06


 舞子は必ず朝八時に起床する。それから煙草を一本吸い、壁に開いた穴に弾力ある唇を近づけ、細い声で僕の名を呼ぶ。壁の穴は舞子が金鎚で開けたものであり、その歪な円形は、親指と人差し指で結んだ輪とほぼ等しい大きさだ。穴は舞子の部屋から開いたものであるから、僕の部屋側の穴は縁がささくれだっている。その鋭利な先を微かに震わせて、舞子は呼ぶのだ。
「浩平さん、おはよ」
 僕の朝はこうして、舞子の淡い声で始まる。山の端を赤く照らす陽光が、朝ぼらけのしじま、その残滓を押し流し世に輪郭をもたらすように、僕の寝床に沈んだ意識は、舞子の一言をもって蘇る。
 僕は寝床に潜ったまま、くぐもった声で「おはよう」と答えた。すると舞子はすぐに「行って良い?」とどこか間延びした声を穴越しに響かせる。僕は必ず、おいでと言うのだ。
 舞子が手を壊してから数日が過ぎた。包帯の下で、はがれた皮膚は薄い膜となって再生を進めている。痛みも随分と失せたらしい。心配だった釘による傷も、幸いにも雑菌等孕んでおらず、多少の黒ずみこそ残るであろうが、間もなく新しい肉で覆われようとしていた。
 日常の作業について、舞子はもう一人である程度はできる筈であった。それは、舞子も僕も共々承知していた。なのに僕達が未だに一つの部屋で食事をし、あるいは閑談に興じ、酒を飲む事は、惰性と呼ぶにはあまりにも能動的すぎた。少なくとも僕は、もう隠しようもなく、舞子に好意を抱いていた。
 この日、舞子と僕はいつも通りに食事を済ませ、僕は舞子の顔を拭いていた。治癒は進んでいるが、舞子の治りかけの手を水に晒すのは憚られた。もとより包帯に覆われているのだから舞子自身による洗顔は難しいのである。暑さが嫌いな舞子は、しかし熱いタオルを好んだ。僕が顔の汚れを落としてやると、舞子はつい目じりを下げ口角を上げ、気持ち良いと呟く。僕はそれが嬉しくて、今日はいつも以上に顔を拭っていた。
 一双の眼を覆う薄い瞼は、端につれて淡く桃色が混じる。鼻の頂まで行き渡る軟骨は、その曲線で怜悧な印象を風采に添えている。顔を構成する要素の配置にも黄金比率が存在するというが、しかし舞子は決してその常勝の類型には寄らず、どこか不均一でありながらも、非対称でありながらも、明確に美しいのだ。滔々と過ぎ去る小川の揺らぎは不規則だからこそ飽きない。焔は揺らめくから夜に映える。舞子はかような揺らぐ存在なのかもしれない。
 ふと、舞子の双眸が僕を掴んでいることに気づいた。タオルを顔から離すと、火照って赤らんだ舞子の頬が可愛らしかった。化粧の乗っていない肌が微かに濡れている。
「浩平さん」
 と、舞子は目を瞑った。
 僕はその仕草にキスを止められなかった。最初は、お互いの境界線を確かめ合うキスだった。唇の柔らかさと、その薄皮。二度目は境界を消すためのキスをした。深く、強く、時折歯が当たる。三度目からは相手の体に割り入るキスとなった。僕は舞子の体を支え、シャギーカーペットの柔毛の上に横たえた。僕達はキスの主軸を唇から舌先へと変え、短躯な喘ぎをこぼし、水音をたてて舌根を絡めた。
 キスというのは人の味がする。舌の裏では血の味が、舌の上では唾液の粘りが、喉の手前では相手の吐く息が、それぞれ繋がれた唇を通してうつりゆく。絶え間ないキスの最中で僕は安堵していることに気づいた。このように、舞子のキスが人間のキスと同じ味なのは、彼女が人間であることの証明のように思えた。それに安堵しているということは、ああ、僕は舞子を人間として見ていなかったのかもしれない。

