02


 隣人は間を置いてドアを開けた。僕の纏っていた湿気と熱が開いたドアに吸い込まれて、目の前に短髪の女が現れた。僕をじっと見る双眸は大きく潤っており、筋の通った鼻や艶のある唇が女の色を感じさせる。体に密着した真っ白いシャツの上に乳首が二つ浮き出ていた。僕は目を逸らしてしまう。
「なんですか」
 興奮したような快活な声だった。彼女の風采から落ち着いた声色を想像していた僕はその高い音に驚く。
「なにか用ですか?」
 彼女はそわそわと部屋の中を振り返ったり僕の背後を伺ったりしている。
「ええと、その、僕の部屋に釘が飛び出てきたんですけど」
「釘?」
「そう、釘」
 彼女は僕を見つめたまま首をかしげて眉をひそめた。そして突然大きな声で言う。
「ああ! そっかそっかごめんなさい! ちょっと蝉飾ってて!」
「なんですか?」
「蝉、蝉!」
 彼女が笑顔で部屋の中を指差した。しかしこちらから彼女の部屋の様子は見て取れない。辛うじて見えるのは靴でごった返した玄関と、ダンボールが山積みのキッチンルームだけだ。
「蝉を飾ってるんですか?」
「うん」彼女は僕を手招きして「暑いから入って」と言った。
 初対面の男を招きいれる彼女の危機意識に逡巡していると、彼女は「はやく」と僕の手を引いて玄関に引きずり込みドアを閉めた。
 玄関には靴の湖ができていた。足の踏み場が無いので僕は踵の折れた黒いパンプスの上に立っている。湖面にはコンバースのハイカットやブラウンのミュールやハイビスカスがついたサンダルや紅い鼻緒の黒い下駄が浮かんでいた。コンバースがとても多くコンクリートの湖底が見えないほどだ。時々、纏足用の派手な靴が蓮のように浮かんでいる。どれもこれも靴のサイズはバラバラに見えた。
「そんな所に立ってないで来て」
 彼女が僕を呼んだ。玄関を上がって振り返ると僕の靴はもう見つけられなくなっていた。このアパートのキッチンは四畳ほどでトイレと風呂場へ繋がる扉がある。キッチンはダンボールの空き箱で埋め尽くされていて、流し台と二口コンロの上にもそれが乗っかっていた。
 リビングに入ると目がくらんだ。物が多すぎるのだ。以前読んだ本に「あらゆる雑誌からあらゆる記事を適当に切り張りしたスクラップブック」という一節があったがあの表現は彼女の部屋に相応しい。
 まず目を引くものがリビング奥のカーテンだ。墨色のフラットカーテンに白のペンキで二つの脳が描かれていた。脳の外側の絵と内側の断面図である。脳の形状や皺の重なりまで微に入り細を穿った絵である。二つの脳は色とりどりのペンキで落書きされている。
 視床下部がピンクで大雑把に塗りつぶされ「ラスボス」と書かれていたり、大脳新皮質の淵にチューリップが描かれたり、前頭葉の皺にハートマークが埋め込まれていたりしている。前頭葉下の眼球があるべき箇所には目玉の親父がいた。その隣には鬼太郎らしきキャラクターがふきだしで「父さんもっと奥!」と言っている。悪趣味だった。
 次いで壁面の異様さに僕は息を飲んだ。僕の部屋の側にはなにか茶色いものが打ち付けられていた。それが油蝉だということに気づき、すぐに先ほどの騒音が油蝉の磔刑の際に生じたものだと得心する。随分大きな釘で油蝉が壁に打ち付けられている。僕は恐怖した。彼女は僕を見て笑っている。僕は彼女に、壁の蝉について苦言を述べなければいけないのだ。しかしこの瞬間、好奇が抗議を懐柔したこともまた事実である。なぜ彼女は蝉なんぞを壁に打ち付けているのか。
「どうぞ座って!」
 彼女が甲高い声で僕を促す。
 部屋の中央にはウォーターヒヤシンスのローテーブルがあった。ガラス製の天板の上には白檀の燃えかすが黴のように散乱している。テーブルの脇に僕が座ると彼女は次々に酒の瓶を持ってきた。
「いま並べるから待って」
 彼女がテーブルに瓶を置く。僕は部屋の観察を止めない。
 床には洋服や雑誌なんかが散乱している。彼女は実に様々なサイズの洋服とあらゆる雑誌を持っていた。漫画雑誌、インテリア入門、身近な樹木大辞典、つり雑誌、日本の伝統舞踊についての解説書、世界の奇習を収めた大判、ダリ全集、おいしいコーヒーの淹れ方、月の写真集、成人向け雑誌(かなりハードでロリィだ)……。それらがジーンズやスカートなんかの上に雑然と放り出され、チュニックと細身のシャツを挟み込んでいた。
「どれ飲みますか?」
 テーブルにビールやジンやウィスキーが並んだ。
「ええと」
 言葉が出ない。何も僕は酒を飲みに来たのではないのだ。貫通した釘問題について解決するために酒はいらない。
 しかし彼女は笑顔のまませわしなく氷の入ったグラスを僕の前に置く。
「男の人はウィスキー? これ、ラフロイグの三十年ものなんだけど、やっぱちょっと一人で飲むのってもてあまし気味だから、ロックでいいかしら?」
