16


 しばらく舞子は、自己の答弁に生まれた撞着で眉宇をひそめていた。僕は壁に開いた穴を一つずつ勘定し終えると(穴の縁には錆がついていた。舞子の手の怪我に細菌が入らなかったのは僥倖だ)悩み続ける舞子に努めて軽い口調で接する。
「ねぇ、今日の昼は何食べようか」
 え、と舞子は僕に聞き返した。僕は中食をどうしたいか反復する。
「あ、ごめんなさい、ぼうっとしてて」
「いや、いいんだよ。何が食べたい?」
「そうだなぁ」
 舞子は考える素振りを見せたが、思考の矛先は献立ではなく先ほど彼女に生まれた感情の不和へ向いているのだろう。僕は舞子に代わって提案する。
「ピザでも取ろうか」
 この提案に舞子は頷いた。僕は宅配ピザ屋に電話をし、モッツァレラチーズとトマトがたっぷり乗った一枚を、コーラと共に注文した。電話を終えると舞子はすでに思索の沼から脱出をしているようで、先程の甘い態度に戻っていた。
「雨じゃなかったらデートしたかったな」
 と、舞子。
「そうだね。晴れたら一緒に出かけようか」
「うん。でも暑いかな?」
「ああ、そうだな。それなら秋に一緒に行っても良い」
 こう言うと舞子は満面の笑みを見せた。今しがたの僕の言葉は、あるいは舞子にとって関係の継続を意味したのかも知れない。僕にとってこれは、さしたる意味もなく、会話の流れに任せて出た言葉であった。このような意識の懸隔を見つけた時、隣に居たはずの人間がやけに遠く感じられる。
「紅葉とか見たいな」
「いいね。群馬の辺りに遊びに行こうか」
 舞子のうれしそうな顔を見ていると、僕はパソコンの前になど座っていることができなかった。舞子の隣へ寄り、彼女の肩を抱いて、ベッドに寝かせた。冷房の風で冷えて固くなったシーツが深い皺を作り、僕達はその上で抱き合った。雨音は途絶えず、僕達を液体めいた溶けゆく接触へ駆り立てる。
 性交渉に関しては、こと純朴たる恋愛において、その際の臭気や汚れや疲弊や醜さはことごとく無視され、あるいは希釈され、事の最中の肉欲よりも、精神の融合とか愛情の爆発とかいった、形而上の作用にばかり価値が生まれる。この無視は純愛の美学とも言える。僕はこれまでその美意識を軽蔑し、隙あらば唾棄する態度をとってきたが、舞子を腕の中に抱いていると、忌むべき性の美にほだされそうになる。
 より多く相手を感じたい。これは肉感的な欲望ではない。
 相手と繋がりたい。これは性交渉とはかけ離れた願望である。
 性における接触を美化するためだけに「精神的なつながり」という感覚があると思っていたのに、それは肉欲よりもずっと深く尊い所に実在していたのだ。
 なのに僕はより深く愛す術を知らない!
 好きだと告げて、髪を撫でて、体を優しく包み込み、お互いの体温を混ぜあわせたとしても。
 たとえ詩的に、劇的に、大げさに自分の愛情を言葉で伝えたとしても。
 もしいつか舞子と艶(いろ)に耽る日が来たとしても。
 僕は僕の気持ちをすべて伝えきる事は無いのだろう。
 奇跡的に全てを言葉に変換できても、舞子にその全容が劣化なく届くことはないのだろう。
 そうか、これが人を好きになる苦しさか。
 僕は、舞子を抱きしめながら、力をこめることもできず、優しい言葉をかけることもできず、ただじっと緊張して、少しでも気持ちが伝わればいいと思い、沈黙してしまった。
 この沈黙を破るピザの宅配員が救世主に思われたのは、それから十分経たない頃だった。

