12


 綾乃は僕を殴ったことを一言だけ謝って墓前で吐いた。影虎の鯨飲は彼女の胃に収まりきらなかったようだ。保則の墓は、僕の血と綾乃の吐瀉物の無残な供物に輝いていた。臭くてたまらない。
 僕は実家に泊まるつもりはなかった。墓参りが終わったら早々にアパートへ戻るつもりで新潟へきたのだ。実家へ帰ると、やれ成績がどうだの就職がどうだの、ひたすらに未来について説かれて気が滅入る。だから僕は綾乃の部屋に泊まることにした。綾乃は帰路、ビュイックを二度ガードレールに擦った。
 綾乃の居室はいわゆるテラスハウスで、一階に十二畳のリビングと対面式キッチンや水周りが広々と配置され、二階には六畳と八畳の洋室がある。長岡駅から徒歩で十五分ほどのこの物件は、立地と広さに反して値段が安いのだと綾乃は言った。
「それにしても一人でこの部屋数は多いでしょう?」
「一人ならね」
 僕はリビングに荷物を置く。綾乃はカーテンを閉じ冷房をつけた。
「えらい意味深ですね」
「意味も何も同棲が終わったんだよ」
 冷房からかび臭く乾いた風がこぼれてきた。
「ああ、それは、なんというかご愁傷様です」
 すると綾乃は笑った。彼女は絆創膏を取り出して、僕をソファに手招きする。
「長続きしなくてさあ。そんなつもりは無いんだけど、色んな男の人が私の上を通り過ぎていく。酷いときは同時に何人かが私に乗ってる」
 絆創膏が切れた左頬に宛がわれた。少しだけ痛む。
「ポーリーなんですね」
「なに? 別にクラッカーは欲しくないよ」
「いえ、ポリアモリー」
 綾乃は判然としないといった様子で音楽を鳴らした。ネヴァーマインド。
「なにそれ」
「セックスを色んな人としてもいいのに、って考え方ですよざっくり言うと」
「それはひどいね」
 ハロー、ハロー、ハロー、ハウロウ?
 スピーカーから枯れた声と死んだ木の音が流れる。そのタイミングに僕達は思わず笑った。綾乃といると随分自然に笑えてしまう。
「けれど、そういった考え方の人もいる」
「形にとらわれないってやつ? 私はそれ?」
 ソファに背中を沈めると、僕の右腕が綾乃の左腕に触れた。
「それはわかりませんよ。でもヤリマンって言われるよりかっこいいでしょ」
「ビッチって言われたほうが私は気楽だな」
 綾乃からアルコールの臭いが漂う。ランバンの甘く粉っぽい匂いと酒の悪臭が、綾乃という人物の両端を仄めかす。僕は興味本位で綾乃に問うた。
「ビッチって言われる人は、どうしてそんなにバコバコとセックスできるんですか?」
 綾乃は小声で「ビッチじゃねーし」と文句を言って、僕の肩に頭を乗せた。ビッチめ。
「なんだろねー。線引きが甘いんだろうね」
「線引きというと?」
「ここからが友達、ここからは恋人。恋人なら、ここから先の行為もできる……そんな線引きをしてるじゃない、普通はさ。
 でもねえ、私たちファッキンビッチはさ、いや私はビッチじゃないけどさ、その線引きをしたとしても、ほとんど効力がないんだよ。いざ二人きりになって、こんな風にソファでくっついて、ぐだぐだ喋くりながら手とか握っちゃうと、ああこの人になら抱かれてもいいやぁってなるのね」
 僕は何度か頷く。綾乃が手を握ってきたけれど、僕は右手を動かさない。
「なるほど、すこぶるビッチですね。そういうのって死にたくなりませんか?」
「死ねない程度に死にたくはなるよ、そりゃね」
