03


 舞子の居室に比べると僕の部屋は静かだ。カーペットもカーテンも暗い色にしてある。セミダブルのローベッドもことごとく黒い。家具の背はみな低いものを選んであるので室内の標高は低く平坦である。直線で描写できる空間が好きなのだ。
 つけっぱなしだったパソコンの前に座り、僕はぼんやりと夏について思う。
 夏は(蝉がうるさく(音に絶え間が無い)光が強く(熱の蓄積と放出)実に息苦しい(これが大きいのだ)から)嫌いだ。もう少し茫洋と身勝手を許されるなら、この嫌悪は曖昧模糊として恒常的に嫌味を垂れ流す、十把一絡げに難い夏の諸作用による倦怠なのだ。うざったいと言えば早いが、この嫌悪は端的に表すには入り組んでいて、端然とした言葉の統御の上には成り立ち得ない。
 ああ、これは何かに似ている。言い表すに難く感じるに易い。あまりにも広義で持てあますのだけれど、僕達人間はいつもそれを一言で済ませている。たしかそれには矛盾が溢れている。トラバサミで捕らえた兎をペットにするような残酷。魚の骨を抜いて美味いところを喰らうような身勝手。裸になるために服を着るような期待。
 これは、たしか、ええと……。

 これまでの僕は小説を作ることについて前向きだった。雑多な印象や明確な主張を根にして手持ちの言葉で装飾する作業が楽しかった。時に実直に語り、時に弓なりに仄めかし、時に難解に隠蔽する作業が幸福だった。その為なら眠る事すら惜しかったし、食事や排泄に至っては中断を生む不純物だった。目の前で美女に股を開かれて、そいつが股間を掻いて濡らしていても僕は小説を書いていたかった。しかし僕はいつからかその熱を欠いていったのだ。
 何かしらの衝撃を伴った契機があったわけではない。創作を続けていくうちにぼんやりと僕に違和感が生まれたのだ。その違和が生じる過程も多岐にわたりそれぞれが相互作用しているのは明白だが、その発生の一切れに関しては言葉一つで事足りる。僕の小説は閉塞していた。閉塞した小説の行方は放置された死体のそれと似ている。
 僕は文芸部で小説を書いていたが、そもそも僕の所属していた文芸部は閉鎖的であった。部員が集まり好き勝手に小説を書く。この時点で集まる意味が無い。文化祭に合わせて作品を持ち寄り冊子にまとめたとして、しかしそこに一貫した命題でも設けない限りやはり部員は好き勝手に創作するのだ。あるいはお互いの作品を読みあい批評を行ってそれで終了する。この展開はつまらないよ、ありふれているね、語彙が貧相だ、文章のルールを守っていない、独りよがりの比喩ほど見苦しいものは無い、魔法ってのはどういった概念だい? イングラムに弾丸は九十発も入らないよ、主人公の行動に無理がある、脳みそは灰色じゃなくないか? ところでキミはセックスをしたことあるのかい? 恋愛なんて卑近なテーマを書いて何が楽しい……。
 この有様だ。鋳型に鉛を注ぐような創作作法と、そこから逸脱したものをおしなべて無粋とする排他性が相まって、僕は息苦しさに喘いだ。
 僕はこのような様式美めいた表現の制限に辟易した。小説なんて好きに書けば良い。やりたいようにやればいい。そしてリベラルとラジアルを得意げに標榜すれば良い。当時の僕はそういった立ち位置であった。
 高校を卒業する頃になると僕は殆ど小説を書かなくなった。かわりに日記をつけるようになった。思ったことを好きな言葉で書き誰の目にも触れさせない自慰こそが当時僕の求めていた安住地だったのだろう。僕にとって元来小説を作ることは趣味だったのだ。それについては肯定的な感想が欲しいだけだったのだ。それが貰えないのなら、僕は僕のやり方について全人類に黙っていて欲しかった。
 趣味ってのはそれでいいんだろ? それについて誰が何を言う?
 僕は日ごとに文芸部の活動に飽き、ついにはそこで満足げに丸く収まる部員を見下し始めた。趣味ならそれで良い筈なのに、果たして当時の僕は自家撞着に気づくことは無かった。
 しかし恥ずべき文芸部に一人だけ妙な男がいた。僕は自分の小説について考えるとき彼を思い出さずにはいられない。それは語らなければならない。
 八子保則という人物がいた。彼について一言で表すのは実に困難だが、保則は漢字を覚える際にその字の成り立ちから覚える性質だった。それこそ漢字練習帳に参考程度に載っている挿絵を好む人間だった。山という字は遠くから見た山の稜線が本だとか、母という字は乳房に由来するとか、僕は忘れてしまったが彼は漢字の起源をよく知っていた。何かを踏まえて生きていた。
 彼の書く小説は実に写実的だった。彼の物語に虎が出てくるのならば、彼は虎の骨格と筋繊維と臓器の配置と脳の大きさを把握していた。彼が拳銃について書けば弾丸は装填される範囲でしかマガジンに入っていないだろうし、セックスシーンがあれば彼は緻密な描写のために大勢と寝るだろう。そして数多の女性器を観察し平均値を取り共感を得るのだ。また、彼の使う言葉はどれも的確に活用し語尾を変えていたし、逆接の接続詞は逆接の為に用いられていた。
 僕が彼に「なんでそんなにリアリティとか様式に拘るんだ」と聞くと、彼は「リアリティとか様式とかを好きな人間もいるんだよ。好き勝手に書くのが好きな奴もいるんだから、その逆がいて当然だろ?」と答えをはぐらかした。
 僕は彼が好きだった。僕に無いものをもって僕に書けないものを書いていたからだ。
 僕達はとても仲が良く、高校生のうちにお互いの理想や将来について語らい、いつかまだ見ぬ未来までの親交を確信していたが、果たして保則は新潟の海に沈んで死んだ。
 全身真っ白にふやけた保則の死体が角膜から剥がれない。
 時刻を見ると日付が替わりかけていた。短針が天井を振り切っていないのを見て安堵する。
 やめよう、小説について考えるのは。
 人は記憶の中で死に続ける。

