07


 上半身を露にした舞子は、一双の膨らみに手のひらをあて、肩を小さく震わせて目を閉じていた。唇は微かに開き、しかし言葉は出ず、体内で渦巻く煩悶を口内に淀ませているように見えた。
 僕は舞子の両足を挟み込むように彼女に覆いかぶさっている。肢体が自重で軋んでいるけれど、それでも舞子から遡上する熱と香りと離れたくなかった。
 僕はそぞろに舞子の体を見る。処女ではないのだろう。未通女(おぼこ)に見られる男の肉への困惑が、舞子の体からは感ぜられない。それどころか、寧ろ期待ともいえる誘いが舞子の体にはあった。屹立した乳首と肋骨の下で足早に震える心臓。鳩尾は窪み、わき腹の緊張は性感の急所を告げていた。
 舞子の顔は逡巡に震えている。肉体と裏腹に披瀝を恐れる精神は、しかし、その怖気を押しのけ、訥弁と僕に語りかけ始めた。
「私が、今よりずっと小さかったとき、私は世界に触ることができなかったの。透明人間よりも透明で、透明すぎて全部私をすり抜けていった。喫茶店なんかで、おしゃれなジャズが鳴っていても、気がつけば一曲終わっている時のように、色々なことが、いつの間にか私を通り抜けて行った。それは友達と遊んでいるときもいっしょ。おままごとをして、私がお母さん役になったら、私はお母さんを知らないうちに放棄して、部屋の隅に溜まっている埃の山だとか、おもちゃのティーカップの傷だとかをじっと見ているの」
 舞子は僕を見つめ口を閉じた。僕は「集中できないってこと?」と話を促す。
「それとは少し違う。一瞬で終わるの。ジャズを聴くのもおままごとをするのも、とても楽しいんだけど、それにすぐ満足して、次の刺激に向かっちゃうんだ。
 私の見てる世界はね、これは私がオフの時に見ているって事なんだけど、いつか言ったとおり、喧しくてカラフルなの。私の周りで打ち上げ花火が鳴り続けていて、地面いっぱいに四季折々の花が咲き乱れていて、地球上の全ての人が私にぶつかりながら通り過ぎて行って……。私はその怖いくらいの轟音と色彩と人の波の真ん中で、あれもこれも、どれもそれもみんな一度に浴び続けているの。そうすると、浩平さん、人ってどうなると思う?」
 僕は舞子のいう混沌を想像する。轟音と色彩と人の波。その中で一人、ぽつねんとたゆたう日常。
 僕は答えられない。舞子は微笑み、話を続けた。
「すると透明になるの。周りに物があり過ぎて、自分の輪郭が溶けていくの。砂地の上に絵を描くと、いつの間にか消えているでしょ? あれと同じなのだと思う。砂地の絵は、風や雨や人が通り過ぎてゆくうちに、消えちゃう。私もそんな風にして、次第に消えていった」
「人の自我ってのは、家の壁に彫った絵のようなものじゃないのかな。外界に殴り描いた絵と比べて、例えば家には屋根があり壁があり、それが僕達の自我を守っている」
「ああ、家は我が城ってやつ?」と舞子。
「城なんて大それたものじゃなくて良いんだ。強い箱があれば、それで良い」
 この時舞子は頷くだけだった。しかし僕は悟った。箱でさえ城になるのだと。城という言葉は、堅牢な城壁や絢爛な様式を指しているのではない。その内に唯一無二の宝玉が守られていることを指すのだった。
 すると、舞子の自我は野ざらしか。生きていることで晒される、風や波や他人の靴底に、そのまま直撃しているというのか。
「ごめんなさい。話が逸れちゃった」
 野ざらしにされた絵の末路!
