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 新幹線に乗り換え長いトンネルをくぐると、車窓の向こうで新潟の田園が風になびいていた。遠くに霞む山麓から下った多湿な熱風は、幼い穂を纏い屹立した稲に波をつくっている。
 夏の陽光を浴びた新潟は色が濃く平坦である。深青たる空は見上げるほどに藍を強くし、碧色ゆらめく山の端が、のどやかにうねる入道雲の足元を遮る。等しく背が伸びた稲穂は翔る風に姿を翻しては日に焼けぬ葉の裏の白を覗かせ、銀をもってして情緒的長閑さを破壊する鉄塔の点在は分厚い陰を落としていた。
 田園とは海であり、新潟は常に沈んでいる。春から秋にかけては稲の広漠な景観。冬に入れば雪に覆われ色も失せる。新潟県は数少ない市街地から外れたら年中なにかしらに沈み込んでいる。それは時折、森の中よりしんとしている。突き抜ける空の下に静まり返る自然は、僕のような騒然を厭う性情を持たぬ者にしてみれば、抗えど歯が立たぬ脅威に他ならない。
 災害なのだろうこの静けさは。
 無論、この平穏を激甚たる災害と評したのは八子保則である。
 保則は都市を好いていた。とりわけ、高所から眺める都市が好きなようだった。彼が眺めた都市といえば東京一つのみであるので、都市が好きというよりも東京が好きなのかもしれない。
 曰く、混雑した建築物の乱立とその谷間を流れる人や車や電車は細胞なのである。人々は多様な人生を抱えて都市をめぐる。あるいは希望、あるいは絶望、あるいは創造、あるいは破滅。都市における数多の建築物とそこに内在する文化は、それらの受容体として機能する側面さえ持ち合わせている。無論、新潟の豊かな自然にも人の精神を受け入れる余地はあれど、都市と地方では受容体の絶対数があまりにも違う。
 海と山だけに悩みを打ち明け人生を終えられるなら、それは愚鈍と紙一重の天才的才能なのだ。
 都市の生き物めいた印象というのは、受容体として機能する物の数が圧倒的に多いことに由来するのだろう。またそれを頼って代謝をする人間の膨大さは言うまでもない。すなわち都市は代謝を絶えず繰り返す存在であり、それはつまり生物であると言える。ひしめく細胞と、劣化と新生を繰り返す人々。その蠢きを高所から広く眺めた保則は、そこに生物本来の姿を見つけたのである。
 その点、保則にとって新潟という田舎は、代謝のうまくいかない停滞した存在だったのだ。淀んだ存在は病気であるといっても良い。変わらぬ景色をはじめ、刺激の少ない平穏な市街地や、雪による冬の閉塞は、所謂感じやすい少年であった保則からしてみれば常時災害に見舞われているようなものだったのである。
 湧き続け持て余した精神の捌け口が大自然だけだなんて!
 しかし保則の思想には反論も容易だ。
 静けさを災害と評した当時の保則が若すぎたといえば良い。無知すぎたといえば良い。人間は個人で勝手に代謝を繰り返しているだけであり、その利己的(あるいは真っ当な)生命活動が都市に集約され、数が多いだけ偶然も増し、俯瞰すると一見意思を持っているように見えるだけだとすれば、それは何も特別なことではない。
 田舎の少数の人間が、店内が全て氷でできているバーを望んだとしても商売として成り立たないので店はできない。しかしそれが人の多い所でなら需要もあり商売として成立する。都市に受容体が多いのはかような理由であり、都会と田舎の差はそれだけなのかもしれない。
 どんな場所だろうと代謝できる人間は代謝をするのだ。
 保則がそれを上手くできない人間だっただけだ。このような反論を反論と認めてもらえるか不明ではあるが、どこにいても無能は無能でクズはクズという点においては少なくとも保則は認めるだろう。
 ところで、僕は先ほど都市について「生き物めいた印象」と言ったが、少なくとも東京と新潟はどちらとも生き物としては不完全である。
 死んでいないからだ。
 電車が停まって、いつの間にか閉じていた瞼を開くと、そこはもう長岡駅だった。

