09


 老人が共同廊下から去るのを見送る間、一歩も動けなくなった僕の足の裏から怖気と焦燥が血に乗って体を登ってきた。今舞子は、殺意の矛先にいるのだ。老人が共同廊下を曲がり姿を消すと、食材の入ったビニール袋が重みを取り戻す。次いで蝉の騒音とむせぶ熱気。僕は考える。オフの舞子を殺すとはいかように成す事柄なのか。あの老人は果たして石地万代その人物なのか。今、舞子はどうなっている?
 散開した思慮は一絡げに難い。ならば散るまま今は舞子の様子を知るべきだ。放っておいてもついてくるのが懊悩だ。わざわざ掴み束ねることはない。僕は大きく息を吸い、舞子の部屋のドアを引いた。思わずドアは錠に阻まれ硬い音が鳴った。
「舞子!」
 僕は大声で名を呼ぶ。鍵の落ちたドアでさえも不吉だった。もし、鍵を閉めたのがオフの舞子だとしたら、それはオフの舞子の冷静を意味する。落ち着かず無配慮で、初対面だった頃の僕を部屋に上げた危機意識のないオフの舞子。その舞子が鍵を閉めるということは、僕にとっては死にゆくさまを見せられているのと同じなのだ。
 手荒にドアを叩いたり舞子の名を呼んだりしていると、鍵の外れる音がして舞子が顔を覗かせた。
「あれ、浩平さん」
 僕は出し抜けに問う。
「舞子、ああ舞子、今どっちだ? オンかオフか、どっちだ」
「あ、今ね石地さんが来て、オフにされたの」
 眩暈がした。目の前の舞子はどこか呆けている。
「鍵を閉めたのは、オフになってからか?」
 それは当たり前だった。しかし僕は聞かずにはおけなかったのだ。オフにされた後、すぐに自分でオンに戻したのかも知れないという望みを捨てられなかったのだ。
「うん、オフになってからだけど、どうしたの?」
「いや。なんでもないんだ」
「変なのー。上がってく? ビール冷えてるよ」
「ああ、そうする」
 舞子は笑っていた。僕の手を引いて玄関へと促し、自身は足早に冷蔵庫へ向かいビールを取り出した。僕は玄関を見てさらに絶望する。靴が並べられているのだ。以前ここに存在していた靴の湖は干上がり、下駄箱に入らなかったのであろう幾つかの派手な靴が、散り落ちた蓮の花のように寂しく並べられていた。
 リビングは変わらず混然としていた。しかし以前見られたゴミ捨て場のような混沌ではなく、本は本で纏められ服は服で重ねられた規則的な雑然であった。この部屋にしてみればカーテンに描かれた脳も趣味の悪い芸術に見える。
「オフにしてからどれくらい経つ?」
「んーと、三十分くらい?」
 白檀の灰が消えたローテーブルにビールを並べ、舞子は僕に座るよう言った。僕は食材を足元に置き、舞子と缶ビールで乾杯をする。
 僕は判断しかねていた。目の前で美味そうにビールを飲む舞子に、オフの気配はほぼ見られない。オンの時よりやや磊落な印象こそあるが、しかしオフに比べると随分と安定している。
 これはオンの延長なのであろうか。オフへの過渡期は、白い絵の具に黒を垂らして混ぜるが如く、徐々に溶け合う灰色の状態なのだろうか。だとすると、舞子にとってこの状態は第三の状態ということになる。オフの黒でもなくオンの白でもなく、電極による操作が消えた言わば通常の時。混沌と静謐の狭間に居る舞子は、なんら問題のない健常者と同じなのである。
 安定の胚胎と不穏の廃退。
 この時、僕の直感が恐るべき可能性をなぞる。
 舞子に施された治療の真の目的が、今目の前に居る灰色の舞子を恒久化する事なのだとしたら。
 今まで僕は、スイッチを切れば混沌の舞子が現れ、スイッチを入れれば静謐の舞子が舞い降り、治療はその静謐こそを良しとしているのだとばかり思い込んでいた。しかし電極により脳を操作し安定を図るという行為は、言ってしまえば対症療法に他ならず、舞子の抱える問題を抜本的に治すものではない。足の骨を折った人間に松葉杖を渡しても、歩けこそすれど骨折が治るわけではないのと同じである。
 舞子にとっては、電極の補助なしに安定していられる、オンとオフの間こそが治癒された状態なのだ。
 そうだとしたら舞子の治療は、オンからオフへスイッチを切る時にこそなされる。だから、舞子は定期的にスイッチをオンからオフへ、またオフからオンへと切り替えていたのだ。
 気づくべきだった。舞子が「だんだん消えていくの」と言ったときに、もっとよくその意味を考えるべきだったのだ。だんだん消えていくのならば、消えていく瞬間があるはずであり、その瞬間の舞子はオンともオフとも違ったのだ。
 いや、そもそも、スイッチではなかったのだ。いつか聴いた「スイッチのような潔さ」という歌詞を思い出し、僕はつい舌打ちをした。そのように明確な線引きがなされていたわけではないのである。絵の具を混ぜるように、徐々に徐々に変貌していくのだ。そしてその過程には、紛れもなく中間の色があるのだ。
 石地万代の言葉の意味も、よくわかった。オフの舞子を殺すということは、同時にオンの舞子も殺すことになる。オフを抑えるためのオンならば、オフが消えたその時に役割が終わるのである。
 つまり、オンの舞子もオフの舞子も死に、その後安定した舞子が生まれる。目の前にいる舞子が揺るがぬ存在となったときこそ、僕の好いた舞子が死ぬときなのだ。
「どうしたの? 黙って。わたし、なんかしちゃった?」
 気まずそうに舞子は僕を覗き込む。僕はかぶりを振って、ビールを一度に飲み干した。

