14


 埼玉に着くころには夜となり、空からは細やかな雨が落ちていた。空中を風に吹かれて舞う霧雨が遠くを白く覆っている。駅を抜けて真っ直ぐな通りを見つめると、雨に滲んだ街灯が丸い光の玉をぶら下げていた。蒸す夜だ。
 ファミリーマートでビニール傘を買ってから歩き出す。透明な傘の膜と小さな雨粒がぶつかり小気味よい音を立てている。時折電線から落ちてくる大粒の水滴が雨のリズムをふいに乱した。
 十五分ほど雨の中を歩くと僕の住むアパートが見える。砂利敷きの駐車場にはいくつも大きな水溜りがあった。この雨はしばらく降りつづいているらしい。泥で濁った水面に短命の波紋が揺れていた。そこに映る僕の影は、表情までは見てとれない。
 共同廊下が蛍光灯のくすんだ光でぼんやりと照らされている。蛾や羽虫がその周りを回っていた。コンクリートの上にはちらほら虫の死骸が散らばっていた。今日は掃除をされていないのだろうか。木彫堆朱の貼られたドアを横切り、僕は自室のインターホンを押す。舞子がいるはずである。寂しくなったら僕の部屋に来るように言ってあり、舞子は必ず寂しくなるはずだ。
 まもなく錠が上げられる音がして、ドアの奥から舞子が現れた。抱きしめたい衝動が湧き上がり、僕はそれを何食わぬ顔で押し殺す。まだよそう。ドアが閉まったらその後で。
「ただいま」 
 舞子は驚いた様子で
「もう帰ってきたの?」
 と僕を見上げた。思えば新潟には一泊もしていない。当初は数日間滞在する予定だったが、当てにしていた綾乃があの様子では、僕には宿がないのと同じである。
「もう用事は済んだから」
 舞子はいまひとつ得心していないような顔つきだった。けれども彼女はひとつ頷くとすぐ笑顔になった。
「おかえりなさい」
 と舞子が言う。
「ただいま」
 僕は玄関をくぐるなり、舞子の体を抱き寄せた。心臓が大きく縮みあがり息が止まりそうになる。全身で舞子の体温を味わうのだ。舞子の香りを吸い込むと、脳が溶けてしまいそうな眩暈を感じた。ああ、やはり好きなのだ! 他のどんな女も、抱擁ひとつでこれほど満たしてはくれるものか!
「浩平さん、どうしたの?」
 舞子が僕の胸元に頭をこすりつけながら言った。シャツ越しに舞子の輪郭がはっきりと見える。綺麗な鼻筋、やわらかいくちびる、控えめな頬骨。僕は舞子の頭を撫でる。僕たちは同じことを思っている。単純にくっついていたいだけなのだ。
「会いたくなったんだ」
 僕の胸の中で舞子は微笑んだ。口元がやわく動くのがくすぐったい。
「私も、ちょっとお留守番しただけで、なんだか随分寂しくなっちゃった」
「そう。ご飯とか食べられた?」
 聞くと舞子は固まった。見上げる彼女は困った顔をしていた。端の下がった眉が子どもっぽい。僕はどうしたのかと聞く。舞子は申し訳なさそうに答えた。
「ちょっと失敗」
 僕は舞子の失敗を見て、この日一番よく笑った。皮肉も衒いも無い、愛おしさ由来の哄笑だった。舞子は僕が用意していった食事を皿ごとひっくり返し、洗い場では全ての皿を割っていた。けれども彼女は料理を何一つ残さず、おそらく床に落ちた物さえも、全て食べつくしていたのだ。
「やっぱり駄目だぁ。私、一人じゃ何もできないのかな」
「できるようになるまで僕が一緒にしてあげるよ」
 ふと、雨音が勢いを増した。車軸を下すような大粒の雨が、この部屋に割り入らんと窓を叩いていたけれど、雨ごときでは僕たちを脅かすことなどできない。

