17



 逡巡に手が止まる。
 誰が死ぬのだろうか。それが、わからないのだ。

 舞子は眠りながらに「私死んじゃうじゃん」と言った。ここで言う私とは、オフの舞子なのかオンの舞子なのか、もしくは中間の舞子なのか、すべてまとめた舞子なのか、そこがわからなかった。しかし、どちらにせよスイッチを切らなければいずれかの舞子は死ぬ。それは同時に死の自覚あるいは観測を意味する。すると舞子は、生物の枠からはみ出してしまう。
 けれど、それがどうしたというのだ。
 舞子が人間だろうが人間でなかろうが、生物だろうが非生物だろうが、僕が舞子を好きなことに変わりないではないか。舞子が居てさえくれたら良い。僕は素直にそう思えた。
 しかし、いずれの舞子にも死んで欲しくないと願っているのも事実だ。
 スイッチを切るたびにオフの自分が狭められていくと舞子は言った。電極の通電を解いたあと、混沌と暴力と破壊の舞子に戻るまでの時間が伸びているのだ。その事実を元に、オフへ戻るまでの時間を無限に引き伸ばし、結果的にオフへ戻らなくすることが治療の真の目的であると僕は推察している。これは石地万代の「オフの舞子を殺したい」という発言によってより真実性が増した。
 スイッチを使うこと自体がオフの舞子を殺すことに繋がっていたのだ。しかし、スイッチを使わなければ僕の好きな三つの舞子には会えない。会おうとすれば舞子は死に追いやられる。僕の「すべての舞子が好き」という恋心が、舞子をじわじわ殺してゆくのだ。
 解決策がないわけではない。
 舞子をとりあえずオンかオフの状態に固定する手段がある。これは、いささか概念的ではあるが、概ね次のような理屈だ。

 僕は舞子の三つの状態を知っている。その状態がスイッチによって切り替わることも知っている。僕はこの知識にすがり続ければ良いのだ。オンもしくはオフの状態のままスイッチを使用せず、片方だけの状態を維持していれば、僕の中で三つの舞子は存在し続ける。今のようにオンの状態ならば、スイッチさえ切らなければ当然オフに向かうことはない。スイッチを切らなければオフの舞子が消えるところを見なくて済むのである。例え裏で瀕死となり、あと一突きで朽ち果てる程弱っているとしても、とどめさえささなければ良い。
 殺さない限り生き続けるという発想である。
 しかしこの手段には大いなる不穏がついてまわる。それは、恒常化されたオンの裏で、オフの舞子が死んでいる可能性に付きまとわれることである。もしスイッチを切ってオフの舞子が現れなかったらという危惧である。オンからオフへ向かう舞子こそが安定した舞子であり、オフが現れないのならその安定した状態が維持される。それこそが治療の目的なのだろうが、根治のためにはオフの舞子が死に、オンの舞子の必要性が消える。僕の好きな舞子が、二人も死ぬのだ。オンのまま固定する不穏に、僕は耐えられるだろうか。
 それならば。
 ここからは賭けだ。これだけ考えた挙句、賭けに出るしかないというのは己の無力を痛感させられるが、おそらく時間はさほど残されていないのだろう。オンの舞子の頭痛、オフの舞子が無理やり現れた事実、そしてオフの舞子の言った「スイッチ切ってよ。私死んじゃうじゃん」という警告。

 僕はもうわかっていた。
 全ての舞子を生かす方法がある。

 単純な話、舞子をオフで固定すれば良いのだ。そもそも、オフに対して作られたオンなのである。(オフという言葉は便宜的なものであり、オンに対して使われているだけだ)
 つまり、オンの存在はオフが前提となっており、オンからオフへ向かう舞子もオフが前提となっている。何よりもオフは舞子にとって自然なのだ。電極による脳の人工的統御より解放された生来の状態。言ってしまえば、その状態により損ねることの多くは社会的なものがほとんどだ。ひとまずそれを無視して、オフのままにしておけば、電極に頼らなければ、舞子は舞子のまま生きていける。
 オフで固定さえすればオフが消えることはないし、オンに会いたくなったらスイッチを入れたら良い。(それが危険だということは承知のうえだ)その両端を往来するのなら、中途の舞子にだって会える。このように、舞子をひとまずオフにさえすれば……。
 僕のこの理屈は恐らく正しい。けれど救えないほどにくだらない。
 けれども、僕はいずれの舞子も失いたくないのだ。
 このような身勝手は、相手をねじ伏せて安心するような身勝手は、何かに似ている。
 これは、ええと……。
 ああ、恋だ。
 
