04


 木彫堆朱が貼り付けられたドアを叩く。反応がない。耳をすますとドアの向こうから舞子の絶叫が聞こえた。僕が手荒にドアを叩いてもなんら応答は得られない。堆朱が揺れただけである。じとりと建物の日中蓄えた熱が足元から僕を這い上がってくる。時刻は知れないが陽はとっくに姿を潜めていた。背に汗が浮ぶ。僕は舞子の名を呼ぶ。舞子は遠くで叫び続ける。
 ドアノブを捻るとすんなりと開いた。靴の湖に足を踏み入れると、キッチンから続くリビングに舞子が見えた。舞子は何事かを叫びながら壁を打ち鳴らしている。
「舞子?」
 僕が呼ぶと舞子はぱたりと動きを止めこちらを見た。壁には金鎚の先端がめり込んでいて、舞子が手を離してもそこに刺さったままになった。
「舞子、どうしたんだ? 大丈夫か?」
 舞子の部屋は冷房が効きすぎていて寒い。半袖を着ていた僕のむき出しの上腕から水分が次々に剥がれていくのがわかった。その中で舞子の額には汗の粒がいくつも浮かんでいる。
「浩平!」
 舞子が飛びついてきた。僕の胸に舞子の顔が埋まる。
「ねえ浩平どうしよう蝉とっちゃった! 私どうしてたんだろどうしてとっちゃったんだろこれじゃ夏がまた入ってきちゃうのに暑くなっちゃうのにどうしようどうしよう浩平ねえどうして私とっちゃったのかなあ! 蝉! セミッ!!」
 僕の内臓に舞子の絶叫が響く。彼女は僕の背に腕を回し力をこめた。
「舞子、舞子落ち着こう。舞子が自分から取ろうとしたから僕が手伝ったんだ、覚えてるだろ?」
「なによ、なによそれ!」
「なにって、それで僕らは友達になるって……」
「くそったれ!」
 舞子が僕の胸を叩く。肺から空気が押し出された。僕に暴力が注ぎ込まれる。
「くそったれ! どうして外したの!」
 僕は何も答えられない。人の衝動に晒された時、僕はいつも無力である。太い芯のにわか雨を前に傘を持たない僕は濡れるに任せるしかない。
「浩平! もうやだどうしよう暑いの嫌なのに!」
 舞子はそれからひとしきり僕の胸を殴打した。僕は抵抗できず、しかし受け入れることもままならず、ただひたすらに殴られる。とても痛い。肋骨がずれている気がする。少しだけ吐きたい。
 舞子は無反応な僕を押しのけ、散らかった床から釘の刺さった蝉の死骸を拾い上げた。何をするかと見ていれば、彼女はそれを壁に叩きつけ、その上から素手で殴り始めた。華奢な手が蝉を砕く。蝉を貫いていた釘は、その先端で舞子の手を穿った。
「痛いぃ!」
 舞子は叫んだ。無残に崩壊した蝉が舞子の血糊で壁に張り付いた。釘は舞子の拳にぶら下がって、舞子はその牙を力任せに引き抜く。僕は呆然と、その破壊とも自傷ともつかない痛ましい血の軌跡を見ていた。
 舞子は「痛い痛い痛い」と叫びながら壁を叩く。白色の壁に血の判が幾重にも押されていく。蝉はその中で本来の見た目を失ってゆく。二枚の羽根だけが、壁に張り付く塊は蝉だったことを細々と主張していた。
「痛いよう、浩平、痛いよう」
 舞子は血を撒きながら僕に助けを求めた。目に涙を溜めながらも、舞子は蝉と壁と手の破壊を止めようとしない。止まらないといった風情である。僕が戦慄したのは、血液と混じりゼリーのようになった蝉の亡骸でもなければ、壁を殴打する人間の叫び声でもなく、痛みを感じ苦しみながらもそこから離れようとしない精神と肉体の剥離のためであった。
 舞子は殴るのを止めない。このような時、僕はいったいどうするべきなのだろう。例えば後ろから羽交い絞めにしたり、あるいは平生無縁の言葉を弄して宥めたり、場を収めるためだけに動くべきなのだろうか。果たしてそれは、誰のためなのだろうか。
「浩平嫌だよどうしよう痛いよう」
 僕は決めないまま舞子に近寄る。床に散らばる本を蹴り飛ばし爪先が痛い。ほらこのように近づけばどこか痛む。人の心の奥底は刃の風が吹いている。人の皮を一枚めくれば滲む体液が僕を溶かす。僕は、これが、とても嫌いだ。
「やだどうしよう、わかんないよ助けてよ!」
 言葉の通りに僕が舞子を助けたとして、僕はその時、安全圏に居られるのだろうか。僕はその時、無事で居られるのだろうか。どこか深い所に沈んだ人間を、どうして僕がすくい上げなければならない?