「体の調子はどう? オンにしてからもう何日か経っているけど」
 割れた皿を片付けながら、横でコーヒーを淹れる舞子に問う。舞子はマグカップに挿したドリップコーヒーへ慎重に熱湯を注いでいた。
「別になにも変わらないよ。もうずっとオンでもいいのかな?」
「さぁね」
 香ばしい豆の蒸気が空気を彩る。漏斗で弾ける微細な泡が微かな音を鳴らしていた。
「舞子はさ、オンとオフ、どっちで居たい?」
「え?」
 ええと、と僕は口ごもりそのまま黙ってしまった。
「……浩平さんは、どっちの私が好きなの?」
 舞子は僕にコーヒーを渡して訊いた。熱いマグカップを受け取り一口啜る。嚥下すると喉元が火照った。
「舞子は、きっとオンもオフも含めて舞子なんだよ。僕は舞子が好きなだけさ」
 すると舞子が微笑む。彼女もコーヒーを飲み、僕に寄りかかってつぶやいた。小さな声であった。
「私はオンで居たいのかも知れない」
「どうして?」
「えっと」
 この瞬間に、舞子は多くの言葉を飲み込んだことだろう。僕に聞かせるために出た言葉は、気遣いや隠蔽のろ過を終えた判りやすい物となっていた。
「普通の生活ができるから」
「普通の?」
「うん。普通に出かけて、お買い物とか外食とかして、本とか映画とかもじっくり楽しめるし、それと」
 舞子は僕を見る。
「好きな人と一緒に居られそうだから。普通の恋人関係をやれそうだから」
「舞子が普通じゃなくても、僕は一緒にいるつもりだよ」
 舞子は微笑んで、僕のシャツに顔をくっつけた。
「普通の女の子は、例えば好きな人のシャツに知らない女物の香水が染み込んでる時、どんな顔するのかな」
 ランバンのエクラドゥアルページュが舞子を嫉妬に駆り立てる。僕がわざとらしく、ああこれは違うんだと言うと、舞子は不機嫌そうに「馬鹿」と僕から離れた。
「帰ってきたと思ったら、顔は怪我してるし知らない香水の匂いするし、浩平さんって結構浮気性なんだね」
「違うよ舞子、ちょっと話を聞いちゃくれないか」
 舞子は笑った。
「いやよ、信じられない。浮気なんて絶対に許さないわよ」
 僕も笑う。
「ああ、舞子! そんな事言うなよ! 世界で一番愛しているのはキミだけだ!」
 舞子がリビングへと駆けた。僕はこの劇に付き合って、手を伸ばし彼女の背を追う。舞子がわざとらしく差し出した腕を掴み、こちらに引き寄せると、彼女は胸の中で僕を見上げた。
「愛してるって言って」
「愛してるよ」
「もう浮気しないって誓って」
「もう浮気しないって誓うよ」
 舞子は意地悪そうに笑った。
『わたしのこと すき?』
 僕はレインの劇に乗る。
『うん きみのこと すきだ』
『わたしのこと おかしいと思う?』
『だって そこがいいんだなあ』
 舞子が喉を鳴らして微笑んだ。僕はこの劇の続きを思い出す。ええと、この先、なんと言われて、男はなんと答えるのだっけ。
『これでいい?』
 僕は答える。
『うん これでいいよ』
『誓ってくれる? けっしてわたしを置きざりにしないって』
『いつまでだってけっしてきみを置きざりにしないって誓うよ、胸のうえに十字を切るよ、
 そして嘘をつくくらいなら死ねたらと思うよ』
 僕はいよいよこの先を思い出せなくなっていた。たしか、まもなく終わるやりとりのはずである。
 舞子は少しだけ黙った。
『ほんとうに 好き? 好き? 大好き?』
 あ、そうだ。たしかこれだ。
『(無言)』
 舞子は黙る僕を見て苦笑した。僕にはその意味が判らなかった。
「浩平さん、ひどいなぁ」