 僕は不承不承に頷いた。彼女には人を黙らせる力があった。グラスに注がれるラフロイグから炭の香りがあふれ出し鼻腔にへばりつく。
「その、釘の話なんですが」
 僕はグラスを受け取り、唇を湿らす前に本題を伝えることにした。
「ああそうだった」彼女は自分のグラスにもラフロイグを注ぐ。「そっちに飛び出しちゃったんですよね」
「そう、あれは危ないので外してもらえませんか」
 彼女が僕を見つめる。僕はウィスキーを飲んだ。氷から剥離した水と混じっていない純粋な味が歯に絡み舌に溶けた。強烈な香り(下品な言い方だが正露丸に近しい香りでありこれは酒好きに言ってはならない)と舌の両端を刺す辛みが呼吸するのを止めさせる。うまい酒だ、最高に。
「どうしても外さないとだめ?」
 彼女の声は少し甘味を孕んでいる。男について詳しいのだろうか。僕はこういった声色に少し弱い。
「できたら外して欲しいです。あのままだといつか壁が僕を刺すことになる」
「ああ、そうか、そうですね、それもそうです」
 彼女が蝉の打ちつけられた壁を見て悲しそうに言う。
「じゃあ、明日まで待ってくれませんか?」
「明日? 明日になればキミは蝉を壁から剥がすの?」
「うん」
「どうして明日?」
 すると彼女は自身の頭部を指差し「もう少しで、オン」と言った。
 僕には彼女の動作の持つ意味が解らなかった。しかし、間もなくオンになるということならば、
「今はオフなの?」
 僕の質問もあながち間違ってはいなかったのだろう。すると彼女は目を細め嬌笑し、至極愉快そうに
「そう言った人って初めて」
 と酒を一気に飲み干した。
「おもしろい人ね!」
 彼女が突然大声を出した。身を乗り出し煌びやかな好奇心を携えて僕を見ている。
「ねぇ、あなた名前は? 何歳? 何をしている人?」
 僕の名は高田浩平と言って二十一歳であり大学で心理学を学んでいると伝える。彼女はその返答に満足そうだった。
「それじゃ趣味は? 好きなものってなに? 怖いものってある?」
「ええと、どうしてそんなに質問するの?」
「だってだって、お隣さんとは仲良くするの!」
 そういう彼女の声は耳が痛くなるほど大きくなっていた。僕は些細な不安を感じる。どこか彼女は常軌とずれた所にいるようだった。あるいはそれは蝉の磔刑や脳のカーテンを見れば自明であったが、そういった明るみに出ない深いところに内在する不穏が言葉の折々に明滅している。
 僕は彼女の追及を手のひらで制止した。
「待って、待ってくれませんか」
 彼女は乗り出していた身を引っ込めて、僕の向かいで居住まいを正した。彼女の上体が緩やかに左右へと揺れている。僕が言葉を繋ぐまでの刹那に彼女がどれだけの動作をしたのか知れない。
「そうだ」僕は自分の拍を取り戻すための質問を投げる。「キミの名前は?」
 彼女は体を縦にゆすりながら笑顔で答える。
「舞子!」
「へえ、苗字は?」
「ええと、いろいろ!」
「なんだって?」
 だから、色々あるの! と舞子は白い歯を見せていった。歯並びがよく潤った歯列の奥に、密な突起でざらつく舌が見える。
「この部屋は笹川舞子の名前で借りてるし、この前千葉に住んでたときは魚住舞子だったし、インドに居たときはラクダ・キャメル・マイコだったし、アメリカに居たときはマイコ・パーションだったし、あとはええと忘れちゃった!」
 すると舞子はグラスに浮かんだ水滴を指で取って舐めた。
 僕はラフロイグを一口嚥下し、棘の抜け始めた香りを鼻から押し出す。
「それで、本名はどれなの?」
「舞子!」
 僕はこれ以上追及する気にはなれなくなった。もういいよ舞子で。
「それじゃ、舞子さん。一つ質問させてくれる?」
「舞子さんって言われると京都っぽいから舞子って呼んで。それなら質問して良いよ」
「ああ、そう、わかったよ舞子」
 人を呼び捨てるのは好かないが、
「じゃ、舞子はなんで蝉を磔の刑にしてるの?」
 と僕が聞くと舞子は急に表情を消し、まもなく落ち着いた声で言った。
「夏なんか死んじゃえばいいから」
「夏が嫌いなの?」
「殺したい程度だけどね」
「蝉をああすると、夏が死ぬの?」
 舞子は笑った。雄弁な笑みだった。嘲笑とか諦観とか殺意とか悪意のるつぼ。僕の背になにか痒い刺激が走った。
「そんなわけないけど、憎いとき黙っているのは人間じゃないから」
 だから私は抗議の意をこめて蝉を磔にするの。そういう舞子は元の落ち着きが無い女に戻っていた。
「そうか。僕も夏は大嫌いだけれどね」
 口に入れるラフロイグは随分と丸い味になっていた。
「私たちって気が合うみたい。仲良くしてね、浩平」
 僕はすこし黙る。
 それも悪くない気がした。
「明日、壁の釘を抜いてくれよ。そしたら友達になろう」
 舞子は頷いて、僕は部屋を出た。
 靴は存外すぐ見つけられた。

sage