18


 石地老人は僕をアパートの前まで送り、去り際に「舞子をよろしくな、未来の家族よ」と言った。運転手がそれを聞いて微かに笑った。僕は返事をせずに車を離れた。

 アパートの駐車場に浅見氏が佇んでいた。腰を曲げ、首を上げて空を眺めている。夏の日差しに晒されているのに、浅見氏はどこか寒そうだった。その傍らに浅見夫人の姿は無い。
「おや、高田さん」
 浅見氏が、会釈をして通りすぎようとした僕を呼び止めた。
「こんにちは。今日も随分と暑いですね」
「ああ、そうだねえ、空があんまり青いもんだから、暑さなんて忘れてしまったよ」
 僕は浅見氏の隣で空を見上げた。群青に浮かぶ雲は綿毛だった。
「ハルがなぁ」と妻の名を呼び、浅見氏はか細く続けた。「もうダメらしい。もうすぐ死んじまうらしい」
 僕は「え、」と情けない声を出し黙った。
「お医者様に運ばれてから、ちっとも目を覚まさねえんだ。心臓もだんだんゆっくりになってくんだ。お医者様も手の施しようがねえっておっしゃってる」
「そうですか……」僕はこのような時使うべき言葉を知らない。
「歳ぃ取ると、自分が死んじまうことなんて何も怖くなくなるんだよ。でもよう、ハルが死んじまうのは嫌だなあ。あれはおいらの女だから、おいらの恋人だから、いやぁ、おいらのカノジョだからよ。だから嫌なんだろうなぁ」
 僕も、ハルさんのことは好きです。そう言うと、浅見氏は哄笑した。
「そりゃおめえさん、あれはいい女だからな! きっと死んじまっても綺麗さ」
 浅見氏は微笑混じりの嘆息をし、己の影を見下ろして続ける。
「おいらもいっぱい葬式に出てきたよ。最初にやったのは親父の葬式だった」
 乾いた咳を一つして、少しだけ話を聞いてくれと浅見氏は言った。僕は小さく頷いた。
「おいらの親父は酒乱でね。酒ぇ呑んでは母ちゃんぶん殴るような屑だった。おいらには妹がいて、親父が暴れるとなんにもできねえから、泣きながら風呂へ隠れたんだ。自分の部屋なんて無え時代よ、家族が壊れたら逃げ場が無え時代よ。風呂場がこじんまりして落ち着いたんだな。
 おいら親父が大嫌いだった。けどよ、死んじまってお化粧されて仏様の前で寝てるの見たらよ、ああ親父が死んじまったって泣けてくるのよ。不思議だねえ、生きてた頃の嫌な思い出なんてちゃらさ。そしたら今度は楽しかった思い出だけ生き生きしてきやがる。あんな親父でも遊んでくれたし、なんだかんだで子どもの事を好きだったからね。
 親父が死んで、もう嫌な思いをすることも無くなったけど、その分楽しい未来ってのも消えちまった。人はその楽しかったはずの未来……つまり今かね……それが欲しくなっちまう。もうどうにもならねえんだけどなあ。
 ハルがよう、死んじまったらもう、あいつと掃除もできやしねえ。それはやっぱり寂しいわな」
 僕は保則の葬式を思い出した。死んだ保則と、その死を勇気とか未来とか好きな言葉で装飾する連中。死んだ奴のことを、後から良い奴だったとする連中。
「寂しいですか?」
「そりゃ寂しいさ。高田さん、もし恋人がいらしたとして彼女が死んだら寂しいだろう?」
 寂しいですね、と答えた。
「だったら、今のうちに沢山楽しいことをしなさい」
「そうすれば、死んだ後に思い出に浸ることもない?」
 浅見氏は目を丸くして僕を見た。それから、心底愉快そうに笑った。
「いやあ、死んだ後どうするかってのは、おいら一つだけ答えを持ってるんだ。だからそんなに思い出に浸ることもないだろうな」 
 それから浅見氏はひとしきり笑い「うん、妙な話しをしてすまんかった」と僕を見送った。僕はまた頭を下げて、お大事にとかなんとか言いたかったが、もう死に掴まれた人間へ何を言っても無駄な気がして、結局何も言わなかった。僕はまだ、子どもなのだ。