 舞子の一抹の唾液は彼女自身を僕の中で人間たらしめた。するとにわかに舞子の持つ女の匂いが爆ぜ鼻についた。僕は男女の納まるべき箱をキスの底に見つけてしまったのだ。男と女はその箱の蓋を開け(施錠されている物は稀だ。見つけにくいくせに)、潜り込み、寝るのである。それが常なのだ。
 事実、僕は多くの女にその箱を見つけ寝た。そして、全ての箱から脱出した。箱の中では嘘の衣が溶けてゆくから、虚偽と見栄を纏った人種は、その箱の中で看破の恐怖に怯えるのだ。いつか己を暴かれる可能性の、なんと耐え難いことだろう! だからこそ僕は、箱の中に湿った静寂をもたらしたあと、背中を丸め立ち眩みのようにさっと逃げてきたのだ。それはつまり、褥を共にしたら、あとは終わる一方に尽きるということなのである。
 僕は舞子のシャツのボタンを一つ外すたび、舞子から離れたくないと思った。やめたほうが良い。舞子とは寝ないほうが良い。もっと、もっと、あらゆることを知りたい。舞子の異常も狂気も破壊の衝動も、愛らしさも穏やかさもやわらかさも、もっともっと、深く細やかに、知りたいというのに。
 乳房が露わになったときだった。
「浩平さん、だめ」
 と舞子は泣いた。僕は欲望を脳の奥から引きずり出すことに成功した。
「浩平さん、ごめんなさい、私、浩平さんと、しちゃだめな気がする」
 舞子は目じりから涙を一粒こぼした。
「私もっと、浩平さんのことを知りたいし、見ていたいもの」
 僕は舞子から体を離し、あわや叫びだしそうな舞子の揺れる口元を見る。
「でも、しちゃったら、体の方がとても強くなって、色々なことが見えなくなるもの」
 僕は黙った。
「浩平さん、好きです」
「舞子?」
「好きだから、お願い、私のこと触るより多く見て」
 予感がした。舞子は、舞子の体に嫉妬している。愛情が性を介して肉体にもたらされることに嫉妬している。心より先に体に触れられることを嫉妬している。心より多く乳房を見られることを嫉妬している。舞子は僕の事を本当に好いているのだ。
 好きだから触れたい。好きだから見て欲しい。その兼ね合いは僕には難しい。肉体の内側に心があるのなら、僕はまず心を覆う体を見てしまう。体はすぐにその全容を僕の前に現す。衣服の下に隠れた肢体は、さらにその内側に潜む混沌と懊悩に満ちた精神よりも、随分と見栄えがよく解りやすい。
 また、肉体同士の接触は、思わず精神に良い影響を与える。その際生じる充足感はしばしば精神的連結と履き違えられることがあるが、僕にしてみればその勘違いは僥倖である。僕はその偶発を頼って女と寝ることが少なくない。好いた人物の精神より肉体に触れがちである僕の性情は、仔細に見ればこのような性交がもたらす誤解を期待してのことだとも言える。
 だがしかし舞子との場合はどうだ?
 僕はなぜこれほどまでに、彼女の事を知りたいと思っている?
 体よりも心に触れたいなどと、この世の地獄である他人の本質を知りたいなどと、なぜ自殺まがいの願望に包まれている?
「わかったよ舞子。舞子のこと、もっと教えてくれないか」
 僕は死にたいのか?

 舞子が口を開くまでの数分間に僕が思い出したことを伝えようと思う。
 幼い頃、道路を剥がすと地獄があると思っていた。マンホールを下ると地獄があると思っていた。世界は地獄を埋め立てた後に作られたと思っていた。
 思春期を迎えると、道路の下には土しかなく、マンホールを下れば汚水が流れていることを知った。すると僕は他人の内に地獄の気配を見るようになった。人が皆同じなりをしているように、目に見えない内側にも、全ての人は地獄を抱えているように思った。しかしそれは、なにか理屈があるわけではなく、嗅覚によるものだった。砂漠のどこかにある死体の臭いを蝿が嗅ぎつけるように、僕もまた人の作る笑顔や親切や愛情などの下に、嫌な臭いを嗅いだのだ。
 高校で文芸部に所属し、人が人の作品を叩きのめすところを見て、あるいは保則が溺死体になったところを見て、さらにその死が保則の生涯を名誉と勇気で侵すところを見て、そもそもこの世こそが地獄であることを知った。腐るほどいる人間は、その一人一人が地獄を構成する粒子なのだ。その地獄の粒子一つに触れるだけで苦痛だというのに、それらが鬩ぎあいうねるこの世で生きるのは、あまりにも辛い。
 蝉が七日で死ぬのも僕にはよくわかる。
 そして舞子は口を開く。
「もっとまともに成りたかったなぁ」
 また別の箱が開いた。あっさりと開いて重篤が溢れる。
 舞子との接触が、ついに始まった。


sage