13


 綾乃の部屋で荷物をまとめる。新潟に来てからデイパックは開けていないので確認の必要も無いが、僕はどうしても舞子のスイッチを見たくなった。手のひらに収まるそれは、一見すれば照明のリモコンのようなありふれた形状である。中央部にスイッチがあるだけの簡素な形状だというのに、そこに込められている意味はとてつもなく大きい。
 ソファの生地が硬い音をたてた。綾乃が目を覚まし僕をぼんやりと見つめていた。
「帰るの?」
「ええ。もう新潟に用はありませんから」
「まだ日も暮れてないのに。ゆっくりしていきなよ」
 僕は首を振った。
「待って」
 綾乃がおぼつかない足取りで僕の傍へ来た。ランバンの香りが微かに届く。
「用事があるんです」
 僕は綾乃から目を逸らす。綾乃はとても悲しそうに眉を下げた。
「さみしいよ」
 笑いそうになった。綾乃はさみしさを僕にぶつけたいのだろうか。それは人にぶつければ消えるものなのだろうか。
「新しい彼氏でも作ればいい」
 綾乃に背を向けると、彼女は何事か声を漏らし、僕の背にしがみ付いた。
「おねがい、ちょっと待って」
「なんなんですか?」
「エッチしようよ」
 直接的な誘いに僕は動作を失った。背後で綾乃が唾を飲む音が聞こえた。
「なにを、言ってるんですか。そんなんだからビッチって言われるんですよ」
 綾乃が僕の腰に手を回し、背中に一双の乳房を押し付けた。その柔和な感触に僕の背中が鋭敏な感覚器官として機能する。綾乃の下着越しに乳首の屹立まで感じられるほど、僕達は密着していた。実際の所それは下着の生地なのだろうけれど、女と触れ合うと男は布越しに裸を感じられるのだ。
「いいよ、別にそれはいいんだけどさ。でも、ごめん、やっぱり私、ダメなんだ」
「何がですか」
「どうしても人恋しくなる」
「人恋しくなったらセックスするんですか?」
「セックスを知ってるから人恋しさが酷いんだよ」
 その言葉に僕は少しだけ納得した。一度知ると失ったとき辛い。喪失は獲得が前提にある。持たないものを失うことはないし、知らないことを忘れるはずが無い。その存在を知っているから不在の空虚があるのだ。
「綾乃さんとはしたくありませんよ」
「なんで?」
 綾乃が僕のシャツに手をいれ腹部を撫でた。冷房のせいか冷たくなった指先が皮膚をすべっている。
「好きな人がいるんです」
 綾乃の手が止まった。けれど彼女は鼻をすするとまたぞろ五指を動かし、僕の腿の内側まで滑らせた。
「彼女?」
「違います」
「じゃあ、今してもなんの問題もないじゃん」
「そうだとしても、嫌なんですよ」
 へえ、と彼女は笑った。
「でも勃ってる」
 綾乃が僕を掴んだ。思わず背筋が伸びる。綾乃は僕の背後で蠢き、乳房をこちらに押し付け動かした。耳元に熱い息がかかる。甘い香水の香りが鼻を撫でる。綾乃は手を動かすのを止めない。僕はそれでも、綾乃とセックスなんてしたくないのだ。
「やめてください。こんなの普通じゃない」
「私は普通だよ。すごく普通」
「普通の人はこんなことしません」
 あは、と綾乃は笑った。
「浩平くんの好きな人って、普通の人なの?」
 僕は答えられない。舞子が普通かどうかなんて考えるまでも無い。
「ねえ浩平くん。人間にとって普通ってのは、どこかがおかしいってことなんだよ」
 僕の沈黙を無視して綾乃は続けた。
「みんなどこかおかしい。みんなどこか壊れてる。だから変で普通なの」
「詭弁ですよ」
「小説書く人間なら他人を眺めなよ。みんなどこかしらクズよ」
 綾乃が僕のベルトを外した。ジーンズがずらされ、下着の上から性器を撫でられる。綾乃は僕を掴んでそれを擦った。
「私は、確かにこうやってすぐセックスしちゃうけど、それ以外は普通に生きてるよ。仕事も趣味もあるし、人付き合いだってそつなくこなせる。お料理だって上手いんだよ。掃除も洗濯もできる」
 僕は寄せる快感の波に打たれながら舞子を思った。舞子は、仕事も趣味も無く、人付き合いはできず、料理も掃除も洗濯もこなせない。探せば探すほど彼女には欠点がある。
「私みたいな女、けっこう良いと思うけどな。私のセックスを受け持ってくれれば」
 綾乃は僕の性器に直接触れた。そして、淀みなく言う。
「ふつうの生活とふつうの幸せがあるのに」
 僕は体を綾乃に向けた。綾乃は頬を染めて、微かに息を乱れさせていた。唇がすこしだけ赤みを増している。潤んだ瞳に僕の影が見えた。
「浩平くんの好きな人は、どんな子なの?」
 戸惑う。舞子について説明しろといわれて、それは端的に伝えられるものではない。例えば人は誰かを紹介するとき、その印象をいい人であるとか不真面目であるとか、漠然とした言葉から入ることが多々あるが、しかし舞子をそのように言い表すのは難しい。僕はどうしても良い言葉を見つけられなかった。その思索の隙に綾乃は僕の下着を下ろした。
「答えなさいよ」
 そうして綾乃は僕を咥えた。口内の粘液が絡みつき、溢れ、床へこぼれた。射精の予感が根元から這い上がる。
 ああ、これは確かに普通のセックスだ。
 僕は綾乃の頭を掴み、喉下まで性器を押し当てた。綾乃の嗚咽がこもって聞こえる。喉の奥の肉は固く、その粘液は唾液よりもねばっていた。何度か頭を揺すると綾乃は悲痛に喘ぎ、僕に内在する加害の欲望を掻きたてた。唾液はとめどなく溢れ綾乃の喉をつたっている。乱れた髪と紅潮した頬に涙ぐんだ瞳が映える。綾乃は咳き込み、僕から逃れようとするが、髪を掴みこちらへ引き寄せるといやらしい声を上げて従った。
 程なく僕は射精した。その瞬間、綾乃は僕を抱き寄せた。
 性器を口から外すと、途端に綾乃は激しく咳き込み精液をこぼした。豊満な胸元が唾液で薄まった精液に犯される。綾乃はしばらく嘔吐するのを我慢するかのように咳をして、それから荒い息のまま僕を非難した。
「ひどい」
 僕も乱れた呼吸を整える。座り込んだ綾乃は呆然としながら僕を見上げていた。その無様な姿に思わず笑ってしまう。
「綾乃さん」
「なにさ」
「僕はこの前、好きな人にフェラチオされたんですけど、いけなかったんですよ。それはね、綾乃さん、彼女が下手だからとかではなくて、その瞬間だけは完全に性欲なんて無くなってたからなんです。フェラチオされて、僕は勃起してたのに、それでも性欲は消え去ってた」
「なにが言いたいの」
「綾乃さんの口の中は実に扇情的だった。ありふれていて、わかりやすいセックスをできる人なんだと思います。
 あなたは例えば、男に抱かれているとき何を感じていますか。自分に割り込んできた他人の体の一部と、その摩擦で熱を持つ自身だけを見ていますか。僕は今、あなたの事をただの口としか見ていなかった」
 なにそれ、と綾乃が声を震わせた。
「ただの口が相手なら、こちらの気が滅入っていようが体調が悪かろうが、そんなもの関係なしに体だけで射精できるんですよ。でも僕は、好きな人と触れ合ったときに、肉体の快楽よりも精神の苦痛のほうが目立ってしまった」
 僕はベルトを締めてデイパックを担いだ。
「僕の好きな子は普通じゃありません。多分、綾乃さんみたいな人を好きになったほうが、ふつうの幸せってのが手に入ると思います。それくらいなら、わかります」
 綾乃は僕の言葉を理解した。そして、さめざめとした声色で言うのだ。
「普通じゃない方を選ぶんだね」
 僕は笑う。
「あなたはハナから選択肢にすらない」
 クズ野郎、と背後から聞こえて、僕はドアを抜けた。

