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 僕と綾乃はそれぞれ一口ずつ影虎の梅酒を飲んだ。丁度良い椀などあるはずもないので、瓶から直接喉へ流し込むようにした。
 影虎は旨い酒だ。米の明瞭な輪郭から滲み広がる男性めいた逞しい気品と、そこへたおやかに寄り添う梅の実は色気に満ち、ともすれば円熟した夫婦にまつわる慕情の軌跡さえうかがい知れるほどにその味は雄弁である。
 保則はこの酒を好んで呑んだ。高校生の時分といえばビールに焼酎あるいはウオッカベースの甘いカクテルなどが定石だが、保則はそういった席にさえ影虎を持ち込んだ。僕は清酒といえば、辛く嚥下すら難しいという印象を持っていたので、この梅酒はまったくの予想外だったことを覚えている。
「本当のこと教えてよ」
 出し抜けに綾乃が言った。
「本当のことってなんですか?」
「保則が死んだ本当の理由」
 僕には綾乃の言っている意味がくみ取れなかった。綾乃は知っているはずだ。保則の最期を教えたのは僕なのだから。
「いや、何を言ってるんですか。言ったとおりですよ」
 ありふれた溺死である。
 三年前の夏の日。日差しが浜辺を焼く午後。酔いの回った僕と保則はレジャーシートに寝そべり帰り道の面倒を憂えていた。酒を呑み、スイカを齧り、また寝そべる。このような怠惰な海水浴を楽しんでいた。
 するとふいに、保則が沖の人影を凝視した。僕が保則の視線を追うや否や、彼は卒然と跳ねるように立ち上がり「溺れてる!」と叫んだ。
 沖合いで溺れかけていたのは母子だった。後になって話を聞くと、子どもに浮き輪を抱かせ、母親はそれにしがみ付き沖合いへ泳いで行ったようだ。すると母親の足が突然の痙攣をはじめ、動転した母が浮き輪にしがみ付いたが、その拍子に子どもが浮き輪から外れてしまったという。母親は動かぬ足のまま子を掬いあげたが、しかしまともに姿勢を保てず海へ引きずりこまれそうになった。その母子があげる水しぶきを見つけた保則は、果敢にも愚かにも、酩酊ともとれる状態のまま海へ駆けていったのだ。
 果たして母子は自力で手放した浮き輪を取り戻し助かった。悲しいかな、救助へ向かった保則は、母子のもとへ辿り着いたのかどうかもわからぬままに、海の底へ沈み込んで翌日の朝まで浮かんで来なかった。
 そう、ありふれた溺死なのである。
 僕は事の顛末を余すところ無く綾乃に伝えたはずであるが、彼女はいったい何を言いたいのだろうか。
「本当に、本当に保則がそんなことで死んだの?」
「意味がわかりません」
 綾乃は影虎を一口胃に流すと、浅く息を吐いて言った。
「自殺なんじゃないの。本当はどういう死に方したの」
 すると綾乃は墓石に背を向け座り込んだ。頭を垂れ、苔の生した小石に視線を落としている。僕は綾乃の、茶色が抜け始めた頭頂部を見下す。
「なんでそんなくだらない事を思いついたんですか? ものすごく鬱陶しい」
「だって」
 綾乃は地面に向かって話し始めた。
 とても苛立つ。
 そうやって、人の目を見ずに生きたいのなら、土と友達になりやがれ。
「だってさ、保則が人のために命を危険に晒すなんて考えられない。あの人、優しそうでいて優しくないの、浩平くんも知ってるでしょ?」
 僕は答えない。
「さっき浩平くん言ったじゃん、保則は誰も愛していないって。その通りなんだよ。保則は、あいつは、誰にでも優しい素振りで関われるけれど、内心他人なんてどうでもいいって思ってる」
「ああ、なるほど」
 と、僕は影虎を呑む。食道が熱を持ち胃壁がうねった。
「普段は優しそうな態度だけれど、内心では自分を一番大切に思っている。人付き合いは問題なくできるが、その裏では孤独でいる事を好む。場合によっては夜通しの乱痴気騒ぎもできる。けれど静かに物思いに耽ることもある。人から悩みを打ち明けられたら親身になって答えるが、しかし自分から相談を持ちかけることは少ない。恋人ができたとしても全てを曝け出すことはできない。それが、八子保則だと言いたいんですね」
 綾乃は首肯を繰り返していた。
 僕は笑った。
「綾乃さん占いとか信じるでしょう。バーナム効果なんて今時糞みたいな小説でしか語られない。ご存知でしょうけれど、バーナム効果っていうのは誰にでも当てはまることを言われると、言われた当人は自分自身にのみ該当する事を言われたと思い込むことです」
「うっざ。そんなんドヤ顔で言われなくても知ってる」
「うざいのは綾乃さんですよ。あなたの今語った保則は、保則であって保則じゃない。保則の表面ですらない。大雑把に保則をそこらへんに腐るほど居る人間と同じに見ているだけです。本で言う装丁です。音楽で言うコード進行です。そういったのは、ささやかな個性こそあれ、概ねおんなじような物ですよ」
「その遠まわしな言い方もうざいね」
「小説はそこそこなのに貧相な語彙ですね」
 僕は何を苛立っているのだろうか。
