08


 僕達は服を脱いでベッドに潜り込んだ。枕元に置いた読書灯が白い光を垂らしている。部屋は暗く、僕達の居る一隅だけが色を持っていた。舞子の髪が艶めいて灯火の白に滲み、ふいに浮かんだ散る埃は影も作らず闇に消えてゆく。
 舞子は自分について語ってから口を閉じた。僕は舞子の告白に相槌を打ち、意味を噛みまた何かしら応答し、わかることもわからないことも、とにかく飲み込んだ。もし舞子が、自分について語った応酬に僕自身も何か語ることを求めていたら、きっとその時は不満に終わっていただろう。僕は舞子に語らせて、僕自身を語っていない。
 しかし舞子はそれを不平等とか不誠実とか言わず、ただ僕にしがみ付くだけだった。僕の傾聴が舞子の精神に浄化作用をもたらしたのか、もとより舞子が僕に期待をしていなかったのかはわからない。舞子はただ、風の強い日に降る雨みたいに、強く多く時にふと弱く言葉を紡いだ。
 舞子曰く「だんだん消えていくの」だそうだ。オフの舞子がオンの舞子の裏側で、次第にその形を失っていくらしい。電極の通電を解いた後も、暫くは安定した精神状態になり、その時間が徐々に延びてきているというのだ。それは治癒ではないのだろうか。舞子に埋まっている電極は舞子の脳を平常に稼動させるためのものである。その助力を得ずとも脳が普通でいられるのならば、それは消失や衰退ではなく治癒であり進歩のはずだ。
 なのに舞子本人はそれを消えていくという。オフの舞子が死ぬかもしれないという。
 それが、とても怖いのだという。
 僕は舞子の素肌を撫でた。熱い息が喉元にあたった。布団に埋もれて裸で抱き合う僕達だが、そこに性の昂ぶりは無縁だった。いや、正確に言うなら、僕は勃起していたが舞子を抱く気にはなれないでいた。この期に及んでセックスに何の意味があろうか。お互いの肌が重なり、その熱を交換し、自分以外の命を感じるだけで足りる。抱擁は雄弁ではない。抱擁は空虚だ。そこに虚があるからこそ、己の求める安心とか愛情とかを見出せる。白紙には何を描いても良いのだ。抱擁に何を感じても自由で、僕達は今この時、安心していることだけが重要だった。
 だから僕達は強く抱き合っている。
 お互いに、無地の抱擁を自分に優しい何かで埋めるために。

 ただ一つ、素直に言うと、僕はオフの舞子には死んで欲しくなかった。
 他人の死など数字でしかないが、オフの舞子の死はもうしっかりと喪失を持っている。無縁の何十億の命より、ほんの少し触れた人間の命は、やけに重い。

