15


 翌朝も荒天だった。膨れ上がった鈍色の雲は、もう抱えきれないのだと言うように雨を落としている。風が電線を鳴かせ、落ち葉を巻き上げ、きっと見えない所で蝉たちを殺している。煽られた雨粒は窓にぶつかり硬い音を立てていた。
 外界を乱す自然の暴虐に比して、室内はいたって安穏としていた。よく冷えた部屋の中でベッドが温かい。舞子はまだ眠っていた。いつぞや起き抜けの孤独を味わった僕は、この度の起床が望むまま与えられたことを喜んだ。起きても舞子が傍にいる。二人の熱で柔らかくなった寝具が心地よい。舞子を抱きしめて、僕はもう一度眠った。
 僕が二度寝を終え乾いた瞼を開くと、舞子が微笑をたたえてこちらを見ていた。判然としない視界が舞子で満たされる。
「おはよう浩平さん。ねぼすけさんね」
「ああ、おはよう舞子。早起きさんだね」
「浩平さんかわいい」
 舞子が僕を抱き寄せた。顔が胸に埋まる。舞子は僕の頭頂部に顎を載せて、とても穏やかに呼吸をしていた。
「腹が減ったね」
「うん。でも起きたくないね」
「このまま眠ろうか」
「だめだよ、今日がもったいないから起きよう」
 このようにして僕達はベッドでじゃれあい続け、お互いにその停滞と言葉だけの決意を楽しんだ。しかしいよいよ本格的に腹が減り、あまつさえ僕の腹の虫が鳴いてしまったので、不承不承に体を起こし寝室を出た。
 僕達はまず歯を磨き顔を洗った。舞子の手はまだ完治していないので僕は彼女の身支度を介助した。歯を磨き終えると洗面台の前でキスをする。舞子は僕に唇を押し当て舌を絡めた。おいしいね、と舞子が言うので、僕は彼女の唇を柔く噛み赤面を隠す。
 キッチンでは舞子がコーヒーを淹れる用意をし、その脇で僕はフレンチトーストを作った。とびきり甘いミルクの湖にパンを浸ける。舞子はそれを見て興奮した。
「このままでも美味しそう!」
「このままでも美味しいけど焼くとすごいことになる」
「どんなこと?」
「甘いこと」
「なにその日本語すっごい怪しい感じ」
「焼いてみる?」
「えー。失敗しそうだから怖いな」
「一緒にやれば大丈夫」
 舞子は僕に後ろから抱かれながらフレンチトーストを焼く。フライパンから昇る甘い香りと舞子の匂いが混ざっていた。舞子はゆったりと体を左右に揺らし鼻歌を奏でる。カーディガンズのラヴフールだ。舞子によく似合う、哀れな歌だな、これは。
「あ、浩平さんごめんなさい!」
 フレンチトーストができあがる頃、舞子は急に焦ってフライパンを離した。
「私、コーヒーのお湯沸かしてない!」
 見ると、コンロの上には二人分には多すぎる水の入ったヤカンが置き去りにされていた。
「ああ、私ってこういうこともできないんだね」
 肩を下げる舞子を撫でて僕は湯を沸かす。水を二人に調度良い量に減らして火にかける。まもなく沸騰し、ヤカンの甲高い警笛がキッチンを彩る頃、僕達はフレンチトーストを焦がした。