「とにかく私は、そんな風にしてすっかり透明になってしまった。友達も居なくなって、周りの人は私を気持ち悪がって、お父さんもお母さんも憂鬱になって、私はそのせいもあって、ぐんぐん頭がおかしくなっていったの」
 舞子の目に涙が浮かんでいる。僕はそれを、拭えない。
「私の家は、普通の、本当に普通の家庭だったと思う。愛されていたと思う。けれどね、周りの大人は! 社会は! どいつもこいつも! 私を何かの病気にしたかったの。何かしら理解できる前例に当てはめたかったの」
 舞子は大粒の涙をこぼして、声を荒げ、鼻をすすり、喚き散らすように告白を続ける。
「学習障害だとか知的障害だとか注意欠陥多動性障害だとか、果てには反応性愛着障害だとか!」
 学習障害も知的障害も注意欠陥多動性障害もいずれも生得的なものであり、その診断と対処は確立されつつある。しかし、反応性愛着障害というものは、乱暴に言えば親(もしくはその代理人)との愛着関係が持てなかった事に起因する。人との触れ合いが極度に苦手だったり、あるいは極端に甘えたりするのだ。そして、この原因は家庭環境によるところが大きいとされている。舞子がそれを、こんなにも否定するということは、舞子の家庭は舞子の言うとおり、愛に溢れる一般的な家庭だったのかもしれない。もちろん、愛の枯渇を記憶が改竄した可能性もあるが、それは僕にはわからない。
 人の言うことを疑っていたらきりがない。
「別にね」
 と、やや落ち着いた声で舞子は続ける。
「そういう傾向のある人は、本当に本当に辛いんだから、きちんと傾向に名称をつけられて、それに見合った対応をされるべきだと思うの」
「うん、それは僕も同じ気持ちだよ」
 えへ、と舞子が笑った。僕は舞子の髪を撫でた。
「でも私は違った。そのいずれにも完璧には合致しなかった。どこかしら、似たようなところはあったけれど、薬物療法も行動療法もほとんど効果はなくて、お医者さんが説明できない何かが、私をおかしくしていったの」
 おかしく、という言葉。それを口に出すごとに、舞子の顔は悲しさに歪んでいった。自分をおかしいと評するのは辛い。舞子はそれを、僕に己を聞かせるために、何度も繰り返しているのだ。  僕は舞子を抱きかかえた。足が痺れていたけれど、僕は舞子の冷房で冷たくなった肌を抱きしめて、やはり黙ったままであった。
「それからね」
 舞子は僕の肩に顔を乗せ、話を再開する。嫌な過去をなぞる。
「お母さんがね、私に耐えられなくなってね、居なくなっちゃったの。そしたらね、お父さんもね、もうだめになっちゃって、私が夜眠ってるうちに酔ったまま車で出かけて事故にあったの。それで、もうほとんど潰れて、死んじゃった」
 僕は黙る。
「それから色々あって、私は親戚に引き取られることになったんだけど、私がおかしいって事を知ると、誰もが断ったの。そのとき私は中学二年生で、働けるわけもなかったから、今思うとあそこで野垂れ死んでいてもおかしくないんだ。
 でも、親戚中を転々としているとき、ひとりのおじいさんに拾われたの。私なんかとほぼ無関係なくらい遠い親戚で、その人は医学研究団体のパトロンだった。鈴路製薬っていう会社、知ってる?」
 僕は知らないと答えた。
「とにかくそういう製薬会社があって、そこのパトロンに私は引き取られた。その人、石地万代(いしじばんだい)っていう名前なんだけど、すごく優しくて、私が何をしていても認めてくれる人だった。たくさん遊んでくれて、なんでも買ってくれて、何不自由なく生活させてもらってた」
 あの頃は本当に楽しかったなぁ。と舞子は言った。舞子の体は次第に温かくなり始めた。
「でもねえ」
 と、舞子は語る。
「私を治してやるって、万代さん言ったの」
「治す?」
「うん。インドにある鈴路製薬の本部が、私みたいな人間を相手に治療しているんだって」
「ああ、なるほど」
 僕は合点がいった。
「それが、舞子のスイッチか」
「うん」
 と舞子は僕から体を離し、自身の頭部を指差す。
「私の脳みそ、いっぱい電極棒が刺さってるんだ。何十本も、髪の毛くらいの電極が、脳みそ全体に突き刺さってるの」
「脳深部刺激療法?」
 僕が問うと、舞子は頷いた。
 脳深部刺激療法というのは、脳の病気に起因する体の不随意的な運動(痙攣等。てんかんがイメージしやすいものだ)や鬱病などに用いられる治療である。
 脳には領域があり、それぞれが相互に補いつつ機能するとされている。例えば目で見た情報は後頭部にある視覚野という領域で処理される、とかそういう物である。
 この療法は脳の役割分担に着目し、何かしらの症状がある人間に対し、健常な人間なら機能するべき脳の領域が機能していない場合、そこに電流を流して刺激してみるのである。すると脳は思い出したように仕事を始めて、患者の症状は治まる。実際に用いられている技術なのだ。
「でもね、私の場合、それよりもっと高度な手術をされたの」
 舞子は再び語る。
「私は、脳のどこかが機能していないタイプじゃなかった。脳全体がランダムに、激しかったり凄く弱弱しかったり、安定しない動作をしているらしいの。それを全て平常に動作させるための治療を受けたんだ。強いところは抑えて、弱いところは増強して、普通の人と同じ脳に無理やりしているの」
 つまり舞子は脳に電気刺激を与え続け、機械的に制御し、健常者と同じ脳を作り上げているということになる。
「そんな事できるのか? 脳の活動をその時その時で把握しないと、そんなことできないんじゃないのか?」
「それをできるのが鈴路製薬だったんだ。私は細かいところはよくわからないけれど」
 すると舞子は胸の手術痕を指差した。
「ここにバッテリーと、電極に放電を命令する機械が埋まってるの。胸で放たれた電気刺激が、首に埋められたケーブルを伝って脳に行くんだ。首の手術痕はほとんど消えてるけどね」
 舞子は僕を見つめて、それからゆっくりとキスをしてきた。
 そして耳元で囁く。
「私、ずっと放電しっぱなしだから、この先どうなるかわからない」
「何か、悪いことがあるのか?」
 舞子はもう一度僕にキスをした。唇が乾いていた。
 僕は舞子の顔を見る。顔を通して脳を見る。
 脳の中に、何十本も電極棒が刺さっている、電極女。
「わからないけれど、オフの私は、死んじゃうかもしれない」
 電極女の絶え間ない放電は、彼女自身を殺すのか。


sage