 ◇

 帰ろう。そこが普通じゃなくて、幸せじゃないとしても。

 長岡駅で予定と違った新幹線に乗り込み自由席へ腰掛ける。時はまだ夕刻であった。野辺が斜陽に染まり、新潟は赤色に沈む。
 携帯電話が一声むっ、と鳴動した。綾乃からのメールだった。
 そこには次のように書かれていた。

「さっきはごめんなさい。
 本当の事を言うと、浩平くんのことが少しだけ好きです。保則が死んで、私は取り残されて、ずっと寂しかったのをわかって欲しい。きみはきっと、穴を埋めたいだけだと言うのだろうけれど、それも恋愛の形だと思うから、私は気にしません。
 浩平くんに好きな人がいて、その人が普通じゃないというのはわかりました。普通じゃないというのが、どの程度普通じゃないのかはわかんないけど。でも、さっき私が言ったとおり、普通じゃないのが人間の普通だと思います。
 などとまぁ、ごちゃごちゃ書きたいけど、私はめんどくさい女にはなりたくないのでおしまいね! 浩平くんが好きな人と幸せになれたらいいなと思います。
 
 追伸
 さっきされた乱暴な事は死ぬまで忘れません。いつかまたしたくなったら、今度は優しくしてください。なんちて」

 僕はこのくだらない文面を三度読み、返信することなく削除した。
 なるほど、小沢綾乃は普通の女なのだ。反省と己の弁護を一緒くたにし、謝罪と見せかけて行為を肯定し、そして醜くすがり付いてくる。少しだけ可愛らしくて、救いようも無く愚かしい。
 新幹線が滑るように加速する。新潟は僕に可能性を示してくれた。保則の墓参りだけが目的だった僕にとって、これは思わぬ贈り物であった。普通を選んだ後の生活、あるいはその逆の末路。僕はふと思いつく。保則があの日波打ち際で冷静になり、酩酊して泳ぐことの危険を予測していたのなら、もしかして。
 いや、やめよう。
 景色が背後に吸い込まれて消える。僕はレールの上をひたすらに流れる。
 僕は舞子を、異常を選ぶことにした。
 殴られ切れた口の端が痛んだ。


sage