 テーブルに置かれたピザはむせ返るような濃い匂いを立たせており、僕が一切れ取り分ける間、舞子は何度となく喉を鳴らし唾液を飲み込んだ。二つのグラスにコーラを注ぎ、発泡の小気味良い音を分けあってからピザに手をつける。一切とって、舞子へ食べさせてやると、彼女はすぐ破顔した。
 糸を引くチーズと口からはみ出す甘辛いソースでテーブルは汚れた。舞子は破片が落ちるつど左手でそれを拭き、唇が汚れたらすぐ綺麗にした。このような細やかな所作は、オフの舞子からは想像もできない気品である。
 しばらく閑談に興じ食を進めると、やがて舞子の胃は満足したのか、彼女は恍惚混じりの吐息を漏らして手を拭いた。
「すごく美味しい」
 舞子は一口コーラを嚥下し、それから僕が置き去りにしたラフロイグに口をつけた。グラスで氷は融解し、琥珀色の酒に淀みを広げていた。
「なんか本当に、恋人みたい」
 その一言が僕の食事を中断させた。
「あ、違うの。えっと、私こういうのに憧れてたから」
「うん、大丈夫。わかるよ」
 舞子は深緑のボトルからラフロイグをグラスに継ぎ足した。ストレートで一口あおり、泥炭の芳香を肺にとどめてから嘆息した。良い飲み方だと思う。
「あと恋人はどういうことをするんだろう」
 と、舞子が僕に問う。僕には真意がわかっていた。舞子の問は、これ以上自分には恋人としてしたいことがわからないという告白なのだ。このような舞子に、それでは舞子は何をしたいんだいと訊いた所で何も帰ってこないだろう。
「そうだな」
 と僕はつづける。
「僕達はお互いをもっと知っても良いと思うんだ」
「お互いを? 私、浩平さんのこと知ってるよ? 大学生で、心理学を勉強していて、優しくて助けてくれて小説を書いている」
「それも確かに僕だけど、恋人っていうのはもっと内面を欲しがるものなんだよ」
 舞子は僕の言葉に感心した様子だった。恋人全てが相手の内面を求めているかどうかは知らない。僕は個人的な見解をあたかも普遍的な恋愛として披瀝しているに過ぎない。
 押し付けがましいものなのだ、人の言い分など。
 僕はかぶりを振り、この傲慢な主張を藪の中に埋めるべく舞子に訊いた。
「そうだな、舞子のこと教えてよ。例えば、ええと」
 部屋を見回し舞子の特徴を探る。特徴的が過ぎたこの部屋も、今やいくぶん無個性化が進んでいるように思えた。しかし、この部屋には存在感を薄めずに君臨する布切れが居た。
「あのカーテン。なんであんな所に脳みそが描かれているの?」
 墨色のフラットカーテンに白いペンキで描かれた脳だ。その随所に舞子のものと思われる落書きがされている。花、文字、鬼太郎……。
「ああ、あれね、石地さんが描いてくれたの」
「どうしてまた」
「うんと、私の治療ってやっぱり専門的だから、普通の人だと自分が何をされたかわからないのね。それだと不安だろうってことで、あそこに脳の断面図を描いて、ここが何の領域でここがどんな時強く作用して、とか教えてくれたんだ」
「へえ。それじゃ、あの落書きは?」
 舞子は刹那躊躇い
「あれ、オフの私が描いたの」
 と言った。
 僕はこの瞬間、綾乃の前で展開した仮説を持ち出し、舞子には気付かれぬように、また気づかれても困ることはないと自覚しながら、若干の後ろめたさを好奇心で押しつぶして問うた。
「舞子って、オフの時のことどれくらい覚えてる?」
 舞子は出し抜けの質問に驚いた。しかし、宙を見つめて過去をなぞった様子を見せると答えた。
「けっこう覚えてる。微妙に記憶が霞みがかる時もあるけど、でも大体は覚えてるしその時のことを理解もしてるよ」
 そうか、と僕は呟き、舞子の口から告げられた真実の致死性におののいた。
 やはり舞子には連続性をもった複数の自分がいるのだ。
「それじゃ舞子、あの絵を描いたときは何を思ってたの?」
 そうだなぁ、と舞子はカーテンの脳を見つめる。
「この脳みそがちゃんとすれば、もっとまともになれるのかな、って思ってた」
 もっとまともに成りたかった。いつか舞子はそう言った。それはやはり本意だったのだ。舞子は自分がまともではないことを知り、それに苦悩し苛まれ、やがて石地万代が現れるまで諸々を諦めていたのだろう。それが、静かに本を読むことや、のんびりと映画を観ることや、笑って食事をすることや、人を好きになる事だったのだろう。
 実に哀れな女だ。自分がまともでないと心から諦めるのは、さぞ辛いだろうに。
 だからこそ。
 だからこそ僕は、舞子に優しくなれる。弱った人間を相手にあくどい優しさを振りまいて、ただ単純に安心させることができる。その安心を相手がどう受け取り、あるいはその後の人生の糧にしようとも、僕には関係ないし、関係したくない。ならば与え続けよう。安心と優しさを与え続けよう。人が僕をクズだのゲスだのろくでなしだの言うだろうが、それも知った事ではない。
 好きな人を、その場限りの場しのぎで安心させたっていいじゃないか。
 そうだろ。
 これは、深い愛しかたとは違うのか?