 このような恋愛がすぐに崩れて消える事などわかっているのだ。どれほどの愛情をもってしても黒焦げのフレンチトーストを美味くは感じないように、たぎる慕情に後押しされてもいつか必ず綻びに躓く。恋愛は安定させなければ破綻するのだ。
 舞子の求める卑近な恋人関係をするには、彼女は愛の理想に惑溺が過ぎる。ひねもす絶えない安定の妄想はそれを遠ざける一方である。無いものをねだっても与えられることはない。もし、身にそぐわない物を与えられたとして、尚且つ乗りこなせる人間がいたとすれば、それはもはや才能なのだ。舞子に恋愛の安定が与えられないのは、ただ才に乏しいからなのだろう。ややもすれば、舞子の無才は日常のあらゆる要素にまで波及しかねない。舞子に普通に生きる才能がないとすれば、あらゆることを許すのもまた楽なのだけれど。
 このまま僕達がかりそめの円満を演じたとしてもいずれ幕引きが訪れる。それはもう、どうにもならない。抗うすべもない。それはとても残念である。諦観をもって遺憾を押し殺すしかない。
 しかしそれでも昨晩の演劇のように、予め用意されているものをなぞることはできる。没個性的にすばらしい恋人関係をつづけることは、終わるまでのささやかな間ならば、可能なのである。
 だから僕は、ソファの横で熱いコーヒーを飲む舞子と、のどやかな時間を過ごすことだってできるのだ。窓を打つ雨音に会話の間をもたせ、ことによってはそれを音の背景として楽しむことも難しくはない。舞子はこの静寂に満足してくれるだろうか。僕は少しだけ不安だった。
「舞子、今日は何したい?」
 ぽつりと呟く僕に、舞子はしばらく答えなかった。手元のコーヒーの黒い水面に埃の粒が浮いているのが見えた。
「えっと、浩平さんは何したい?」
「僕は舞子のしたいことをしたいな」
 舞子はコーヒーを静かに嚥下する。僕もそれに続く。埃は体内に消えた。
「ほら、私って彼女だから、彼氏のしたいことに付き合うのも、なんていうか、えっと、彼女っぽい? かなって。だから浩平さんのしたいことしたいな」
 そうか、恋愛において舞子は彼女になるのだな。それが舞子の役割なのだな。
「そうだなぁ、僕はそろそろ大学の課題をやらないとまずい」
「どんな課題?」
「小説をひとつこしらえるんだ」
「小説?」
 舞子が小首をかしげた。僕は頷き冗漫に言葉をこぼす。
「ええと、オリジナルならなんでもいい。男女が出てくれば自由にやってよくて、特にテーマとか決まってなくて。それで、ええと、そう、舞子を出そうかなって思ってる」
「小説に? 私を?」
 僕は首肯した。舞子は僕を覗き込み、それどんな小説? と訊ねた。
「まだ何も考えてないんだけど、とりあえず舞子が出てくる」
「浩平さんは出てくる?」
「それもいいね。私小説めいて楽しそうだ」
「私、どんなキャラクターになる?」
「それも決まってないなあ」
 舞子は興味深そうに僕の話しを聞いていた。その姿勢に少なからず気分が良くなったのは事実だ。僕の書く小説を舞子に捧げてもいいな、と思った。
「冒頭にこう書こう。舞子に捧ぐ」
「かっこいい!」
「そう? 舞子へ。とかでもいいな」
「ピカソの絵の帯がつくといいね」
 僕達は笑った。
「それじゃさ、私の部屋で書こうよ」
「どうして?」
「えっと、あのね、私の部屋に彼氏が来て、彼氏は自由にしたいことをしてるの。それを私は本とか読みながら眺めて、かまってくれないから拗ねたりするの。それで、彼氏はそんな私に気づくから、あの、キスとかしてくれて、そういう、なんかそういうことしたい」
 こうして脚本は決まった。
 僕達は劇をする。

 自室の玄関を抜けると夏の雨のじとついた湿気が肌に絡みつく。共同廊下から見える近隣の家並みが白く霞んでいる。風雨は勢いを弱めず街を濡らし続けていた。
 廊下の奥、アパートの入口側で浅見氏が掃除をしている後ろ姿が見えた。この雨の日に老人は竹箒を振るっている。昨日見た虫の死骸は今や消えていた。浅見氏は僕達に気づいていないようで、背を丸め黙々と廊下を履いていた。浅見夫人の姿は無い。病臥との話であるが芳しくないのであろうか。
 舞子は浅見氏を瞥見すると無言で自室のドアを開けた。木彫り堆朱はまだドアに貼り付けられている。この堆朱はなぜここに貼りつけられているのだろう。門番のようにじっとしているのは何故だろう。
 僕は促され舞子の居室に上がる。白檀の香りと、先日よりさらに整理された玄関に、僕は密やかに焦燥する。
 寝室も同様に整頓が進んでいた。散見された埃や脱ぎっぱなしの服も綺麗にされていた。舞子は広くなった足元を優雅に歩み、僕をテーブルに座らせるとラフロイグをグラスに注いだ。ピートの香りが蒸れた室内に広がる。舞子は冷房を起動し、暑いねと呟いた。僕は頷き、ラフロイグの濃い辛さを楽しんだ。
 冷房が部屋を冷やすまでの間にパソコンを起動し、舞子は少しだけ所在なさげに狭い部屋をうろついた。しまいにはベッドの上で正座してこちらを眺めているので、僕は苦笑のまま舞子を手招きして横に座らせる。
「邪魔じゃない?」
 と、舞子は僕を気遣った。
「いやそんなことない。ほら、どうせだから一緒に作ろうか」
「楽しそう。けど私、小説なんて書いたことないよ」
「大丈夫、舞子がなにかイメージを言ってくれたら僕が文章にする」
「うん! やってみたい」
 舞子は僕の腕に寄りかかってパソコンの画面を眺めた。何も書かれていない白い画面だ。
「ああでも舞子、そうすると放っておかれて悲しい彼女ができなくなるね」
「あ、そっか。それはまずいね」
 舞子は口惜しげに僕から離れ、またぞろベッドの上でじっと座った。僕はその様子がおかしかったので、笑みを隠し切れないままにキーボードを打鍵する。しばし雨音と僕の弾くキーボードの響きが混ざり合い、その間舞子はやはり物足りなさそうにこちらを見ていた。脚本にならって放っておくと、舞子も予定通りに拗ね始める。
「相手してよー」
 などと言うので僕はあえて無視を決め込む。集中している素振りだ。
「ねー浩平さん」
 僕は文字を紡ぐ。小説の冒頭にすらならないであろう印象の羅列。それは例えばこんな風に打ち込まれる。
 舞子。電極女。暑い夏。蝉の声。雨音。湿気。音楽と煙草。ラフロイグと包帯。寝具に鎮座。空調の風。乾いた部屋。壁を貫く釘。つながる部屋。通り抜ける冷気……。
「ねーねー浩平さんー」
「なに?」
「やっぱり相手にされないの悲しい」
「そうか。ほらそしたらこっちにおいで」
 言われて舞子は微笑んだ。それからゆっくりとした動作でベッドを降り、僕の隣に再び腰を下ろす。舞子は画面に打ち込まれた印象の羅列を読んでいた。
「小説ってこうやって作るの?」
「ううん。やりかたは人それぞれだから、あれがいいとかこれがいいとか考えたことはない。やりたいようにやればいい。僕は僕のやりたいようにやってる」
「今は短い言葉だけど、浩平さんはこれを伸ばしていくの?」
 僕は少しだけ考えてそれを否定した。
「これは物語の下地っていうのかな。まず漠然とした印象があって、そこから色々なことを連想して、気に入った言葉とか場面を見つけて、そこから一つの話しを作るんだ、僕の場合はね」
 これを聞いた舞子は神妙な面持ちで頷いた。もしかして創作に興味があるのだろうか。
「ねえ舞子。さっき言った通り、一緒に作ろうか」
「うん、それ、ほんとにやってみたい」
「よし、それじゃ、舞子が思いついた場面とか言葉とかを、自由に話してみて」
 舞子はしばし思いを巡らせ、言葉となる発想の端緒を探る。