 僕はスイッチを押し、舞子をオフにした。
 まだ生きていてくれよと願いながら。

 翌朝、目を覚ますと舞子がキッチンに立っているのが見えた。僕は昨晩スイッチをオフにしてから一度自室へ戻り、スイッチをバッグに隠した。なぜだか隠しておかねばならない気がしたのだ。それからまたぞろ舞子の居室へと戻り、変わった様子もなく眠る舞子の隣で目を閉じた。空調に冷やされた室内で、舞子は妙に暖かく、僕は随分ゆっくりと眠ったようだ。
 舞子はキッチンでせわしなく動いていた。手元に意識が集中しているのか、僕が目を覚ましたことに気づいていないらしい。舞子は冷蔵庫から卵を取り出して、ボウルの縁でそれを割り、菜箸を器用に使って撹拌していた。塩を入れ、胡椒を入れ、バターをフライパンに伸ばす。舞子はごく普通に調理していた。慣れないらしく手際が良いとは言えないが、しかし、調理の順序を把握し行動しているように見えた。オフへ向かう途中の安定した舞子がそこに居た。普通の女の子なのだな、今の舞子は。
 すると舞子は僕の起床に気づいたようで、キッチンからこちらに微笑んだ。
「おはよ、浩平さん」
「おはよう舞子。頭痛はどう?」
「それがすっかり治っちゃったの。なんだったんだろうね、昨日の頭痛」 
 ベーコン入りのスクランブルエッグにトースト。湯気を揺らすドリップコーヒー。シンプルな朝食を舞子はテーブルに並べてくれた。
「手の怪我、もうだいぶ良くなったから包帯とっちゃった」
 舞子は右手を僕に見せた。怪我をしていた部分に、桃色の薄皮が張っていた。完治といかないまでも皮さえ張れば随分ましなのだろう。釘の錆によるものか、所々に黒い斑点が内包されていた。
「もう手の痛みはない?」
「うん、大丈夫みたい。ご飯食べさせてもらえなくなるのは、ちょっとさみしいけど、甘えてばかりもいられないしね」
 さ、食べましょ。と舞子は言った。僕はスクランブルエッグを一口食べて、その味が思いのほか良いことに驚いた。
「おいしいね、舞子って料理できたのか」
「料理ってほどじゃないけれど、なんとなく作り方知ってたんだ。きっとオフの時に何かの本で読んだんじゃないかな?」
 それから、舞子はコーヒーを啜って言った。
「やっぱりオンだと色々集中できる」
 僕は無言で食事を続けた。
 舞子は自分がスイッチを切られたことに気づいていないのか?
 テーブルの対面で食事を摂る舞子は、オンに比べてやや大雑把な印象を受ける。食事の作法は正しく清らかだが、かと言って食事に過度な潔癖を持ち込んだりせず、時折笑顔を見せて楽しそうにしている。ピザを食べた時のように、汚れたところをすぐ拭き取るような神経質さは伺えない。至って普通な食事の仕方だ。オンからオフへ向かっている間の舞子は、普通なのだ。
「頭痛も治ったし、もうこのままずっとオンにしておけば浩平さんも安心だね」
「舞子」僕は言う。「僕は別に、オンの舞子だけを好きなわけじゃないよ。舞子は、オンもオフも含めて舞子なんだから」
 舞子は箸を止め、僕を見て「ありがとう」と言った。その目のなんと柔和なことか。僕は何度か頷いて、それから食事を再開した。コーヒーが随分とぬるくなっていた。

