01


 熱風がビルの谷間の往来を掬い取る。巻き上げられた路傍の埃と下水の臭気が、中空で錐揉みされる巷風に溶けてまたぞろ路面に降り注いだ。夏の空気の粒は粘着質でいて気随者だ。あらゆる表面を粘る薄い膜で覆いつくし、その吸着性をもって鋭利な日差しと熱の塊を逃がさない。僕はそれを吸う。服毒。夏に侵された血液が難治性の瘤を体中に転がすのを感じた。拡張され罅入る人体の枝葉末節が人は熱で死ぬことを知らせる。僕は夏で死にたくない。
 僕にはこの夏、やることがいくつかある。大学の課題で小説を一つ書くこと。新潟県の石地海岸に行くこと。友人の墓を参ること。八月のうちに終われば良いと思う。残る半月で小説を一つでっちあげ、地元である新潟の海で黙祷し、それから友人の墓に花を持っていく。そうすれば後は夏を受け流すだけとなる。受け流すだけならどうにでもなる。目を閉じて息を止め、拳を握り身を縮め、体にあたり砕ける潮流を無視するだけだ。人を捨て岩になり秋まで眠る。僕は秋まで眠っていたい。
 二週間分の食料品を千切れそうなビニール袋につめてアパートの自室へと向かう。その道すがら油蝉が群青を背に歪な軌跡を飛んでいた。牛糞に黄疸を混ぜた色をして、碌にまっすぐ飛べない喚くだけの虫が夏の風物詩だとしたら、僕はこの世の雅を信じないし軽蔑する。蝉は害悪だ。七日で死ぬ命ですら長い。

 アパートの共同廊下はいつも綺麗にされている。大家の浅見夫妻が毎朝念入りに掃除をしているからである。齢七十を超える夫妻は仲良く背骨を曲げ廊下の塵を弾き飛ばす。蜘蛛の巣も問答無用で壊す。蜂の巣ができても臆面無く叩き落す。老齢の近衛兵はそれぞれが竹箒を矛として二階建ての城を警邏するというのだからご苦労なことである。
 住居を我が城と人は言うが、しかし僕は自室が城であるなど一度も感じたことは無い。家は城ではない。僕にとってそれは強固な箱でしかない。雨と風が凌げればそれで事足りる。
 一階の共同廊下を角部屋にある自室へ向かい歩いていると浅見夫人と出くわした。身なりの良い老婆だ。薄い桃色のアンサンブルワンピースを着て竹箒を携えている。
「あら高田さんこんにちは」
「こんにちは。お世話になってます」
 浅見夫人は折れ曲がった背骨を軋ませながら起こし僕を見て微笑んだ。
「お買い物かしら。この度は帰省なさらないの?」
「いえ、所用が済めば盆の頃に帰ろうかと思っています」
「そうですか、ご両親が喜びますね。その時は道中お気をつけて」
「ええ、そうします」
 会釈をして僕達はすれ違う。すれ違いざま浅見夫人から祖母の箪笥の匂いがした。
「ああそうだ高田さん」
 浅見夫人がこちらを振り返って言った。
「あなたのお隣に女の子が越してきたのだけれど」
 夫人の視線がまばたきと共に僕から外される。
「その、少しだけ変わっているようで」
「変わっているというと?」
「そうねえ、あそこのドアの所見えるかしら」
 僕は夫人の目を追う。今まで空室だった隣室のドアに何かが貼り付いていた。臙脂色の皿のようなものだ。
「あれは何ですか?」
 夫人は記憶の朧を手繰りつつ怪訝な声色で
「村上の木彫堆朱だと思うんだけれど」
 と言った。細く揺れる声だった。僕の質問がその類の答えを求めていないことを夫人は重畳承知しているのだろう。僕達は並んで件のドアの前に立ち臙脂色の菓子器を眺める。平たい菓子器がドアに貼り付いていた。その表面には椿があしらわれていた。
「お皿を貼っちゃったみたいでねえ」
「これはなんでしょう?」
 僕は先ほどと同じ質問を夫人に投げる。夫人はまるで合点がいかないのよと答えた。それはそうである。僕も皿をドアに貼り付ける動機は想像つかない。
「私も今しがたね、ドアに貼るのはどうかしらとお話に行ったのだけれど、なんだかこう、要領を得ないことを話す子でね」
「なんと言っていたんですか?」
 僕は満載のビニール袋を持ち直す。手が痛い。
「なんだか単に貼りたかったとか、椿が綺麗だからだとか、剥がすと良くないことが起こるんだとか、そこにあるべきだったのだとか、なにより夏が嫌いだからだとか」
 僕は最後の一言だけが気に入った。なるほど、夏が嫌いな人間なのか。それならば僕と少なくとも一つの共通点がある。この部屋の女がドアに皿を貼ろうが変わっていようが所詮は他人事だ。他人事なら心地よい箇所だけを見ればよい。何者であろうがともすれば夏を嫌う女の一言で片付ければよい。
「それはまた、その人はこの季節が辛いんでしょうね」
 夫人が僕を見た。それから夏が嫌いだという言葉を思い出し、夫人はまた微笑む。
「どうか一つ仲良くお過ごしください。何かあったらいつでも」
 そうして夫人は竹箒を杖代わりにして城の警邏に戻った。僕は折れた背を見送り、ビニール袋の重さに舌打ちして自室へと帰る。