 僕の印象は正しかった。
 やはり舞子は人間ではなかった。
 今述べた僕の予感が正しければ、舞子は、全生物が成し得ない認知を経験することになる。
 もはやそれは、人間でもなければ、生物でもない。
 石地万代はそれに気づいているのか?
 あの老人は、何を創ろうとしているというのだ。

 しかし僕には何もできない。

 舞子はその後ゆっくり二時間ほどかけてオフに戻った。
 落ち着きは失われ、語気も強くなり、座っては立ち、立っては部屋を歩き回り、積まれた本を蹴飛ばし重ねられた服を掘り起こし、脳のカーテンを見ては「勝手な地図を作りやがって!」とブロードマンに悪態をつき、僕を抱きしめ首筋を舐め、股間を僕の太ももにこすりつけ、キスをし舌を絡め、そのままおぼつかない口調で壁の蝉を抜いたことを糾弾し、乱暴に僕の服を脱がせ、ビールを口に含んだままフェラチオをし、一向に射精に至らない僕を見て、泣いた。
「ごめん舞子」
「うるさい」
「ごめんね」
「うるさい」
「ごめん」
「うるさい!」
「ごめん(と撫でる髪の柔らかさはこの場には冗長で)」
「うるさい(と突き立てられる爪が僕の背に食い込み)」
「ごめん(と抱きしめる体の柔らかさは場違いに甘く深く)」
「うるさい(と力任せに掻き毟られた背の皮膚は裂け)」
「ごめん(と見つめる双眸は涙で虹彩すら歪み)」
「うるさい(と嗚咽交じりの暴力が僕の背の肉を引き千切り血が溢れ)」
「ごめん(と繰り返す声色は震え)」
「うるさい! もういいよ。消したいんでしょ、私なんて」
「ごめん」
 と手に持ったスイッチはまねく結果と裏腹に軽く。
「ごめんね」
 舞子の胸にスイッチを当てて、オンにする。
「嫌だよう」
 僕も泣いて、彼女は消えた。
「ごめん」
 僕の背から生温い血がこぼれている。
 正当な防衛だ。
 僕は、まず、僕の痛みから逃げた。

 現れたオンの舞子はしばらく呆然とし、それでも必死に取り繕って笑顔を見せ、しかし涙は隠しきれずに「ごめんなさい」と言ったのだ。
 僕は、ここに来てようやく、舞子に好きだよと言った。

 僕が舞子に数日間新潟へ戻ることを告げると、彼女は「ちょっと寂しい」と言った。僕は、数日分の食事を作り置きするつもりだし、墓参りが済んだらすぐに戻ってくることを説明したが、舞子は寂寞の念を醸しだしている。
 舞子は暫く黙った後、一度頷いて僕に言った。
「これ、持って行って」
 手渡されたのは舞子のスイッチであった。
「私、今の私のまま待っていたいの。今の私なら、浩平さんが帰ってきたときにおかえりなさいって言えるもの」
 僕は手のひらのスイッチを眺める。これさえなければ、舞子はずっとオンのままなのだ。スイッチを切った後の治癒された舞子が現れることもない。
 これさえなければ、僕の好きな人は永遠に僕の好きな人のまま生きていく。
 反吐が出る。短絡的だ。予備のスイッチが無いはずはない。
 けれども僕は言うのだ。
「わかった。預かるよ。ただいまって言うから、おかえりって言ってくれ」
 ふと思うのは、オフの舞子もおかえりと言うのだろうかという疑問である。そして同時に見分けのつかない自分を見つける。僕が好きな舞子は、オンとオフどちらか一方なのか、あるいはその両方なのか。
「もし、舞子がどうしても寂しくなったら、僕の部屋を使うと良い。鍵を渡すから、好きなように使ってくれ。いや、食事は僕の部屋の冷蔵庫に入れておくよ。部屋にこもるのもよくないだろうし」
「いいの?」
「かまわないよ」
「うれしい! 浩平さんの部屋なら、浩平さんの気配があるもの。私、そこで待ってるから。そこでおかえりって言うから」
 僕は微笑む。
「うん。待ってて」
 それから数日たって、僕は新潟へ帰るために家を出た。荷物は着替えと金と携帯電話と、小説を書くためのパソコンだけである。その手荷物に舞子のスイッチを隠して、僕はまず高崎行きの電車に乗った。
 僕の部屋に居るのなら、石地万代から逃れられるかもしれない。スイッチさえ押されなければ、とりあえず舞子は舞子のままだ。
 僕はこのような愚かな考えを持って新潟へ向かった。
 電車は動き出し、もう戻らない。次はもう動かない人間に参るのだ。新潟まで僕は何もできなかった。ただゆっくりと時間が流れていた。


sage