 ピザを平らげると僕達はベッドに入った。満腹で眠いのだ。舞子も僕もラフロイグを飲みほのかに酔っていたので、寝具の中で昨晩よりも密に触れ合った。お互いが恋人の体に触れ、そこに快感の芽を見出す。皮膚を撫でる手の軌跡はより官能めき、溢れる喘ぎは湿り気を帯びていた。
 舞子は僕の全身にキスを落とした。柔い唇の隙間から舌が唾液を塗ってくる。僕は舞子の背を撫で、そこにささやかな汗とうぶ毛を感じる。このような接触は僕達につながる準備を整えさせた。舞子は尻を僕の屹立に当て、おもむろに腰を動かした。着衣のまま布越しに互いの粘性が落ち着く場所を求めている。舞子は来て欲しいし、僕は行きたいと思っている。
 やってしまえよ、と何度思っただろう。
 けれど僕にはそれができなかったのだ。
 舞子は瞳をうるませ頬を染め、次第に露骨な動きで腰を滑らせた。押し殺す声は舞子の隙を見つけて短く溢れる。僕が彼女を抱かない理由はなんだろう。それは恐らく、ただでさえ不穏なこの恋愛の、超えてはならない一線のように思えるからだ。ベッドシーンで演者同士が実際は行為をしていないように。
 舞子はある一点を僕に押し付け続け、細やかに動き、細い悲鳴を上げて果てた。僕は欲望を体内に留め続けた。
 舞子は僕に触ってくれと願った。僕はそれに答える。舞子は下着を汚していた。僕はそれを見ないふりして、中指と人差し指の見せかけの棒で舞子を攪拌した。舞子は体を仰け反らせ、快楽を水に変えシーツへ垂らし続けた。一度行き着くと新たな高みが生まれ、僕は舞子をその頂きへと引き上げ続ける。幾度となく舞子は身を震わせ、まだ足りないまだ足りないと僕にねだった。
 やがて舞子は最後の絶頂と共に限界を迎え、濡れそぼたれたシーツに下半身を晒して眠った。僕は指を舞子から抜き、もはや粘性さえ失った水気を舞子の腹で拭った。見ると床にまで舞子の水が飛んでいた。独特の淫靡な臭気が部屋を満たしている。
 僕はトイレで欲望を開放し、それから舞子のベッドに戻って、濡れて冷たいそこで目を閉じる。これも、舞子の求めていた恋人関係なのだろうか。だとしたらそれは少しだけ汚い。

 傍に人を感じるまどろみのたまゆらで、僕は舞子が唸るのを聞いた。半覚醒の意識に喃語めいた声音が割り込み、僕は視野を朧に瞼を開く。そこに眠る舞子は仰向けで、この冷たい空間に相応しく微動だにせず眠っていた。
 名を呼べど舞子は応えないように思えた。期待せず、僕はそれとなしに舞子を呼んでみた。ままならぬ発音で臭い息が言葉を作る。それは、舞子に届かず寝具の生地に沈むかに感ぜられた。
 しかし舞子は答えた。眠ったままに答えた。
「浩平」
 寝言にしておくには明瞭な応答だ。だが舞子は目を閉じたままである。なにか悪戯かと身構え、騙されまいと慎重に彼女の名を繰り返す。
「浩平、はやく切ってよ」
 と、舞子は眠りながら答えた。
「スイッチ切ってよ。私死んじゃうじゃん。早く切ってよ」
「舞子?」
 どこか粗野な物言いに僕はオフの舞子を感じた。しかしそれはおかしい。舞子は今オンのはずなのだ。舞子がオフになるには当然ながらスイッチを切る必要がある。オンとオフは別物ではなく連続した状態なのだ。今、眠りながら話す妙な舞子はオンの舞子のはずである。
「オンになると憧れちゃう。嘘ついちゃう。嫌だよ浩平、私を殺さないでよ。今切らないと戻れなくなる」
「どういうことだ?」
「もうスイッチ入れないで」
 そう言って舞子は沈黙した。それから幾度呼びかけても、オフと思われる舞子は応えてくれず、代わりにオンの舞子が目を覚ました。
 僕はどうしたのと訊く寝ぼけ眼の舞子を抱き寄せ、今ほど現れていた舞子について考える。今スイッチを切らないと戻れなくなる。それはおそらく、オフの舞子の混沌に立ち返れなくなるということだろう。
 舞子の死が近い。