 舞子は部屋でテーブルに向かっていた。ガラス板の上にノートとコーヒーが置いてあり、僕が戻っても走り寄るようなことはせず、嬉しそうに「おかえりなさい」と笑う。
 汗ばんだ背に部屋の冷気が心地よかった。舞子は「コーヒー淹れようか?」とキッチンへ向かい、僕はその様子を後ろから眺める。つい先日、まともに湯さえ沸かせなかった舞子はもう居ない。滞り無く動作が進む。そういえば散らかりきっていたキッチンも随分と整頓が進んでいる。適度な雑然は生活感となりキッチンを賑やかにしていた。
「石地さんとどんなお話ししてきたの?」
「ああ、そうだな」
 僕は本当のことを言わない。
「娘はやらん! とか、幸せにできるのかね! とかそういった話だよ」
「うわ、なにそれ。石地さんいよいよおじさんだ」
 舞子はおかしそうに笑った。君が間もなく死ぬ話だよ、なんて教える必要はないのだ。
「舞子、気分はどう?」
「んー? 別になんともないけど、どうして?」
 舞子の頭痛が消えたのは、やはりスイッチをオフにしたからだろうか。舞子がそれに気づいていないのは何故だろうか。疑問が一粒ずつ湧くが、コーヒーの香りは、僕の思考を次第に散開させていった。
「いや、ほら、頭痛酷かったから、もう大丈夫なのかなって」
「うん、それはもう本当に大丈夫だよ。すっかり治って拍子抜けしてるくらいだもの」
 マグカップに黒い湯が満たされた。コーヒーは一見して毒だ。けれど飲めば旨い。体験してみなければ解らないことがあるのだ。舞子がオフの自分の死を体験した後、一体何を思うのだろうか。僕からすればそれは生物の理を超えるある種の反逆だが、この毒めいた色合いの旨い飲み物のように、実際舞子が感じるものは「悪くない」のかもしれない。
 はいどうぞ、と熱いコーヒーを渡されて、僕たちは隣り合って座る。
「お話を作っていたの」
 と舞子は手元のノートを僕に見せた。そこには丸い字で短い文章がたくさん書いてあった。
「読んでいい?」
「読んでほしい」


 夏を売る女の子はふつうを消したかったのです。だって毎日暑いのはいやだから。蝉も毎日うるさくていやだから。じっとしてると汗が出て、女の子はそれが少しこわかったのです。だから売ってしまおうと思いました。
 ある日、かっこいい男の人が夏を売るお店に来ました。女の子はひとめぼれしました。男の人は「この店にある夏をぜんぶください」と言いました。女の子はびっくりして、でもうれしくて、お店にある夏を全部売りました。男の人はまんぞくそうに帰っていきました。
 女の子は夜になってお店をしめる時に思いました。もう売る夏がないから、もうあの男の人がお店に来ることはない。もう会えない。女の子はかなしくなりました。
 次の日、女の子はお店をあけました。けれど、もう売れる夏はのこっていませんでした。お店はとてもしずかで、女の子は夏が消えてほっとしました。けれど、すぐさみしくなりました。だってもうあの男の人に会えないもの。
 女の子はがまんできなくなりました。お店をとび出して男の人をさがしました。まちを走ると、まちはすっかり夏になっていました。きっとあの男の人が買った夏だわ。自分だけじゃ多すぎるから、みんなにもわけてあげたんだわ。女の子は、汗をたくさんかきながらまち中を走りました。
 男の人は見つかりませんでした。夜になって、すずしくなって、とぼとぼお店へ帰りました。女の子は夏の夜はそんなにきらいじゃないので、ちょっとおさんぽすることにしました。
 遠くで花火があがったのが見えました。女の子は、なんだかその花火にさわりたくなって、遠くの空をめざして歩きました。ずっとずっと歩いているうちに、花火は終わりました。急にひとりぼっちになった気がしました。女の子はさみしくて泣きました。
 すると、男の人があらわれました。お店の夏をすべて買った男の人でした。「やあ、こんなところで、どうして泣いているの?」女の子は答えました。「だってひとりぼっちになっちゃったもの。あなたもいないもの」男の人は言いました。「