 目覚めると舞子は横にいなかった。読書灯も消えていて、カーテンの隙間から陽が差し込んでいる。室内の空気は僕の喉から水気を奪い尽くしていた。咳払いをすると咽頭が痛んだ。
 壁の穴から舞子を呼んでも返事はない。時刻は午前十時を少し回ったところだった。裸のまま水を飲み、シャワーを浴びてから服を着る。眠気の消えないまま冷蔵庫を開けると、食材はほぼ無くなっていた。舞子と僕、二人分の食事を作っていたのだ。二週間分の食料は七日も経たずに消え去った。
 舞子が気がかりではあったが、しかし彼女の部屋に乗り込む理由もないので、僕は買い物へ出ることにした。間もなく新潟へ帰郷するのだから今日明日の食材さえ手に入れば良い。玄関を抜け鍵を閉める。
 共同廊下には浅見氏の姿があった。この城を警邏する近衛兵の片割れ。七十歳を超える老人である。竹箒の矛は切っ先に蜘蛛の巣が絡み付いていた。浅見夫人の姿は見えない。浅見の主人は、折れ曲がった腰のまま首を上げて僕を見た。
「やぁ高田さん」
「おはようございます」
「今日も暑いねえ。バテちゃいねえかね」
「お陰様で」
 枯れてささくれだった声色である。皺に埋もれた喉仏が微かに震えている。
「部屋の調子はどうだい」
「変わらず快適ですよ」
「隣の女の子とは上手くいってるかい?」
 僕は緊張した。
「ええ、特に困ってはいません」
「そうかい。いやね、おいらん所に苦情が来ていてね」
 そういって浅見氏は白髪を撫でた。僕は黙る。苦情になりそうな出来事ならいくらでも思い当たった。舞子の絶叫、壁を金鎚で殴る音。
「苦情ですか」
 浅見氏は何度か頷いた。
「アパートの大家ってのは妙なもんさ。食客を抱えるのとは違えんだ。ただ部屋を貸して金を貰う。不動産屋に任せちまえば、奴さん達なんでもかんでもやってくれる。おいらは掃除でもしときゃ良い」
 浅見氏が竹箒を振った。蜘蛛も蜂も粉砕する最強の矛。
「でもね、文句っつうのだけは、おいらん所にも巡ってきやがる。それも不動産屋がおいらに告げ口する。どうもこの部屋の女の子、相当にうるせえんだとよ」
 は、は、は、と浅見氏が哄笑した。
「ハルがドアに皿が貼ってあるって言うもんだから見てみたら、なんだいこりゃ随分上等な堆朱じゃねえか」
 ハル、というのは浅見夫人の名である。
「叱る気も失せちまったよ。またぞろ文句が入るようならその時怒鳴りに来ようと思ってね」
「ええ、その時はお願いします」
 と、僕は心にもない事を言って、話題を変えるべく言葉を投げる。
「ところでハルさんを暫く見ていませんが、お元気ですか?」
 は、は、は、と浅見氏は笑って、
「血ぃ吐いてお医者様ん所に行ってるよ」
 と言った。
「わからねえもんさ。おいら達、いつ死んじゃうか教えてもらえねえんだもの。高田さんもご両親をお大事にしなさい」
 僕は浅見氏の言葉に保則の死体を思い浮かべた。いつ死ぬか教えてもらえたら、僕はきっと保則を海になんて連れて行かなかっただろう。
 新潟へ帰ろう。海へ行き、面影を探そう。

 食材を買いJR東飯能駅で新幹線の切符を買った。窓口の職員は無愛想に金を受け取った。東飯能駅から八高線に乗り群馬県の高崎駅へと向かい、そこで新幹線に乗り換えて新潟県の長岡駅へ進むのがいつもの帰路である。長い旅の上、新幹線に乗ってからはトンネルが連続するので景観も良くない。鉄道の、先人が言う「民家の生活圏へ割り込む傲慢な旅情」というものがこの帰路には欠けていた。かといって全て在来線で帰るにはいささか骨が折れる。群馬の水上の辺りはこの時期さぞ涼しげであろうが、乗り換えの都合で水上駅周辺を散策する時間はないのだ。どうせ見るものがないのなら、早めに移動を終えたほうが楽である。
 切符の乗車時刻は明後日の正午となっている。急ではあるが保則の命日も近い。保則は三年前の夏の日に海に沈んで死んだ。僕が高校三年生の頃だ。なんてことはない、ありふれた溺死ではあったが、僕が何より許せないのは、その死後である。それについては新潟の海辺で嫌になるほど考えるであろうから、何も今このような時に思索に沈むこともないのだが、帰郷を目前に据えると脳裏はそれに染まる。だがやめよう。人の死後ほど変えがたいものもないのだから。
 夏の暑さと蝉の声が鬱陶しい。僕は駅前のドトールコーヒーで休むことにした。空調の風が背に浮かんだ汗を乾かし体温を奪う。アイスコーヒーを受け取り禁煙席に寄ったが満席で、僕は仕方なしに喫煙席の紫煙の中に席を取った。
 店内は聴いたこともない瀟洒なだけのジャズが流れていた。コーヒーとシロップの香り。店内の人の声無き凪に紫煙。窓辺の席に座ると、横にいた一組の男女が密やかな声で話しているのが聞こえた。僕はそれを盗み聞く。店内に流れているはずのジャズが形を失い僕を通過していることには気づいたのは、随分と後になってからであった。
「ねえ、一つ聞かせてくれないか」
 と言ったのは男のほうである。端正な顔立ちだった。一瞥しただけでは女と見れないこともない。
「女の人はセックスをするとき何を考えているの?」
 この出し抜けの質問に(彼らの間にはきっと会話の流れがあったのだろうが)、女は震える声で答えた。
「死んだほうがマシだって、私はそう思った」
 その言葉を契機に男は席を離れ二度と戻ってこなかった。女は声を殺して泣いていた。僕はそれを押し付けがましい芝居を見せられたような若干の不快をもって眺めていた。
 死んだほうがマシというのは死んだことがある人間が使うべき言葉だ。全人類にその言葉を使う資格はない。死んで好転する事態があるとして、それを観測できるのは本人以外の人間なのだ。死んだ人間はその後を知りえない。死ぬ直前の状態で終わる。僕がカタストロフィを迎える前に死ぬことこそが幸福とするのは、その結末を避けることができるからである。言いかえれば嫌な思いをしないまま終われる。
 嫌な思いをするのは、死んだ本人の後に残された人間なのだ。