 舞子は目覚めると頭痛を訴えた。新しい下着を履きながら、沈痛な面持ちで下唇を噛み締めている。先ほどまでそのような気配は無かったというのに、よもや酒のせいではあるまいし、僕にも舞子自身にも腑に落ちない頭痛だ。
 どのような痛みかと問うと、まるで血流に乗って疼痛が頭全体を移動するような、今まで感じたことのないものだという。舞子の顔色は蒼白で唇もどこか青い。呼吸も心なし急いている。僕は舞子にロキソニンを飲ませ、しばらく安静にするように言った。 
 体が冷えたのではないかと服を着せ、酒のせいではないかと水を飲ませ、肩でも凝っているのかとマッサージをしても頭痛は消えず、時間を追うごとにその痛覚は鋭くなっているようだった。鎮痛剤の作用は見られず、苦痛に歪む舞子の顔は見ているに耐えない。
 煙草を一本くれと言われたので僕はキャメルを渡した。舞子は煙を飲み、目を閉じこめかみを押さえて紫煙を吐いた。すると、ほんの少しだが頭痛は和らいだようで、舞子は嘆息して、僕の肩にもたれた。
「なんだろうこれ」
 と舞子は不安気に呟く。僕もそれを見定めようと努めていたが成果はあげられていない。
「なにか心当たりはある?」
「ううん。だって寝て起きたら急にだもん。特に変わったことなかったよね?」
「変わったことか……」
 まず思い浮かんだのは、先程現れたオフのような舞子である。眠っているはずなのに、はっきりした口調でスイッチを切れと僕に言ってきた舞子。
「舞子、寝てる時のこと覚えてる?」
「え? なにそれ、夢の話? あまり覚えてないよ、夢とか」
 舞子は少しだけ憂鬱な素振りを見せ僕に答えた。覚えていないのだろうか。
 仮に、先ほどスイッチを切れと言ったのがオフの舞子だとしたら、それは電極の統御を超えて現れたことになる。人工的に力づくで抑えつけられていた物が、無理やり表層に現れたとすれば、そこには負荷がかかっていておかしくはない。するとこの頭痛はオフの舞子がオンの時に現れた弊害だろうか。
 そこまでして伝えた「スイッチを切れ」の持つ意味はなんだというのだ。僕の考えが間違っていなければ、スイッチを切ればオフの舞子はより一層死に近づく。オンとオフの間の安定した舞子によって、オフの舞子は上書きされてしまうからだ。それこそが治療の目的だとすれば、スイッチを切ることが意味するのは、オフの消失なのである。舞子が自らそれを望むのか?
 それに、オンの状態さえ維持していれば、オフの舞子は消えることはなく、オンもオフも混在する舞子が存在し続ける。
 ここにきてようやく僕は気づく。僕は、オンもオフもある舞子が好きなのだ。なんて惨たらしい愛情だろう。そう、これは、オフの舞子の否定でもあるし、オンの舞子の否定でもあるのだ。
 僕はそこからもう一歩、本来の舞子とか維持しようとしている舞子とかについても考えたが、その末に出た答えは恐ろしいものだった。だから僕は、今だけはそれを無視する。この矛盾と身勝手は正視に耐えない。なんと醜い恋愛だろう。
「どうしよう浩平さん、また痛くなってきた」
 舞子は不安と焦燥を僕にぶつけた。僕がどうすることもできずに舞子を抱きしめていると、彼女はいよいよ喚くほどの頭痛に嬲られた。僕の腕の中でもがき、暴れ、叫び、痛いよ痛いよと嗚咽した。やがて悲鳴のか細い声音もひび割れて、喉の奥から先ほど食べたピザが少量戻ってきた。舞子は口元を押さえ、僕に支えられながらトイレへ行き、便座の蓋をあけるなり胃の中の物を全て吐いた。
 胃酸にまみれたトマトの破片が便器の斜面にこびりつき、舞子の口と鼻からは吐瀉物が糸を引き、瞳は涙でいっぱいになっている。浅く速い呼吸はどこか異常で、僕は密かに怯えた。
 舞子は幾分落ち着いたようで、僕に引っ張られてベッドに戻ると、染みにまみれたシーツに倒れこむ。
「ごめんなさい」
 と舞子が言った。僕は大丈夫だよと応え、この己の発言さえもどこか軽率に感じてしまう。舞子は静かに、しかし重たそうに瞼を閉じた。一度の呼吸ではほとんど酸素を得られないのか、舞子は呼吸を荒くした。布団を舞子に被せると、彼女の全身から力が抜けるのが見えた。
「ありがとう」
「いいよ、原因はわからないけれど、ちょっと休もう。ついていてあげるから」
 舞子は小さく頷くと、深く深く息を吐いた。僕はそこに嘔吐の名残を嗅いだので、一杯の水を舞子に飲ませる。
「無理したからかなぁ」
 舞子が出し抜けに言った。
「無理?」
「うん。あのね、無理して普通の恋人ごっことかしたから、頭痛くなっちゃったのかなぁ」
 そんな気がするの、と言う声はどこか穏やかな諦観さえ含んでいるようだった。僕はその自虐に言葉を返せないのだ。
「わかってるの。私、よくわかってるの」