 長岡駅を西口へ出ると小沢綾乃のビュイックが停まっていた。銀の車体に赤のシートを埋め込んだその車は周囲から浮き上がっている。カーステレオから流れるクーラシェイカーが懐かしい。
「相変わらず金のかかりそうな車ですね」
 僕が言うと小沢綾乃は微笑し
「安月給でも乗れるもんだよ」
 と言った。
 小沢綾乃は市内の食品卸業者で事務職をしている。高校を卒業し親のコネクションで就いた仕事である。金の入りは良くないが、しかし恋人の居ない女と車一台なら生活に困ることも無いのだろう。
 彼女は長髪を薄い茶で染め、ランバンのエクラドゥ・アルページュを纏っていた。胸元の大きく開いたコットンシャツの中には豊満な乳房とそれを隠す黒い下着が見える。コーデュロイのホットパンツから伸びた足は肉付きがよい。シフトレバーに伸ばす右手がアイドリングの微細な振動にぼやけていた。右手親指の根元には細い指輪。THIS FEELING COMES FROM DEEP INSIDE と彫られているが、この安っぽい指輪は保則の形見である。
「浩平くん、相変わらず人の体めっちゃ見るね」
「綾乃さんは相変わらず女子力高めですね」
「人を小馬鹿にした性格って治らないものなの?」
「流行の言葉を受け付けない性格よりは治りにくいかもしれません」
 綾乃は溜息をついた。
「まだ、言葉とか言ってるんだ」
 僕も嘆息してビュイックに乗り込む。
「あなたが保則から言葉を受け継がなかったことが不思議ですよ」
 言うと、綾乃はしばらく黙ってから「私に保則の言葉は向けられなかったもの」と呟いてビュイックを動かした。心地よい振動と拡散するロックンロール。僕はシートに体を倒して長岡の寂れた大通りを眺める。
 この街もだめだ。まだ生きているから。

 僕達はひとまず酒屋で景虎の梅酒を買って、ついでに線香や蝋燭なんかを揃えてから保則の墓地へ向かった。酒屋でビールも手に入れたので、僕はそれの三本目を飲みながら助手席で意識を沈殿させる。道中綾乃は安全運転に徹した。ビュイックが法定速度で走る様は上品であろう。
「随分飲むね。浩平くんってお酒強かったっけ?」
「下心が無ければ男はいくらでも酒を飲めるんですよ」
「格好つけないでよ。あとなにげに失礼だし。持ってもいいのよ下心」
「そういう女ほどやらせてくれない」
「まだ童貞でしょ。発言がものすごくペラい」
 僕は綾乃を一瞥して彼女が無表情なのを確かめる。
「何人かと寝ました」
「へえ。ちょっとむかつくな」
「そうですか」
「そうですよ」
 ビュイックが農道へ入った。ギアが落とされゆっくりと曲がり、再びエンジンが唸ってから僕は四本目のビールを開ける。
「浩平くんさ、なんか変わったね」
「どういう風に?」
「セックスを経験した男ってどちらかというと無価値に一歩近づくと思うんだけど、キミは一歩どころか引き返せないくらいに劣化している気がする」
「随分ですね。人間生きてれば死んでいくんだから劣化するのは当然じゃないですか」
 すると綾乃は僕を睨み、それからビールを奪い一度に飲んだ。
「嫌なやつ」
 僕は笑って彼女は黙った。 
 空き缶が投げ捨てられ背後へ消える。ビュイックは随分と急に加速した。

 稲穂の海を貫く農道をしばらく北へ走ると僕の故郷がある。緑の波間の奥に突如として浮かぶ何もない町だ。遠くから見て目立つのは菖蒲の描かれたガスタンクくらいのものである。人口は随分と前に七千人を下回ったきり増えそうにない。若者は消え失せ老人が蔓延り、スーパーマーケットが出店した途端に商店街が壊滅したありふれた田舎だ。
 瀕死の商店街を抜けると墓地があり、保則はそこに名を刻まれている。綾乃はビュイックを砂利敷きの駐車場に停めた。
「もう三年経つんだね」
 保則の墓を前にして綾乃はそう呟いた。僕は蝋燭に火を点けようとするが風に吹かれて上手くできなかった。ライターの火が親指を焼く。爪が少しだけ焦げた。
「浩平くん、あれから何回お墓参りした?」
「今日で三度目です」
「そっか、命日にはちゃんと帰ってくるもんね」
 僕は黙る。
「私は、今でも時々ここに来て、なんとなく一杯飲むんだ」
「あまり飲めないくせに?」
 綾乃は笑った。僕はようやく蝋燭に火をともす。風除けのガラス製の筒を被せ、それからかすかに揺れる火を線香の先に移した。
「前に比べて随分と飲めるようになったんだよ」
「変わったんですね」
「成長したの」
 合掌。綾乃は保則の面影をこの墓に探しているようだった。僕はそのような事はしない。保則がちゃんと死んでいることを確認するとすぐ目を開く。
「好きだったんでしょう、保則のこと」
 綾乃は僕を一瞥し俯いた。そして、うん、と答える。
「付き合ってはいなかったんですか?」
「微妙。彼女っぽい子、いっぱい居たじゃん保則って。私もその内の一人だったんだと思うよ」
「保則は平等な男だと思います」
「慰めてくれてる?」
「平等に誰も愛していなかった」
 すると綾乃は僕の手を握った。
「浩平くんはクズだね」
 僕は綾乃の手を振りほどく。
「飲みませんか景虎」
「それ保則のなんだけど」
「死人に口なしって言いますよ」
「言葉の意味を履き違えてる」
 僕は笑う。綾乃も笑った。
 やはり僕達はいつまでたっても言葉がどうだの言い続けているのだ。


sage