 綾乃の語調は鼻にかかって甘く、まだ体内に影虎の影響が残っていることが知れる。
「ああもう、どうして私はこうなっちゃうの! ってイビキかいてる男の隣で思うけどさ。本当は私はこんな事したいんじゃなくて、きっとちょっとした触れ合いとかが欲しかっただけなんだ! って言い訳するけどさ」
 綾乃が僕の太ももを撫でた。僕はそれを無視する。
「でもね、結局知ることになるんだよ。セックスしたい自分も、セックスなんてしたくない自分も、どっちも本当の自分なんだって」
 どちらも本当の自分。相反するものが等しい。
 これは、なんだろう、ええと……!
 あ、そうか。
「連続性だ」
 は? と綾乃が僕を見る。僕は綾乃を見ずに続ける。
 舞子の顔が頭をめぐる。オンとオフ。
 オンとオフ?
「綾乃さんの考えは、状態として相反しているけれど、発想としては連続している」
「え、いや何言ってんの?」
「セックスしたくない状態からなにかしら過程を経てセックスしたい状態になっているんですよね?」
 綾乃は怪訝な表情で頷いた。彼女はまだ僕の腿をさすっている。
「したい状態としたくない状態というのは真逆だけれど、欲望や感情といった分類の中では連続している。一つの輪みたいなものだ。例えば四季が中立的でわかりやすいんですけど、夏と冬はまったく逆の気候ですが、四季という循環の中で見れば連続している。ここまでわかりますよね?」
「うん? いや、わかるけどさ、私の話聞いてた? 私がなんで今きみの太もも撫でてるかわかる? 私が今、したいこと、わかるでしょ?」
「うるせえなファッキンビッチが豚とやってろ」
 綾乃は閉口した。僕は彼女の欲望なんて気にしない。
 僕は僕のために、自身の直感を把握するために言葉を止めない。
「こんな風に、あらゆるものが連続性を持って存在しているとします。それは人間にも、ひいては生物全てにも当てはまります。空腹と満腹は対極ですが、食事という架け橋で結ばれますよね。綾乃さんが好きなセックスなら、欲情と無気力は対極ですが、性交が途中に挟まれば連続性を持って成立する」
 綾乃はつまらなそうに僕の肩に寄りかかった。僕は無視を続ける。
「さて、ここで人間に限定した話をしましょう」
「はいはいなんですか」
 彼女はまるで興味が無い。
「綾乃さん、自分自身をこのように三つに区切って考えてください。満腹の状態、空腹の状態、そのどちらでもない丁度良い状態。これらは連続性のある状態です。
 それでは次にイメージしてください。あなたは今、満腹でも空腹でもない丁度良い状態にいて、今後二度と空腹にはならない。あなたはこの状態を想像できますか?」
 綾乃は少し思索の色を見せてから答える。
「できるね。今丁度おなか減ってないけど、ようするにこれがずっとつづくんでしょ?」
「そうです。ということは、綾乃さん、あなたは同時に空腹の自分も想像できますね?」
「そりゃね。おなか減ることなんてしょっちゅうだもん」
「すばらしいですよ」
 綾乃がえへ、と笑った。
「最後の質問です。二度と空腹にならない状態にあるとしたら、空腹の自分が再びこの世に現れる可能性はありますか?」
「ないね。もう二度とおなかが減らない体になれば、おなかが減ってる自分なんて存在しようがないじゃん」
「その通り。空腹の自分がこの世から消えたことと、二度と現れないことを知った事になる」
 何言ってるの? と、綾乃は言う。
 僕は答える。