 食後、片付けを終え今日したい事をあれこれと話していると、呼び鈴の高い音が鳴り響いた。舞子は「そういえば」と心あたりがあるようで、小走りで玄関に向かっていった。錠を上げる音が聞こえて、僕がリビングから玄関を覗くと、そこには先日の老人が居た。
「やあ舞子、調子はどう?」
 と、老人が言った。張りのある、よく通る声だった。
「うん、昨日ちょっと頭が痛かったけど、もう治ったよ」
 舞子を挟んで、老人と僕の視線がぶつかった。先日「オフの舞子を殺したい」と言い放った老人だった。に、と口元が歪むのが見えた。
「お客さんかな?」
 舞子は僕を瞥見して応じる。
「あ、うん。えっと、えーっと」
 それから躊躇って、小声で言った。
「カレシ、です」
「そりゃ良い。紹介してくれたらよかったのに」
「えー。だって石地さん娘はやらんとか言いそうなんだもん」
 老人と舞子が笑った。やはり、あの老人が石地万代だったのだ。

「やはり君か」と石地老人は言った。「恥ずかしいのはわかるが、しかし老人に嘘をついても意味はないよ、少年」
 リビングに僕と舞子と石地老人が座る。石地老人は、先日僕が舞子と関係はないとしらを切った事を言っているらしかった。落ち着いていて、全てを見透かす賢しげな気風が、老人の全身からにじみ出ていた。
「舞子、彼を紹介してもらえるかな?」
「あ、うん、いいよ」と、舞子はどこか緊張して僕を語った。「ええと、隣に住んでる高田浩平さん。大学で心理学をやってて、えっと、小説も書いてる」
「小説を書いているのかい」石地老人が僕を見た。「それはどんな小説?」
 舞子が僕に視線を寄越したので、ここからは僕が答える。自分の小説について語るのは、少しだけ恥ずかしかった。
「あまりジャンルには拘ってませんが、よく書いていたのは男女の日常を切り取ったような話です。ミステリーとかファンタジーとか、そういったものはあまり書きません」
「書いていた、と言ったが今は書いていないのかい?」
「いいえ、大学の課題で小説を作れというものが出たので、そのために書いています」
「なるほどな。それでは浩平くんは、想像力が豊かだったりするのかね?」
 僕は躊躇いがちに首肯した。
「とすれば、非現実的な話にもついてこれる、と」
 石地老人はそこで舞子を見た。舞子が明るい調子で言った。
「そうそう、浩平さんは電極のことも知ってるよ。オンもオフも見て、それで好きって言ってくれたの」
 石地老人は僕を見て(否、見定めて)先程までの気風はどこへやら、楽しそうに嬉しそうに面白そうにいやらしそうに、笑った。
「ところで舞子」
 しかし石地老人はすぐに笑顔を消す。
「最近ちゃんとオフにしているか?」
「……えへ」
「脳への負荷もあるんだ。舞子にとってオフも大事な状態なのだから、定期的に切り替えなさい」
「はいはい後でオフにするよ。石地さんだんだん小言が多くなってきたね。じじい化してるね」
 石地老人は微笑んで、それから僕に向かってわざとらしく言った。
「ところで浩平くん。話によれば君は舞子の特殊な性質も知っているようだ。言ってはなんだが、これと交際するのは結構大変だろう。きみは舞子の全てを受け入れ、愛していけると言えるのか?」
 何を言っているんだこの老人は。
 突如変わった石地老人の口ぶりに僕は狼狽する。何か裏があるのではないか、迂闊なことは言わないほうが良いのではないか。しかし、石地老人の言葉を聞いて、舞子は僕の返答に大いなる期待を抱いている。愛していけると言ってほしい、そんな障壁なんてことないと言ってほしい、そのような煌めいた期待が僕に向けられている。
「さあ答えたまえ」
 僕は、言った。
「愛していけます」
 などと、場に流されて。