「舞子」
 しかし僕に次の言葉はない。僕は痛い目に合うと知っている場所に行けるほどの人間ではない。僕は黙って、舞子の眼に浮かぶ剣呑を鏡のように反射した。舞子を処理するのは舞子なのだ。少なくとも僕は今、そう思う。
「スイッチ入れて」
 憮然と言い放ち、舞子はまたぞろ壁を殴った。聞いた事のない硬質な音が聞こえた。骨かあるいは壁面か。僕はスイッチを探す。いったい何処にあるのかと聞くと、舞子は壁を叩きながらベッドの上だと言った。僕は幾つも染みのあるシーツから、手のひらに丁度収まる大きさのスイッチを見つけた。これはスイッチと言うよりもリモコンのようで、僕は舞子に使い方を訊ねる。
「私の胸に当てて真ん中のスイッチ押すの! 早くしてよ!」
 舞子は僕を向き、ワンピースの胸元を力任せに引いた。左胸の上、鎖骨のやや下に手術痕が見え、僕はそこにリモコンを当てる。
「舞子、オンにして良いんだね?」
 舞子は激しく頷いた。僕はスイッチに指をのせ、ゆっくりと押下した。舞子はオンになるとほぼ同時にして「やっぱやだ」と呟いたが、もう遅かった。

 舞子のスイッチについてメタファだと解釈していた僕にとって、それをオンにしてからの彼女の変容はにわかに信じがたいものだった。舞子は一瞬間その痩躯を震わせてから、枝より落ちた枯葉のように緩慢と静謐に沈みこんでいった。荒れた海に沸き出た白波の細やかな気泡が、浜に向かうにつれ失われていくように、舞子は澄んでいったのだ。
「ごめんなさい、浩平さん、本当に、ごめんなさい」
 舞子はその場に座りこんだ。身を縮め傷ついた右手を庇いながら、さめざめと嗚咽を漏らす舞子に、先ほどの剣呑は感じられない。僕は震える舞子に近寄り彼女の肩に手をかけた。このように弱った人間になら、僕は辛うじて優しくなれるのだ。
「大丈夫? 手を、まず手当てをしよう」
「ええ、もう大丈夫。ごめんなさい、その前に煙草を一本とってもらえる?」
 僕はベッド脇のサイドボードの上にキャメルを見つけた。その傍には傷だらけのジッポが置いてあった。僕は舞子に煙草を咥えさせ、おぼつかない動作で火を打ち煙を招来する。
 舞子はキャメルの苦そうな煙を飲み、暫くの間呼吸を止めて、肺の末節いたるところを満たしてから、静かに紫煙を吐いた。溜息である。
「落ち着いた?」
 聞くと舞子は「オンになった瞬間に全部落ち着くの」と答えた。
「手は痛む?」
「あんまり痛くない。じんじんする。でも上手く動かせないや」
 舞子の壊れた手を見ると、壁を叩いていた指の付け根から先の皮膚が消えていた。捲れた肉に蝉の何かがへばりついている。僕は舞子からタオルを借りて(それは清潔とはいい難かったけれど)キッチンで熱湯につけて舞子の肉を拭った。舞子はすこし顔をしかめるだけであまり痛がらない。痛覚を壁に置いてきたのだろうか。僕は舞子が痛みを取り戻さないうちに、できるだけ強く傷をこすった。
「良くない菌が入るかもしれない。医者に行った方が良いよ」
 舞子はこの提案を拒否した。医者には行きたくないそうだ。舞子はふらつきながら立ち上がり、ジンのボトルを持ち上げて蓋を取った。香草で彩られた透明な液体を、彼女はすこし躊躇ってから傷口に浴びせた。舞子は声を出して痛がった。それでもジンによる洗浄を続け、終いには瓶を空にした。床が血とジンの混ざった液体で汚れた。