「夏を売る女の子がいるの」
 と、舞子は話しを始めた。夏を売る女の子? と僕は訊く。
「うん。夏っていうか、夏らしさっていうのかな。蝉の声とか、ギラギラした太陽の光とか、熱くなった道路とか、蜃気楼とか、かき氷なんかも売ってるの。
 街の人は七月が近づいてくると、そのお店で夏らしさを買うんだ。お金持ちの人は暑さも太陽の光も蝉の声も浜辺もスイカも海も、全部買っていく。お金があっても暑さが嫌いな人は、暑さだけ買わないで午前四時半の日の出とか、波の出るプールとかを買っていくの。そういう世界。
 その店をやってる女の子って、本当は夏が大嫌いなんだよ。夏のいろんな所が嫌い。でも女の子は夏を売るしか生きていく術がないから、嫌々ながらそれを続けているんだ。お店を閉めて生活に戻るときは、寝室には絶対に商品を持ち込まないの。たまに、お客さんに売った蝉がうっかり部屋に入ってくることがあるんだけど、そういう時は蝉を殺しちゃうんだ」
 ここまで話すと舞子は「つまらないかな?」と僕を見上げた。僕は舞子の言った夏を売る女の子を想像する。
「どうして蝉を殺すの? 逃すだけじゃだめ?」
「その子は多分、普通の夏を消し去りたいんだよ」
 なるほど、と僕は呟いて舞子の話しをパソコンに入力する。
「このお話、どう思う?」
「うん、面白いと思うよ。けど、一つだけ気になることがある」
「なになに?」
「本当に心底夏が嫌いなら、僕だったら夏の商品をすべて燃やすかなにかしてしまうよ。夏を売るしか生きていけない女の子ならそうはいかないんだろうけどね。他に仕事が無いのなら、生きていくのに必要最低限の収入を得るだけ夏を売る。そうすれば、世界にさほど夏は増えないだろ?」
 僕の言葉を聞いて舞子は頷いた。くだらない指摘ではあるが、こと小説に関しては口を出さずにいられなかった。
 舞子は僕に言われて黙った。それは一瞬の沈黙だったけれど、良い彼氏を演じられなかったのではと僕は焦る。なにか体の良い言葉を差し出さねば、そう思った矢先、舞子は納得したように言った。
「そっか、そうだよね。なんで私、消し去りたいのは夏だって思ったんだろ」
「どういうこと?」
「消し去りたいのって、普通の方だったんだ」
 舞子が言うには、普通の夏を消し去りたいのではなく「普通」そのものを消し去りたいそうだ。これは、普通の恋人関係を求めた舞子にとって皮肉な真意であった。皮肉と言うよりむしろ撞着である。
 なぜ舞子は「自由に話せ」と求められ「普通を消したい」と答えたのだろう。舞子はそのまましばらく考えこんでしまい、当然僕は創作を進められず、壁に空いた十三個の穴を見ていた。


sage