でると、彼女は蹲ったまま泣いた。
「ごめんなさい、大丈夫」
「いや大丈夫には見えないよ」
「大丈夫だから、ごめんね」
 先ほどと変わらぬ問答だ。はっきりとした理由が解らないまま、目の前で誰かが泣いているのは怖い。僕はこのような時、己に非があるのではと疑う。自分のせいで他人が傷ついていれば、とてもわかりやすいのだ。自分が悪いという状況は、とても受け止め易いのだ。全てを自分のせいにしてしまえば、何事もすぐに終わらせることができる。
 このような状況で、僕は安堵していた。舞子が弱っているのが嬉しかった。理由は解らないが、舞子さえ弱っていれば、舞子さえ僕より弱ければ、僕は優しくなれるのだから。
 舞子が僕より弱ければ!
 舞子が僕より弱ければ!
 僕が舞子よりも強いのだから!
 ああ、僕は今はっきりとわかった。僕が選んだ幸せは、対等なんかとは程遠い明確な強弱の世界なのだ。その世界に強者として君臨し、地獄の苦しみを舞子に任せて遠くから優しさを注ぎ込む役を担う。僕の身に降りかかる火の粉は、舞子が全身を燃やしているからこそなのだ。舞子は苦しみに焼け爛れる。その残虐な熱を、温く感じる距離まで下がって浴びれば、ほら気持ち良いのは当たり前だろ。まるで焚き火にあたるように、苦しむ舞子で僕は暖を取っている。
 気持ち良いな、他人に優しくするのは。
「わかる、わかるよ舞子」
 強者としての自覚を得た僕が、弱い舞子を救うのだ。

 舞子は蹲り額に汗を浮かべたまま僕を見上げた。
「舞子、わかるよ、段々と落ち着かなくなってきたんだね。それは恐らく、電極による統御から解放されて随分時間が経ったからなんだ。
 舞子は気づいていないようだけれど、実はスイッチはずっと以前からオフになっている。舞子は電極の力を借りなくても普通の生活が出来るようになっているんだよわかるかなここまでは伝わっているかな」
 舞子は静かに、どういうこと? と訊いた。
「うん、細かいところは省くけれど、頭痛の酷い日があったろう? 僕はあの頭痛の原因がスイッチをオンにし続けたことによる弊害と睨んだ。だからスイッチを切り、舞子を『本来の舞子』に戻したんだ。舞子にとっては、オフが自然の姿なんだよ。生まれてからずっと、オフの舞子で生きてきて、それを無理やりオンの状態にしていたのだから体に負担がかかっていたんだね」
 ある程度の嘘を交えたほうが良いこともあるだろう。だから僕は、舞子に全てを語ることはしなかった。
 舞子は虚ろに僕を見ている。僕は構わず続ける。
「難しい話だけれど、オンとオフを繰り返していくと、オンでもなくオフでもない舞子が生まれるんだ。その舞子は電極が無くても『普通に』生活できる舞子で、電極の治療の目的は、その『普通の』舞子を『作る』ことにあった」
 舞子は虚ろに僕を見ている。僕は構わず、ささやかな不穏を感じつつ、続ける。
「でも『普通の』舞子が『完成』したらオンの舞子もオフの舞子も消えてしまう」
 舞子がじわりと立ち上がった。唇を歪ませて悲痛な面持ちの舞子は、脂汗で顔面が光っていた。それでも僕は続ける。舞子に、弱っていても僕が強くいてあげると伝えたいがために。
「ね、舞子聞いておくれ。僕は思うんだよ、オフの舞子もオンの舞子も大好きなんだ。だからもう無理に自分を作ることなんてない。絶え間なく放電する必要もない。さっきも言ったけれど、今度オンにしたらオフの舞子は死ぬんだ。舞子は、新しく作られなくたって良いんだ!」
 それでは僕は何故、電極のスイッチを持ってきたのだろう。は、は、愚かだ。
「ありのままの舞子でいよう。無理やり『普通』になる必要なんてないのだから。僕がいるから、舞子がまともじゃなくたって、僕がついているから」

 だから弱っていてくれ。
 だから弱っていてくれよ。

 舞子は俯いて僕の胸元へ手を伸ばした。弱々しくシャツの襟を掴まれる。舞子は小さく震えていた。僕はその手を取り、努めて優しい声音で言った。
「だから、今落ち着かないのとか、大丈夫なんだよ。僕がいるから、舞子は大丈夫なんだよ。オフのままでも幸せになれるんだよ」
 舞子は、僕の胸元で泣いた。
 ああ、恋人が弱っている。そして僕は彼女に比べて強い。
 これで良い。もうこれで良い。ずっとオフでいいじゃないか。難しいことは抜きだ。何が生物の成し得ない観測だ。何が死の体験だ。そんなものは二の次だ。僕の好きな人が僕の好きな人のまま居ることが、幸せじゃないか。
「それって誰の幸せなの」
 と、舞子は言った。
「どうしてそんなに酷いこと言うの」
 

 何か一つだけでも良いから、己の中に揺るがない哲学みたいなものは無いかなと、場違いなことを考えている間ずっと、舞子は僕に向かって語りかけていた。
「普通にならなくて良いなんて言わないで」
 そう、なにか一つだけでも良いから、僕が見つけた真実はないだろうか。
「ずっとずっと苦しくて、人と違うのが苦しくて、まともじゃないのが切なくて、どうかしてるのが怖くて、不便で、ままならなくて、悔しくて、嫌で……」
 自己の死の観測により生物は生物の範疇を超えること。それは最近になって思い至った歴史の浅い思想だから、寄す処には成り得ない。
「せめてちょっとでも普通にできることがあったらなって、他の子と同じ所があったらなって、どうして自分は何一つまともにできないのかなって、思ってたんだよ私は」
 人の死の後に死んだ当人を美化するな、なんてものは好みの問題であって、そんな思考が僕を助けてくれるはずが無い。
「何度も何度も、もういいや死んじゃえって思ってきてさ、それでも何故だか死んでいなくてさ、死ぬことにさえ集中できなくてさ、死んでないから生きているような、命を散らかすように漫然と持て余してさ」
 弱っている人間になら優しくなれる。確かにこれは真実だ。
 でも、こうやって、舞子が少しでも強そうになると、僕はすぐに萎縮してしまう。
 もっと、もっと強い真実を探さなければ、何故だろう、僕はダメになりそうな気がする。
「まともじゃない事がどれだけ苦しいかわからないの? 普通じゃないことがどれだけ生きづらいかわからないの? 自分が何なのか解らなくて、普通になる方法が判らなくて、死にたいほど辛いのに死ねないまま、私の人生まだかなり残ってるんでしょ? そんなの、嫌に決まってるじゃん」
 そんなの地獄じゃないか、と舞子が言って、僕はそこに真実を見つけた。
 そういえばこの世界は地獄だった。幼い頃から気づいていた事ではないか。
「幸せになれるとか、なんなの。私がオフのままでいいとか、なにそれ。その幸せって私の幸せじゃないんでしょ? ねぇ、浩平さんが言った幸せってさ」
 
 やめてよ舞子。僕より強くならないでくれよ。

「浩平さんが幸せなだけじゃないの?」

 私の幸せを踏みつぶして、その上にあなたの幸せを作ろうとしてるのね。と、彼女は言った。


sage