 僕の返答を聞き、石地老人は考える素振りを見せた。舞子は僕を見つめて顔を赤らめている。僕は、なんだか嘘をついた気分だった。それが何故だか、今はよくわからない。
「見上げた根性だ」と石地老人は頷いた。「なるほど、物書きという人種は私が思っている以上に愛に正直らしい」
 僕はその言葉を復唱する。
「正直……」
「そう、正直というのは面白い。それは嘘をつかない事とは違う。本心の一部を堂々と述べることも正直の内なのだよ」
「どういうこと?」と舞子。
「嘘つきも正直者も、言わないことはあるという意味だ」
 なんだかそれって失礼ね、と舞子は言ったが、しかし僕は石地老人に賛成した。感情や思想を言わないことは嘘をつくのとは違う。同時に、正直者が全てを話すとは限らない。やはりこの老人、見抜いている。爺め。
「さておき舞子、ちょっと浩平くんと話がしたいのだが、彼を連れだしてもいいかな?」
「え、話なんてここですればいいのに」
 石地老人は僕を眺めて言った。
「父親と娘の恋人というのは最初のうちは殺伐とするものなんだよ。父からすれば背後から刺してきた相手だし、娘の恋人からすれば懐柔すべき障害だ」
「そうなの?」と舞子が僕を見た。僕は返す言葉が見つからないのでとりあえず顔をしかめる。
「そして、数多の話し合いと飲酒の末にやがて和解し、父は娘を託す。私は舞子の父ではないが、それと同じくらいに舞子を愛しているからね。これは男同士の儀式のようなものだ。私はこれから忙しくなるから、早い内に彼と話しておきたい」
「それはわかるけど」と舞子は言う。「それこそこの部屋ですれば?」しかし石地老人は頭を振って「女性の前では憚られることもある」と拒否した。
 ああ、なるほど。舞子に聞かれたくない話をしたいのだな、この老人は。
「僕は構いませんよ。こちらとしてもきちんとご挨拶をしたかった」
 僕が言うと、石地老人は例の笑みを浮かべて
「話のわかる男で嬉しいよ」
 と言った。

 石地老人は僕を外へ連れだした。アパートの日に焼ける駐車場に、日産プレジデントが狭そうに停まっていた。女性の運転手が後部座席を開き、僕と老人は上質なシートに座る。

 プレジデントは冗談のように長たらしい車体を器用に曲げて、山添のうねる県道を南西へ向かっていた。後部座席の、尻によく馴染むシートは革張りで、中央のひざ掛けに灰皿が付けられていた。運転席の後ろに石地老人、無人の助手席の後ろに僕が座った。
「ヴィップ・カーって初めて乗りました。革の匂いがするんですね」
 石地老人は嗤う。
「ヴィップ・カーだなんて言ってくれるな。それは風情を知らん人間に喧しく改造された哀れな鉄塊の蔑称だ」
「車、お好きですか」
「昔好いてた女がコブラに乗っていてね、そこからハマった」
 車は山道を優雅に進んでいる。僕たちはその中で、前戯としての雑談に興じる。このような会話が目的ではない事はわかりきっていた。
「ご自身でも運転されますか」と僕。
「ああ、けれど国産のセダンだよ。オートマのね」
「今はどの車もオートマですからね」
「それもあるが、歳を取ったら大人しく、持て余さない程度の車に乗るべきだと思うのだよ」
 石地老人は窓を開けパーラメントを咥えた。
「身に余る性能の車に乗ったところで、私はもうそれを乗りこなせない。無理して乗っていたら事故になる気がしてね」石地老人は続ける。「やはり無理をするのは良くない」
 僕は、訊いた。
「舞子のように?」
 石地老人は煙草を呑んで、垂れ流すように吐いた。
「あの子をオフにしたのは浩平君だね?」
「ええ」やはり気づいていたのか。「僕です」
「そうか、そうか。舞子がスイッチの変換に気づいていないのは良い兆候だな」
 石地老人は、いやらしく笑って、僕に煙草を差し出した。僕はそれを一本受け取った。初めての喫煙だ。
「さて、浩平君。爺を楽しませちゃくれないか」
「どういう事ですか?」火を点けてもらい、一息に嚥下する。
「舞子があと数日の内に死ぬとして、君なら何を思う?」
 煙を吐く。心底まずいな、煙草というやつは。