「誰にでも優しい素振りだけれど内心他人なんてどうでも良いと思ってる? あなたが保則に抱いている印象はそれだけですか? そんなもん全人類がそうでしょうよ。自分が一番。なによりも自分が一番。自分を守るために他人を殺して、自分を取り繕うために他人を貶して、自分を安定させるために他人を揺るがすんですよ」
 ああ、本当に、何を苛立っているんだ。
「それが! それが人間の基礎でしょう?」
「そうかもね」と無感動に綾乃は言う。
 この無感動が僕を恐れさせる。自分の言葉が相手に影響しない恐怖。自分の存在が一粒の雨のように思えてくる。
 けれど僕は、怖がって震える心臓を隠し、ひたすらに語気を強めた。
「保則だってそうですよ。僕だってそうです。ただ、保則は、あいつはそれでも、他人を助けようとして死んだんだ。それを疑うなよ! あんた保則のこと好きだったんだろ! だったらあいつの最期をさ! 最期の行動をさ! 死に方だなんて言うなよ生き方って言ってやれよ! 信じてやればいいじゃないか!」
 息が上がった。苦しい。綾乃を見る。綾乃は僕を見ていた。
「すごいね、浩平くん。すごく、強いのね」
 綾乃は笑顔だった。
 僕の手から影虎の瓶が奪われる。
「今言ったのは信念? 浩平くんの生き方?」
 綾乃が影虎に残った酒を一度に飲み干した。一升瓶の半分以上それは残っているのに。
 僕は戦慄する。綾乃の胃に落ちる保則の面影を見て戦慄する。
「浩平くんさ、そうは言っても、きみの言葉は本心なの?」
「それは……どういう、意味ですか」
「きみさ、今さ、すごく立派なこと喚き散らしたけどさ、それって本当に思っていることなの? ただなんとなく、この場の雰囲気に合わせて出てきた言葉なんじゃないの?」
 僕は動けなくなった。あれ? 僕は、ええと……。
「信じるとか、生き方とか、そういうのはさ、常日頃から一生懸命に信じて精一杯生きている人が使うべき言葉なんじゃないの? あなたみたいな厭世家ぶって批判から入る人間が、そんな素敵な言葉を使ったって」
 綾乃が影虎の瓶を振りかぶった。
「誰にも響かねえんだよ」
 空になった瓶は僕の頬に炸裂した。
 この糞女!
 僕は口内に溢れる血を吐き(保則の墓石にかかった。ごめん保則)綾乃の襟元を掴む。僕が大声を出すと、綾乃の白いシャツに血の斑が浮かんだ。
「うるせえな糞ったれ! 無駄なんだよ! こんなこと言い合ったって無駄なんだ!」
「なにがよシニカル糞野郎。キモイなぁ急にキレて」
 綾乃が僕の股間を膝で叩き潰した。
 ああ痛え吐きそうだ。
「保則は僕が言ったとおりに死んだ! もし別の理由があってもそんな事は知らない! でも助けようとしてたのはわかる! 僕にはそれしかわからないんだよ」
「だからそれがどうしたって言うの」
 綾乃が僕の鼻に頭突きを入れる。軟骨が潰れて粘度の高い血液が垂れてきた。
「死んじまったらそれっきりだろ! 僕達はそこまでの思い出だけで死人を語るべきなんだ! 後になって、あいつは良い奴だとか勇気があるとか誇らしいとか! そんな言葉でありがたく死んだことを演出するんじゃねえよ!」
 綾乃は僕を見ている。僕は涙で何も見えない。
「凄いじゃないか保則は! あいつは自分の衝動に従って死んだんだ。ちゃんと死んだんだ。ぐずぐず生きてないで死んだんだ。だから、だから、綾乃さん」
 綾乃はもう僕を抱きしめていた。
 そういえば僕は、高校生の頃、彼女を好きだったんだ。
 今はもう、ものすごく嫌いだけれども。
「綾乃さん、保則はちゃんと生きてちゃんと死んだんです。僕は、これしか言えない」
「うん、それで?」
「……それがすごく悔しい」
「くだらないなあ、浩平くんは」
 綾乃は僕を強く抱き、小さな手で頭を撫でた。
「悲しいなら悲しいって言えばいいのに。変に言葉を並べ立てて、遠まわしにしていくうちに、どんどん本質からそれていくんだ。浩平くんの書く小説が実はものすごく下手な理由も、きっとそれね」
 綾乃の体は底抜けに柔らかかった。言葉に絡む棘の気配とは裏腹に、ひたすらにやわい。
「性格悪いですね。綾乃さんみたいな人が死ねばいいのに」
「うーわ酷い。なにその発言。優しくないなぁ」
「僕は弱った人間にしかやさしくできません」
「それは浩平くんが持ってる才能の中で一番くだらなくて一番かっこいいよ」
 綾乃が僕を撫でる。
 これだからこの人は嫌だ。厳しさと優しさを黄金比で混ぜやがる。
「死んでくれたら僕が華やかに語ってあげますよ。小沢綾乃はすごくいい女だったって」
 僕は笑わなかったけれど、綾乃は小さく笑った。
「遠慮するよ。だって、どんなに褒められても死んだ後のことなんてわからないんだもの」
 そして綾乃は、僕の頬を撫で、切れた唇に指を這わせて血を拭い、僕にすら聞こえないような声で呟いた。
「そうか、そうね、死んだことなんて本人はわかってないんだよね」
 

 綾乃に抱きしめられながら、保則の居ない墓地で、僕はいよいよ確信した。
 自分が死んだことを知ることのできる生物は、この世に存在しない。
 存在してはいけない。
 それは生物として有り得ないことだから。

 だから舞子は、生物じゃないのだ。


sage