「あの、浩平さん、包帯まいてもらえませんか?」
 僕は舞子から薬箱の在り処を聞き、その中の化膿止めとガーゼを傷口に乗せた。それから包帯で舞子の右手を巻き上げた。僕は包帯の正しい巻き方を知らないので、舞子の右手はスプーンの先端のように丸くなってしまった。
「上手く巻けてないけど、でもとりあえず解ける事はないと思う」
「ありがとう」
 舞子は不恰好な処置を見てから礼を言って、しばらくそれを眺めて、僕にもたれ掛かって泣いた。

 夜が明けると曇天であった。使い古した雑巾の忌むべき鼠色と今日の空はとても良く似ている。腐臭のしそうな西の上空を舞子の部屋から眺めていると、過度に冷やし水気を飛ばした室内さえもどこか神聖不可侵に感ぜられる。このような瞬間にこそ僕は人類の叡智を噛み締めるのである。自然現象に反駁し快適(それは快楽と言って差し支えあるまい)を創造し、ざまあみろ我々は摂理を超越したのだと図に乗る。快楽のための副作用など知ったことか。そのために世界がどうなろうと知ったことか。
 カタストロフィを迎える前に死ぬことこそが幸福なのだ。今を努力し恵まれた未来をあてもなく引き伸ばすくらいなら、向こう見ずの快楽に溺れて僕は死にたい。
 僕は脳の描かれたカーテンを閉め、ベッドで眠る舞子を見つめる。僕は昨夜の騒動のあと自室に戻る機を逃し今まで舞子の部屋に居る。舞子は僕に寄りかかり泣き尽くしてから眠った。
 舞子のベッドは薄汚れていた。枕に頭を乗せる舞子の股の辺りにいくつもの染みがあった。夜尿か自慰の痕跡か知れないが、その染みは本来秘匿の内に抹消されるべき物であり、それが依然として放置されているこのベッドは、不快とささやかな興奮を僕に与えた。さらに言えば、舞子のワンピースの下にはすぐ素肌があり、薄い色した乳首は空調の冷気のせいか時折膨らみ、はたまた萎み、その様子には淫逸の期待を禁じえない。
 やらせてくれないだろうか。
 間もなく舞子は目を覚ました。ベッドに腰掛ける僕を呆けた眼差しで見つめ、しばらく状況を把握できず、きょろきょろと大きな目玉を動かし、少しだけ脂の浮いた顔面を拭ってから、恐る恐る僕の名を呼んだ。
「おはよう舞子」
 僕は努めて穏やかな口調で言った。
「え、うそ、あれ、浩平さん? 私なんだっけ、あれ?」
「手は痛む?」
 舞子は言われてようやく砕けた手の存在を思い出した。
「うわ、痛い……」
「指は動く?」
 舞子は右手を包帯の下で動かした。
「うん。動くみたい。なんかごわごわしてるけど」
「そりゃ僕の巻くのが下手だからだよ。でも良かった、折れてはいないみたいだ」
 すると舞子は顔を隠し、瞳だけで僕を見つめて、震える声で言った。
「あの、ずっと居てくれたの?」
 僕は首肯する。舞子はそれを見て赤面した。
「えっと、その、私、寝てただけ?」
 僕はその言葉の真意を解して長閑な口調で答えた。
「もちろん。妙な事はしてないよ。僕はね、出会ったばかりの女にそんな気は起きないのさ」
 韜晦。僕は自分に吐き気を覚える。
「ああ、よかった。私ってすぐ男の人とそういう風になるから、ああ、本当によかった」
 そうかい、と僕は微笑んだ。
 本当に、心底、吐き気がする。僕が彼女について小説を書こうと思ったのもまた、この瞬間だったのだけれど。


sage