 アパートに戻ると舞子の部屋の前に老人がいた。背筋が伸び真白なシャツと上等なスラックスを身につけている。白髪が頭を覆い、顔の肉は落ち、深い皺が幾重にも刻まれていた。
 老人はこちらを向き会釈をした。僕もそれに応える。鷲鼻の上に丸眼鏡が乗っており、その奥に君臨する眼光は淀みなく鋭い。僕はその視線に射抜かれながらも、辛うじて足を止めることなく老人の前へ歩んだ。
「こんにちは」と僕のほうから挨拶をする。
「どうも、こんにちは。君は舞子のお隣さんかな」
 舞子の名が出て僕は思わず立ち止まってしまった。浅見氏と違い、澄んで張りのある声だった。
「ええ、そうです」
「私を知っているかい?」
 その問いから滲む真意は「私を知っているね」という確認でもあったように思える。僕と舞子に繋がりがあることを確信しているような語調だった。
 この老人が石地万代か。どこかの製薬会社のパトロンであり、舞子の保護者。僕は何も答えることができなかった。
「黙るのは賢明ではないよ、少年」
「ああ、いえ、すみません。けれど僕は、あなたの事を知りませんよ」
「舞子とは上手くいっているかい」
 老人は僕の答えを無視し、扉に貼り付けられた堆朱を指差した。
「なんのことでしょう」
「その韜晦に意味はあるかね」
 またぞろ僕は黙る。老人は暫く僕を見つめ、ふいに表情を穏やかにして言った。
「私は舞子の保護者だ。今舞子の部屋を見たが、壁に穴があいていたね。私の向こうに行こうとしたのだから、君は穴をあけられた部屋の住人だろう。それに舞子の手には綺麗に包帯が巻かれていた。医者嫌いのあの子は病院には行かないだろうし、それではどうやって自分の手に包帯を巻くんだい」
「さぁ、友人にでも頼んだんじゃないでしょうか」
「舞子に友達など居ないよ」
 冷たい声だ。僕は無性に逆らいたくなったが、それは何故だろう。舞子への好意からか、この老人の言い草が癪に障ったのか。僕は苛立ちを隠せずに答える。
「僕には関係ありませんよ。何をおっしゃいたいんですかね」
 老人は浅く嘆息した。
「大家に聞いたんだが、舞子の部屋にそちらの隣人から苦情が出たそうだ」
 僕ではない隣人のことである。
「けれど君は、大家の質問に特に困っていないと答えたそうだね。片方の隣人が苦情を出すほど舞子は煩いのに、しかしどうして君は困っていないのだろう。壁に穴をあけられて困らない人間を私は知らないな」
 なんだというのだこの老人は。僕は沈黙しかできなかった。
「老人に嘘をついてくれるな。君が舞子とどう繋がっていようが構わないのだから」
「そうですか」
「ただ一つ、舞子がスイッチを切り忘れているようなら、どうか君がオフにしてくれたまえ」
 僕は、答えない。答えられない。
「舞子は私に、オフの自分が死にかねないと訴えていたんだがね」
 老人はそぞろに歩き始め、僕の肩に手を置き、去り際に言い放った。
「私はオフの舞子を殺したいのだよ」


sage