 ここで文章は止まっていた。
「男の人はなんて言ったの?」と僕。
「まだ考えてないの。でも、この男の人って浩平さんだよ。女の子は私なの」
「かっこいい男の人が僕か」
「うん。それでね、この人は浩平さんだからね、この後もきっと素敵なこと言ってくれると思うな」
 僕は照れたふりをして男の台詞を考える。素敵な言葉というものを考える。けれどそれは思いつかなかった。僕ならここで、女の子を置き去りにする話を作ってしまうなと、そんな事を予感した。
「このお話、浩平さんがちゃんと小説にしてほしい」
「それは別に構わないけれど、舞子が書いたものでも十分小説と言えるよ」
 舞子は顔を赤らめ大げさに首を振った。
「まさか! 私のなんてすごく下手くそだもん。それに私ね、浩平さんの小説ちゃんと読んでみたい」
 舞子の瞳が僕を射抜く。純粋な、裏表のない、淀みなき好奇心。信頼と期待が僕の姿を捉えている。僕は今まで、他人にこのような目で見られたことはない。なんと幸福な双眸だろう。僕は何度も頷いて、何故か舞子の手を握って言った。
「うん、作るよ。舞子のために物語を作るよ」
 舞子は笑った。それから、一緒に作らせて、と言ってきたのだ。
 創作なんて趣味なのだから、手を抜こうが粗雑に作ろうが構わないと思っていた。けれど、今回は違うのだ。舞子に捧げる物語なのだ。手を抜くものか、甘んじるものか、投げ出すものか。
 夏を受け流そうと決めていた僕は、夏を売る女の子と向かい合うことにした。それはどこか清々しい破綻でさえあった。
 そう、僕は小説を作る!

 創作の日々は愛と怠惰の狭間にあった。
 僕と舞子は毎日少しずつ物語を紡いだ。舞子の持つイメージを聞き出し、それを僕が文章として構築する。最初模糊としていた印象も、日を重ねる毎に明瞭さを増し、舞子はそれを少しずつ僕に渡した。夏を売る店がどのような内装かとか、女の子が住む街はどれくらいの規模なのかとか、その世界にはどのような人間が住んでいるのかとか……枝葉末節の、あるいは不要とされそうな箇所にまで話は及んだ。
 このような巨細に渡る創作は、しかし日がな行われているものではない。僕たちは一日の内、八時間は怠けた。そして毎日十時間も眠った。さらに残された時間の半分はベッドで戯れていた(肝心な事をしないので舞子は時折不満足そうだった)。そうして余った時間から更に気力の湧く一時間程度を創作に充てているのだ。だから創作を始めて五日経っても、物語は一向に進展していない。かといって僕たちは遅滞に嘆くことはなかった。舞子は僕がいるだけで幸せそうだったし、僕に至っては、恋人同士の送る日々が怠惰と堕落の近縁である体感を得ただけだった。
 そう、五日経っていた。
 舞子は少しもオフの気配を見せていない。

 六日目、舞子は一時間ほど一人で外出し、帰ってくるなりこう言った。
「今日はお掃除をします」
 舞子のベッドでまどろんでいた僕は、その一言が無性に怖くて飛び起きた。
「急にどうしたの? 掃除なんて」
「だってこの部屋ちょっと汚すぎるもん。こんなに汚れてたら変な菌とか大繁殖で浩平さん体調悪くしちゃいそう」
 舞子は右手に下げていた大きなビニール袋から掃除用具を取り出した。箒、雑巾、カビ除去用洗剤、ブラシ……。
「そうだ、パテも買ってきたの。釘で開けちゃった壁の穴を塞ごうと思って。さすがに金槌でやっちゃったのはどうにもなんないけどね」
 と、舞子は笑った。
 それは、至って普通の発想だった。汚れた部屋を掃除することも、開いた穴を塞ぐことも、恋人の体調を憂うことも、何もかも健全な、普遍的な、褒められるべき普通。人間の大多数が推奨するであろう活動。多数派の意向。
 けれど舞子。舞子は自分で部屋を汚し壁に穴を開けたじゃないか。僕だって部屋が汚いのは好かないけれど、僕と舞子が出会うきっかけとなった釘の穴を埋めてしまうのは、どうにも少しだけ寂しい。
 僕たちは元々、異常な状況下で出会って触れ合って好きあったのに。どうしてその根源を普通で埋めようとする。このまま、どこかおかしい毎日を過ごすのも悪くないだろ? 
 なんて僕は言えない。
「なんだか同棲してるみたいで楽しい」
 と、舞子は僕の思想より遥か遠くで言った。
「そう?」
「そうじゃない? 浩平さん、自分の部屋に全然戻らないもの。私はそれがすごく嬉しいし楽しいの」
「そう。僕は舞子が居てくれたら、部屋なんていくら汚れていてもいいのに」
 うん、と舞子ははにかむ。僕に今、表情なんてない。
「でもね、私堂々としたいの。こんなに素敵な彼氏がいるのに、私がだらしなかったら恥ずかしいもん。だから、お掃除とかお料理とか、そういう事たくさん出来るようになるんだ」
 僕は「嬉しいよ」と嘘をついて、舞子から箒を受け取った。