 ◇

「それは、オフの舞子が死ぬという意味ですか」
 僕は一口吸ったパーラメントを灰皿で捻り潰して言った。

 車内の空気が全て入れ替わるほどの、随分と長い間があった。

「気づいているのかね、そのことに」石地老人はいやらしい笑みを隠せないといった風情だった。「だとしたら、なるほど、やはり物書きという人種はどこか面白い。もう一つ質問を追加しよう。浩平君は舞子の電極についてどう考えている?」
 僕は平らな調子で答える。
「電極による治療は、オンの状態を維持することが目的のように思えますが、実は違う。スイッチを切った後、オフの状態へ戻るまでの言わばグレーの状態、つまり普通の女の子としての状態を固定することが本当の目的なんでしょう?」
 石地老人は「続けて」と言って新しい煙草を呑んだ。
「恐らく、それはオンからオフへ切り替える毎に固定されていく。そしてやがて、スイッチを切ってもオフの舞子は現れなくなり、結果としてオフの舞子は死ぬ。同時に、オンの舞子も必要なくなるから、オンの舞子も死んだのと同じ状態になる。これでめでたく普通の女の子としての舞子が誕生する」
 すばらしい、と石地老人は言った。
「なかなか聡明だね浩平君。では、その際に発生する奇跡について、君は気づいているのかね?」
 僕が答えようとすると、それまで運転に専念していた女性が口を挟んだ。
「石地様、お話が過ぎるのでは」
 石地老人は「構わんよ」と言った。女性はそれきり黙った。
「奇跡だなんて僕は思いませんけれど」
 奇跡なはずがないのだ。
「舞子は、自分の死を体験することになる。それは生物が成し得ない体験だ。だから、もしかしたら、舞子は人間の範疇を否、生物の理を超えた者になるのかも知れない」
 石地老人は大きく頷いた。
「すばらしい。一介の大学生がそこまで見抜けるとは。どうだい、私の下で働いてみないかね」
「遠慮します」
「賢明だね。では質問を繰り返そう。間もなくオフの舞子が死ぬが、君はそれでもあの子を愛していけるのか?」
 僕は答えた。
「わかりません。僕としては、オフの舞子にも死んでほしくない」
 石地老人は僕の顔を覗き込み、それから嘆息してつまらなそうにシートへ深く座った。
「君は賢いが愚かだ」それから運転手へ向かって言う「このままX病院へ向かってくれ」
 車が淑やかに駆り、路面の音は粗い。

 人里離れた山陰にその病院はあった。病院よりも学校と似たつくりのそれは古く、白い外壁に細やかな罅が幾重にも重なっていた。堅牢な印象の門の奥にエントランスが一つ見えた。エントランスの奥には薄暗い廊下が見え、日の当たらないリノリウムが海に流れた廃油のように鈍く光っていた。
 車が病院沿いの道を少し進むとグラウンドがあった。芝生に満たされたその広い空間は、四方を緑色の金網で塞がれている。見上げると空にも薄い網がかけられていたので、そこはグラウンドよりも箱といった印象だった。
 グラウンド(あるいは箱)には老若男女あらゆる人間が居て、そのいずれもが白衣を着た職員の監視のもと遊んでいた。炎天下で絶叫しながら子どもが走り、木陰で老人がボールを投げている。老人がボール遊びをしているのは僕にとって妙だった。老人が柔らかいボールを適当に放り投げ、それを職員が拾う遊びらしい。
「浩平君、奥の方を見てごらん」
 石地老人に言われ、病院側の奥を見ると少年と老婆が居た。職員は近くに居ないようだ。
 少年と老婆は、青いボールを奪い合っていた。小さなボールを二人が掴み、渡すものかと奪い合う。少年も老婆も必死だった。小さな青いボールごときを、二人は宝でも取り合うようにして争っている。やがてボールは少年が勝ち取った。力任せに奪い取り、その拍子に老婆は尻もちをついた。そして老婆は泣き喚く。大口を開けて号哭している。少年はとっくに現場を走り去り、もうボールを蹴り飛ばすことに夢中らしい。泣く老婆の下へ職員が来て、何事か言ってから二人して病院へ引き上げていった。