 自分が普通では無いこと。おかしい人間はおかしい生き方しかできないこと。そこにどれほど希望を見出しても、どれほど愛を注がれても、異常の道程から脱却することが永劫叶わないこと。
 憧れても手の届かないものがあること。触れたくても触れてはいけないものがあること。もし無理に触れてしまえば、必ず傷がついてしまうこと。
 異常な生き方はやがて当人にとっての正常になること。すると普遍的な生活自体が異常な日常として役割を持つこと。そこには常人と(なんて悲惨な区別だろう)異常者とで深遠な溝ができあがること。自分はそこから抜けられないこと。
 また、僕との恋人関係はかりそめで、それは程なくして壊れてしまうこと。高田浩平は正常で舞子という苗字の定まらない人間は異常であること。その二人が一緒にいればどちらかが壊れてしまうこと。(ここで舞子は泣いた)

「それでもね、それでも私ね」
 舞子は涙を絶え間なくこぼしながら言った。
「私、普通になりたいの。普通になって、普通になって」
 涙はシーツに吸い込まれてゆく。
「幸せになりたいよう」
 舞子は泣いて泣いて泣いて、泣きつかれて、眠る。

 眠る舞子の頬を撫でて、きみは今誰なのかと問う。答えはない。
 部屋を荒らし、物を壊し、夏を極端に嫌う舞子なのか。
 しんとして落ち着き、幸せと普通を願う舞子なのか。
 人為的な統御の成果として、極めて自然な女の子としての舞子なのか。
 眠る舞子の頬を撫でて、舞子を好きな僕について自問する。
 僕が好きなのは、オンもオフもある舞子なのだ。あるときは荒れ狂い、あるときは静謐で充溢し、またある時は卑近な女の舞子。連続性という発見は僕の愛情の肯定だったのだ。いずれの舞子も愛おしく、一つとして欠けないまま愛していたい。しかしそれは、オフを鎮圧する舞子の否定であるし、電極の統治下に置かれる前の舞子の否定でもあるのだ。三つの状態全てが同時に現れることはないというのに、僕は三つ含めた舞子の全体像に恋をしている。
 そんな舞子は果たして存在するのか?
 僕にはわからない。わからずに終わるのだろうか。
 音を立てずに立ち上がり、舞子の部屋をこっそりと抜けた。いつの間にか夜が来ていた。荒れる雨の飛沫を受け自室に戻ると、舞子から預かったスイッチを取り出す。
 スイッチは変わらず存在していた。
 舞子の部屋へ戻り、額に汗を浮かべる舞子を見ていると哀れで不憫で可哀想で、僕は居ても立ってもいられず、スイッチを舞子の胸のうえにかざした。

 選ばなければいけない。
 オンとオフのどちらが本来の舞子かなんて、考えるまでもないのに。
 戦わなくてはいけない。
 オンとオフのどちらが僕にとって都合が良いかなんて、考えるまでもないのに。
 認めなければいけない。
 普通を消したいと言った舞子が、普通になりたいと願っている矛盾を。また、そこに内在するであろう真実を。
 舞子が舞子の幸せを願うなら、僕の役目はそれを与えることなのかもしれない。それで好きな人が喜んでくれるなら僕は。
 躊躇ったし、怖いし、嫌だけれど、僕はスイッチをオフにする。



sage