「それが死の自覚です」
 

 綾乃にした話を保則に置き換えるとこうなる。
 八子保則は死んだが、自分が死んだことを自覚していない。より正確に表現するなら、保則は自身の死を自覚することができない。自分が死んだことを自覚するには、死んだ自分を観測する自分が必要となり、生物はこの条件を満たすことが不可能である。
 自身の死を観測する自分は生きている必要がある。しかし自身の死という現象の発生は生の終わりであり、生が終われば観測者としての自分も終わるのである。このような事態が発生するのは、人間が連続性の上に存在しているからだ。生の後に死が訪れ、二つは同時に発生しない。
 観測者がいる状態では死が発生しないし、死が発生した状態だと観測者がいない。よって、人は自身の死を自覚できない。これは人に限らず、生物における不変の法則である。これは生物にまつわるいくつかの学問で以前から言われ続けている考えだ。
 また、死が連続性を途絶えさせることも大きな一因となる。先ほど僕が綾乃にした空腹の例え話では、綾乃が食事をすれば空腹の状態を脱し、満たされた状態となり、しばらく経てばまた空腹の状態になり……と状態の反復が可能となる。それにより、空腹という状態の認識と観測が可能だが、死の自覚についてはそうはいかない。
 死が訪れたらそこが全ての終わりとなるのだ。その後に意識が続かないので、認識も観測もできない。それまで輪として廻っていたあらゆる事象が断裂し、一つの直線として完結する。
 では、死を自覚するにはどうすれば良いのか。
 それには自身の重複と死後の継続が条件となる。自分が二人いれば死を自覚できるということだ。一つの生物としての連続性を維持したまま、自分が平行して二人存在すれば、片一方の死を片一方の生で観測できる。死んだ自分と、それを観測しながら生きる自分(死後も継続する自分)がいれば良いのだ。
 しかし自分はこの世に一人しかいない。もし、クローン技術か何かのお陰で自分とまったく同じ肉体があり、脳さえも一つも違えず同じ反応をしたとしても、それはまったく同じ反応をする別物なのだ。なぜなら、物体として完全に同じだとしても、意識はそれぞれが持つ占有物であり、両者の間で意識の共有がされていないことがその理由である。よって、物体として同じ二人の人間でさえ、完全に同じ人間になることはありえない。
 それでは自分が二人いる状態とは何かというと、それは同時に自分が一人しかいない状態でもあるのだ。
 一つの肉体とそれにまつわる一つの連続性の上に、連続性を共有する別の自分が存在すればよい。しかしこれでは、一つしかない肉体の死と同時に内在する二人の自分も死んでしまうので、肉体が死滅しない死が新たに必要な条件となる。
 解離性同一性障害(多重人格)の治療がそれに近い。解離性同一性障害とは一つの肉体に別の人格が複数存在する状態のことである。詳しい方法については省くが、複数存在する人格を最終的に一つに統合することが治療とされている。つまり、一つの肉体に存在していた複数の人格を消すのだ。肉体は消えないが、人格は消える。これはその人格の死とも取れる。
 しかし解離性同一性障害は、何かしらの原因によって耐え難い精神的苦痛を受け、保身のためにその記憶や苦痛を切り離し、忘れさせたり認知できなくしたりする反応である。つまり、ある人格が知らないことを別の人格は知っているという状態が成立する。これは、完全な意識の共有ではない。連続性がないとも言えるのだ。とある人格が別の人格の死(あるいは統合)を知ったとしても、それは自分の死とは別物になるのである。僕が保則の死体を見たのと根本的に変わらない。よって、この場合にも自分の死を知ることはできない。
 では、連続性を持った別の自分とは何か。自分と同じ体を持ち自分と同じ経験をしてきた自分とは違うもの。そのようなものは存在しないとされても仕方が無い。事実、そんなものこの世に存在しなかったのだ。
 自分は一人しかいないし、死んだ後に生きていくことなど、ありえないのだ。
 生物は自己の死を認識できないのだ。

 けれど舞子にはそれができる。

 僕は石地万代の言葉を思い出した。
『私はオフの舞子を殺したいのだよ』
 この言葉は額面通りの意味なのだ。オフの舞子は死ぬ。そして、残った舞子は、オフの死を自覚することになる。オンとオフとその中間の舞子は、一つの連続した状態である。スイッチをオフにして、グレーの状態となり、そこから再び蝉を壁に貼り付けた舞子へと変わっていくことが、彼女の連続性を物語っている。
 舞子の中からオフの舞子が消えたら手遅れだ。
 舞子が生物の法則から外れてしまう。
 それは、もはや生物ではない。
 舞子が、僕の好きな舞子が、人間でなくなってしまう!

 見ると綾乃は静かに寝息をたてていた。僕の話がよほどつまらなかったのだろう。あるいは影虎の梅酒が眠気を運んできたか。それは僕には関係ない。
 ここで寝ている女など放置だ。
 まだ日は暮れていない。
 舞子のところへ帰らなくては。


sage