「怖かろう」と石地老人が呟く。「あれを見て苛立つ人種もいるらしい」
 僕は車内に視線を戻した。石地老人が新しい煙草に火を点けた。
「可哀想な人たちだとは思います。別に、怖くもないし苛立ちもしない」
「それは、このような所に閉じ込められて可哀想だという意味かね」
 僕は少しだけ言葉を選んだ。
「そうするより他にないという状況こそが可哀想だということです。確かに、あのような人たちに縁のない人間からしたら、怖いとかそれを苛立つとか言う人もいるでしょうけれど」
 石地老人は紫煙を吐き、病院を見つめて言った。
「我々と比べてどこかが妙だったら、それだけで社会に弾かれる。我々が作り上げた社会は多数派が円滑に過ごす事には特化しているが、少数派の為に調整はされていない。それに多数派は少数派を補うことを厭う。多数派に根付く排他性だ」
 僕は静かに聞く。この老人は、迂回路を通るのが好きなのだろう。
「皆が手を取り合い、損ねた者には補う者が従き、垣根なく慈しみ愛しあうのが、求められている人間像なのだろう。社会像と言っても良い。それは綺麗事ではなく真理なのだよ、浩平君。そして真理とは常に人の手が届かぬ所にある。愚か者どもは手の届かぬ真理を偽善や自己満足などという安直な言葉で済ます」
 石地老人は、僕を見据えて問うた。
「浩平君、多数派が少数派を補う社会は、補おうとする社会は、偽善的だと思うかね?」
 僕は、
「僕は」
 僕は……
「補おうと思うだけ思って、助けようと思うだけ思って、救おうと思うだけ思って……それで何もしないのなら、その社会は偽善的と言われても仕方ない気がします」
 石地老人は、僕の言葉を丁寧に噛み締めて、それから言い放った。
「普通の男なのだな、君は」
「そうでしょうね、僕は普通です」
「普通は楽かね?」
「普通は楽です。世界に躓くことが少ないから」
 グラウンドから何か叫び声が聞こえた。職員はそれを何食わぬ顔で流していた。
「この病院は普通の病院だと思うかね?」
「いいえ」
「では、ここの患者をどう思う。決められた範囲で、檻のように四方を塞がれて、食事も運動も入浴も全て他人に決められて、時として周囲の好奇の視線や醜悪な罵倒に晒されて、職員の手に負えなくなれば薬を飲まされ無理矢理に意識を淀まされ、あるいはベッドに縛り付けられ、患者によっては独房まがいの個室に閉じ込められる。ここの患者をどう思う?」
 難しい質問だ。石地老人が言った側面を見れば人間らしからぬ扱いをされているとも言える。しかし、そうせざるを得ない状況なのだろう。患者の家族の都合、患者本人の都合、職員の都合、それらに対応するためにそうせざるを得ないのだ。果たしてそれは、患者にとって何をもたらすのか。安息か反発か納得か葛藤か。その中で生活する患者は、やはり可哀想だと、僕は思ってしまう。窮屈だろうと思う。
 そのように言うと、石地老人は微笑んだ。不可解な微笑だった。
「可哀想か。それは悪くない言葉だ。さんざん質問をしてしまったが、気を悪くしないでくれ。お詫びに少しだけ本当のことを話そう」
 石地万代は語る。

「少数派をこの世界に対応させるための最短の道は、その個性を殺してしまうことだ。しかしそれは現代社会では是とされていない。個人を尊重し、特性を理解し、その上で順応させてゆくべきだというのが世論だ。私もその考えは理解できる。とりわけ昨今の個人主義と個性崇拝や人権教育の流れを見たら世界がその向きだというのは誰にでもわかるだろう。
 しかし現実はどうだ。例えばこの病院のガキに薬を飲ませて一般の小学校へ放り込んでみろ。ある程度は他と同じ生活を送れるだろうが、いつか必ず教室の全員が気づく。こいつは自分達とは違う。もしその気づきの後、教員や保護者が上手く対応できなかったら、もし上手く対応できたとしても、解決しがたい溝が延々と残るのが現実だ。私はね、その溝を根本的に解決したいのだよ。
 電極による脳の統御をしながら、新しいその人を創るのだ。損ねた本人を殺し、電極が必要なくなった時、普通に生活のできる人間が誕生する。何も操作をされていない、何も補助をされていない、自立した人間が誕生するのだ。これこそが本質的な解決なのだよ。
 そして、舞子は、今まさに誕生しようとしている。一度死んで、普通の人間として生まれ直すのだ」

 おいおい。
 どうかしてる。
 どうかしてるこの爺!
 狂った爺め! 自己中心的老醜め! 変態めクズめゴミめ!
 何が生まれ直すだ!
 僕の好きな舞子を殺して、それから新しい普通の舞子を作ろうってのか!
 冒涜だ! ふざけるな! ぶっ殺してやる!

 と、言いかかった僕を、石地老人は一言で硬直させた。
「次オンにしたら、オフの舞子は死ぬ。その先舞子を愛せるか、考えて見ることだ、少年」
 車は再び動き出す。僕はもうあまり喋れないようだ。
 手の汗が酷い。舞子。舞子。

sage