 舞子は先程、オンなら普通の恋人関係ができるといった。彼女の考える普通の恋人関係とはどのようなものか聞くと、それは映画を見たり食事に行ったりすることだと答えた。清らかな妄想だ。何かの雑誌で読んだような(事実そうなのだろう)表面的な恋人関係である。けれど僕は彼女の望みを叶えようと思う。もしそれが上っ面をなぞるだけの愚行だとしても、もはやそれに意味をもたせるのは僕達なのだから。
 僕は異常な舞子を選んだが、皮肉にも彼女は普通でいることを望んでいるのだ。ありふれていて、ともすればその価値を見失いそうな平静な日常は、思考の散漫と自己の散開にとりつかれた舞子から見たら、常に手の届かぬ所で光り輝いていたのだろう。それならば、舞子一人で獲得できないのならば、僕が彼女の手を引いてそこに連れていきたいと思うのだ。
 僕は舞子に映画を見ようと提案した。僕の部屋にある数少ない映画のパッケージから、極力恋人同士が見そうな物を選んだ。
「それどんな映画?」
「アメリカの映画だよ。メグ・ライアンが出てる恋愛モノ」
「おもしろそう!」
「どうかな。言っちゃなんだけど、映画としてはつまらないんだこの作品。でもね、大好きなシーンが一つだけあるから、そこまで一緒に見ようよ」
「すてき。どんな内容だっていいの。私、ゆっくり映画を見たことないんだもの」
 僕と舞子はソファに腰掛け、新しいコーヒーを飲みながらテレビに向かった。隣り合った僕達は、触れるか触れないかの距離を保っている。どちらかが姿勢を正せば腕が触れて、そしてすぐに離れる。
 映画の内容はタイムスリップと恋愛を混ぜたものだ。舞台はニューヨークで、仕事に疲れたキャリアウーマンが主人公である。ある日、主人公のもとへ男が現れる。彼は十九世紀のニューヨークからタイムスリップしてきた公爵なのだ。公爵は実に紳士で、主人公へ優しく接し、家事を手伝い、危機を救い(白馬に乗って現れるのだ!)、主人公へ謝罪の手紙を書いてみたり、仕事で役に立ったりする。途中、主人公が公爵に惚れる理由が曖昧なところもあるが、全体を通して落ち着いて見られる作品だ。
 とりわけ僕が好きなのは、主人公が疲れてベッドに横たわっているところに公爵が添い寝し、彼女を寝かしつける場面である。その際、主人公は公爵に聞く。『寝かせてくれるの?』と。
「あ、なんか今のところ好き」
 舞子が出し抜けに言ったのは、僕の好きな場面が流れた時だった。僕は大きく頷き舞子に同意する。
「僕が好きなのもこのシーンなんだよ」
「なんでこんなに素敵なんだろう?」
「そうだな。主人公は知ってるのさ。こういう時に男が……」
 僕は言葉を飲んだ。
「いや、やめよう。あまりとやかく言わないほうが楽しめる」
「そう? なんか映画を見て色々言うのって、恋人っぽいと思うな」
 舞子が手の甲を僕の手に当てた。僕は舞子の手を握る。
「ドキドキするね」
 舞子も指を絡め、それから僕達は他愛もない指摘を映画に加えながらエンドロールを見送った。舞子は映画が終わると満足そうに嘆息して、僕にありがとうと言った。
「眠くなったね」
 僕の言葉に舞子が頷く。僕達は寝間着に着替えてベッドに潜り込み、冷房の風を受けながら一度キスをした。

 温かい布団を纏いお互いの体へささやかに触れる。寝巻きの生地とその向こうに潜む肌の弾力が指先に伝わった。僕達は触れ合っているけれど、それは存在を確かめるような拙い接触だった。僕の手には、舞子の乳房も首筋も腹部も、みな平等な価値を持ってもたらされていた。舞子は時々恐れるような躊躇うような手つきで、満遍なく僕へと触れる。二人は少しも喘ぐことはなかった。
 時折、僕の手が舞子の性感をなぞることがあったけれど、すると彼女はくすぐったそうに笑うだけにとどまった。僕もすぐに手を逸らし、暗闇で潤む舞子の瞳を見つめる。それだけで何もかもが満たされた。それ以上はなにも要らなかった。舞子の体に触れることと、舞子の全てに触れることは一つの動作で完結したのだ。彼女を撫で、彼女に撫でられ、そして見つめ合い、笑う。それが僕達の、今最も求めている接触なのだ。
 僕達は触れ合いの隙間で短躯な言葉をやりとりした。それは人に聞かせるにはあまりにもつまらない会話だ。だから僕は、この時に交わされた雑多な言葉を誰かに教えるつもりはないし、誰にも教えないまま忘れたいと思う。
 舞子が僕の愛撫にまどろむ。目を閉じ、僕の手を握り、舞子はつぶやいた。
「寝かせてくれるの?」
 僕は舞子の髪を手で梳いた。
「ねぇ、浩平さん。明日、なにしようか」
「うん。舞子のしたいことしよう」
「そっかぁ、そうだなぁ、私ねぇ、一緒にお料理したいな」
「いいよ、料理しよう」
「恋人っぽい?」
 僕はふいに泣きそうになった。哀れに思ったのだ。恋人らしさにすがり、普通らしさを追い、そこへ辿りつけない舞子を不憫に感じたのだ。憐憫を源に、様々な慰めや同情が口をついて零れそうになる。けれど、僕は言わない。弱った人間になら、とても優しくできるから。
「まだまだ恋人っぽさが足りないね。明日はもっと、恋人しよう」
 舞子は嬉しそうに唸って、まもなく小さな寝息を立てた。
 おやすみ舞子。

 この晩、僕が舞子の寝言を聞き取れていたら、あるいは本当に幸せになれたのかもしれない。僕が目を開くと、舞子はもう何も言わなくなり、安眠の静謐に沈んでいた。


sage