 翌日の昼近く、僕はインターホンが鳴る音で目を覚ました。ドアの向こうから女の声が聞こえる。僕はベッドから立ち上がり、キッチンでコップ一杯の温い水を飲み、寝癖を手でほどきながら玄関のドアを開けた。
 舞子が静かに立っていた。手には金鎚を持っていた。
「こんにちは、浩平さん」
 僕は金鎚を瞥見して、それに害意が含まれないのを知る。舞子は金鎚を両手で胸の位置においていた。
「おはよう。ごめん寝起きで。どうしたの?」
 舞子は白いワンピースを着ていた。首筋から鎖骨にかけて濃い影が落ちていた。今日も随分と暑いようだが、しかし舞子はじっとしたまま目を泳がせて二の句を継がない。昨日に比べて随分と女性らしく見えたのは舞子の所作がこじんまりとしているからだろうか。
「舞子?」
 彼女は僕の目を見て、それからドアノブを一瞥して、再びこちらを視界に入れた。
「あの、壁の釘のことなんですけど」
 舞子は申し訳なさそうに声を細めて言う。
「すごく深く刺さってて、私の部屋からだと抜けなくて、その、浩平さんの部屋のほうからこれで叩いてもらえませんか?」
 僕に金鎚が差し出された。
「ああ、そういうことか。それなら構わないよ。空気こもってなんか臭いけど、どうぞ入って」
「あ、良かった。ありがとう」
 そう言ったが舞子は中々入室しようとしない。目を泳がせて、少しだけ俯いて頬を赤らめている。
「どうしたの?」
「あの、入ってもいいの?」
「そりゃもちろん。昨日僕はキミに引っ張られて入ったけど、キミは人んちに入るのは躊躇うの?」
 僕が笑って、舞子も微笑した。そっか、うん、ごめんね。と言ってから、舞子はようやく玄関をくぐる。昨日のうるさい女は何処へ消えた。