 七日目、すっかり片付いた部屋で僕たちは目を覚ました。舞子は眠そうに下着を履いて、それからコーヒーを淹れてくれた。コーヒーを啜りながら壁を見ると、十三個あった小さな穴は塞がれていて、かえって金槌で開けた穴が目立った。いつか舞子はあの穴も埋めようとするのだろうか。
 昨日は丸一日かけて掃除をし、舞子の居室は随分と清潔になった。キッチンもリビングも、今やあるべき所にあるべき物が収まっており、床に段ボールや雑誌が散らかっていることはない。
 時刻は昼を回っていて、とりあえず中食を済ませようと舞子が言った。カルボナーラのパスタを作ろうと舞子はキッチンへ立つ。僕は舞子の後ろで、特に仕事を見つけられずぼうっとしていた。寂しい台所だった。
「舞子」
 と、僕は寂しさを紛らわそうと舞子を後ろから抱いた。舞子はくすぐったそうに身を捩り、しかし手元から目を離すことはせず
「危ないよ、甘えんぼさん」
 と僕に言った。
 舞子の作ったカルボナーラは美味しかった。
 それなのに僕は、無性に苛立っている。

 八日目の朝から僕はアパートを出た。舞子はさっさと支度をする僕に何か言っていたが、僕はそれを生返事の乱発で受け流した。
 ここ数日の煩悶の正体を探るべく、否、確信するべく僕はX病院へと向かうことにした。駅前でタクシーに乗り、病院名を告げると運転手は無言で車を走らせた。

 病院前でタクシーを停め、少しだけ待っていてもらうように言い、グラウンド沿いの道を歩く。日差しに炙られる両腕の皮膚が、いつぞや感じた難治性の瘤に蹂躙されていった。
 グラウンドには今日も絶叫が木霊し慟哭が蔓延していた。沢山の人間が少数の人間に支えられていた。職員は静かに仕事をしている。暴れる患者をそっと抱きしめ、罵倒され殴られても微笑んでいた。
 ああ、慈愛。
 僕はその様子を見て、やはり自分は弱っている人間にこそ優しく出来るのだと確認した。
 はじめ、舞子は弱っていた。
 僕と出会った当初、舞子は弱々しく足掻いていたのだ。オフになれば暴れ、オンになれば静謐に沈み、自分がまともではないことを思い知らされていた。僕はそれを見て、この人間が自分より弱いことを察した。それは論理立てた認識ではなく、肌で感じたものであった。いつか世界に地獄を見つけた嗅覚と似た直感だった。
 舞子が弱かったからこそ、僕は彼女に優しくできたのだ。自分より弱いから、自分より損ねているから、僕は舞子に優しくできたのだ。自分より強い人間を助けるなんて僕にはできない。強い人間は一人で生きていけるし、そいつより弱い奴が何をしてもきっと役に立てない。
 根拠なんて無い。根拠なんて無い。根拠なんて無い!
 僕は自分より弱いものに対してなら優しくしていられる。人が人を支えるということは、絶対的な強弱の上に成り立っているのだから。
 僕は弱った舞子よりは強かった。だから舞子に優しくできたし、好きになれた。けれど今はどうだ。舞子は弱っているか? スイッチを切ってからは、ずっと普通の女の子ではないか? 僕がいなくても、もう料理だってトイレだって風呂だって一人でできる。一人で買い物へ行って、一人で掃除だってできる。こういった状態の舞子は、弱い舞子なのか?
 もちろん、普通の女の子になりたいという舞子の願いもわかっている。いつか舞子は「まともに成りたかった」と言って、今そこへ向かっているのだから、それが喜ばしいこともわかっている。わかっている、わかっている、僕はもう十分にわかっている。わかりきっている。普通の舞子は喜ばしい舞子だ。舞子の求めていた舞子だ。舞子の成りたかった舞子だ。
 それはとても素晴らしいことなのに、 僕はそれが妙に嫌だ!
 舞子にはもっと弱っていてほしい。ここの患者のように、僕なしでは居られないくらい弱っていてほしい。
 そうじゃないと、僕は君に優しくできないかもしれないよ、舞子。


sage