 十三本の釘の先端に向かって金鎚を振るう。轟音と振動が壁を揺らし、釘が縮んで抜けてゆく。賃貸ということもあり壁紙をへこませないように力を調整するが、考えてみればもうすでに壁面には釘が貫通しているのだ。僕が壁を叩く様を舞子はじっと立ち尽くして見ていた。
「今日は随分と静かなんだね」
 僕が片手間に舞子に言うと、彼女は苦笑した。
「はい、その、昨日はごめんなさい」
「なにが?」
「急に釘とか打っちゃって、しかも苦情を言いに来た浩平さんを部屋にあげてお酒まで飲ませちゃったし、なんだか申し訳なくて」
 僕は舞子を向き直り、彼女の全身を眺める。昨日の喧しい舞子がそのままここにいるはずなのだが、今の彼女は実に静謐としている。祭りの後のように、いや、火事のあとの死に絶えた野辺のような静けさである。
「構わないよ。実際に昨日の約束どおり釘問題は解決しているわけだし」
「本当にごめんなさい。なにかお詫びができたらいいのだけれど」
 昨日の舞子の言葉を僕はふと反芻した。そして得心する。
「オンになったってこと?」
「え?」
「オンになったから蝉を取り外す踏ん切りがついたんだろ?」
「ああ、そっか、私はそんなことまで言ったのね」
 それから舞子は実に静かな口調で「今はオンなの」と言って髪を梳いた。
「質問して良い?」
「いいですよ」
 僕は金鎚でこめかみを掻いてから問う。
「キミのスイッチはどこにあるんだ?」
 舞子が沈黙して、すぐに破顔する。
「ほんとうに、ほんとうに浩平さんって面白い人」
 それから舞子は消え入りそうな微細な嘆息を漏らし、ワンピースの襟元をずらした。彼女は左鎖骨のやや下方を指差す。白い肌には手術痕が浮いていた。
「ここにスイッチがあるの」
「よく見えないな」
「えへ。肌の下に埋まってるから」
 僕は舞子の言うスイッチの場所を見てすぐ彼女の顔に目をやる。見るほどに舞子は美しかった。短髪ではなく深い黒の長髪だとしたら艶美といった風采ですらある。
「スイッチを入れるとどうなるの?」
「今みたいになるの。色々な事が一つずつ意味を持って順序良く並んでいくの」
「それは面白いね」
「とても妙よ。あれそれの名前や役割をきちんと知っているのに、なんだかオフの時より輪郭がぼやけているから。水の中で生きているみたい。音もかたちも、わかるけど遠い」
「オフの時はどんな調子?」
「そうね」
 と舞子は目を閉じしばし黙った。僕は金鎚で肩の凝りを押しながら言葉を待つ。
「喧しくてカラフル。例えばオフの時の私は、音楽を同時に十曲聴きながら、読めない言葉で書かれた小説を解ろうとしつつ、頭の片隅では夕食に使う胡椒の黒い粒がなぜあんなに硬いのか考えているの。そしてそれらすべてを案の定処理できない。一つもきちんとこなせないまま、また新しい百の行動を同時に行いたくなるの」
 舞子は顔を赤らめてそう言ってくれた。ややもすれば舞子にとってそれは言い辛いことだったのかもしれないが、しかし他人の告白に対して僕のできることは黙って聞くこと一点のみである。
 そうして舞子のオンとオフについて聞いた僕は、彼女の言葉の意味とスイッチの役割を考えるべく、しばし無言で壁の釘を打ち抜いた。

「リタリン?」
 僕は思ったことをそのまま舞子にぶつける。
「え?」
「舞子の言うスイッチって、リタリンとかコンサータとかではなくて?」
「ああ、すごい。そういえば浩平さんは心理学部生だったんですよね。でも違う。確かにそれらはある程度わたしにとって有効だけれど、残念ながらもうちょっと複雑で霞がかっているんです」
 そうか、と僕は壁を打つのを止める。
「舞子のスイッチはどこに作用するの?」
 僕の言葉に舞子は苦笑して、それから躊躇いがちな動作で頭を指差し、
「脳の深いところを縦横無尽に」
 と言った。
「ねえ、浩平さん」
 この時の舞子の声色は冷徹ささえ備えていた。僕はついかしこまって彼女を見る。
「今夜、またオフにしなきゃなの。ずっとオンだと何があるかわからないから、経過観察するように言われてて、それで、その、また迷惑かけるかもしれなくて、あの……」
 しかし彼女の冷えた語調も言葉尻に従って柔和に溶けていった。語頭に隠された何かしらは終ぞ姿を見せなかった。僕はそのぼやけた言葉から扱いやすいであろう箇所のみを拾う。それ以外のことには気づかない風にする。人付き合いは概ねそれで上手くいくのだから、深追いすることに益体は少ない。
「かまわないよ。何かあったら呼ぶと良い」
 それから二人は黙った。僕は壁の釘を外し続ける。舞子の部屋では串刺しにされた油蝉が床に十三匹転がる事になる。果たしてその死体群は混沌を極める舞子の居室で目立ち得るのだろうか。
 舞子は全ての釘を外し終えた僕に礼を言って、かならずきちんとした形の侘びを入れると約束して自室へと戻った。僕は去り際の舞子に金鎚を渡し別れを言った。
 一人部屋に戻ると舞子の残り香が淡く在った。汗と洗剤と女の脂の香りがした。僕は疲弊した右腕を休めるべくベッドに寝そべり、しばらく彼女の脳の深いところについて思索を巡らしていたが、ついうっかり眠りに入ってしまった。
 その夜僕は轟音で目を覚ます。
 釘を全て打ち抜き平らになった壁が大きく揺れ、揺れに揺れて揺れつくし、ついに隣室から金鎚が飛び出してきた。
 壁に開いた穴から舞子の叫び声が聞こえる。
 僕は起き上がる。
 舞子のスイッチがオフに戻ったのだ。


sage