 僕はまず部屋に冷房を巡らせてから冷蔵庫に食材を放り込んだ。備え付けの物だが冷蔵室と冷凍室に分かれており、容量も一人暮らしには申し分ない。冷蔵室の光沢の消えた白いドアには大きなへこみがあった。以前の住人によるものだろうか。僕の部屋にはいくつかこのような名残がある。
 八畳のリビングは所々フローリングが削れていて僕はそれを黒のシャギーカーペットで隠した。脱衣所の洗面台には蛇口の脇に三つの丸い錆があって、それらはいずれも僕が入居する直前に清掃されたようであったが、腐食した部分が点々と残っていた。その三つの錆びはそれぞれ大きさが違って、一番大きなものにはシェービングクリームの缶がぴたりと乗せられた。残る二つは僕の持つ底の丸い洗面用具とは重ならなかった。それと、この部屋には最初から灰皿があった。汚れたガラス製の重たい灰皿だ。四角くて煙草を乗せる窪みが二つある。僕は煙草を吸わないので、その灰皿は来客用にとってあった。
 冷蔵庫に食材を詰め込んでからシャワーを浴びて、冷房の効いたリビングに逃げ込むと、夏の暑さはほとんど何処かへ消えていた。墨色のひだカーテンの隙間から落ちる外の光が窓際のベッドに埃を浮かせている。でしゃばりやがって。少しの綻びがあれば矛盾の罅を掻い潜って夏が主張を始めるのだ。おい、なに熱を無視してるんだ? と言った具合で。黙ってろよ。
 僕はコーヒーを入れてからパソコンを起動し大学の課題に取り掛かることにした。小説を一つ作ること。それが僕のするべき課題だ。
 僕は大学の心理学部三年生で、臨床心理学者の教授のもと人間が携帯電話に求める価値について研究している。心理学部に入ってまでなぜ携帯電話について研究するのか問われたら、ゼミを選ぶ際、犯罪心理学のゼミの人員抽選に漏れて仕方なく今のゼミを選んだというほか無い。しかし僕は持ち運べるサウンドスケープとしての携帯電話端末について勉強することがそこそこ好きである。そこそこ好きなものは多い。
 今回の小説を書くという課題は、ゼミとは無関係に教授の研究の一環として行われるそうだ。僕はその仔細を知らない。とにかく研究に付き合えば幾ばくかの現金が貰えるというのだ。心理学の発展も良いが財布が潤うのはもっと良い。
 小説の形式は問わず。エッセイめいていようが詩歌めいていようが構わないというのだから楽である。ただし、必須の条件として男女を一名以上登場させること。その他は自由。僕はかつて趣味で小説を書いていた経験を生かし金を得ることにした。
 ひとつ伸びをしてコーヒーをすする。創作だ。
 まず、男女が登場する小説について考える。言うまでもなくあらゆるジャンルの小説に男女は登場する。概ね男女はお互いに恋をして愛し合い殺しあう。時として友情を育む奴らもいれば、最後まで無関心な事だってある。あるいは助け合ったり裏切ったり忙しい。酷いときはなんだかよくわからない意味深なことを言い合って知ったような顔をして哲学を標榜する。場合によってはアマゾンかどこかの僻地で原住民と戦うこともあれば、羊の尻の穴に女の頭を突っ込んで、男がそれを見て笑いながらマリファナをきめる場合だってあるかもしれない。男と女が登場する小説はあらゆる展開に対応できる。そもそも、制約を設けるのなら男しか出すなとか女だけ登場させろとかするべきではないか。
 ではなぜ男女を一名以上登場させろなどと教授は言ったのだろう。
 僕に何を書けといっているのだろう。
 僕は笑う。
 何を真面目に考えているのだろうか。所詮は趣味の延長線上に現金が登場したに過ぎない。こんなもの適当にでっちあげて金だけもらえばよい。小説の完成度など問われていないのである。そう、趣味の延長だ。趣味なのだから、質など気にする必要はない。趣味なのだから、良いものを作る必要は無い。趣味なのだから、自分が楽しめればよい。趣味なのだから、程度が悪くても、良いのだ。僕の創作は趣味だから本気になる必要なんてないのだ。
 僕は笑う。趣味というのは良い言葉だった。

 男女が一名以上登場する小説を書くにあたって僕は自作品を思い出すことにした。それを焼直せば労せずして金になる。
 僕は高校で文芸部に所属していた。三年間のうちに長編小説を一つと短編小説を九つ書いた。
 長編小説はミステリーで、人が死んで人が騒ぐ話だった。殺人は煙草に毒のついた爪楊枝を埋め込むトリックだ。煙と毒を同時に吸い込み人が死ぬ。煙草を吸ったことの無かった僕は、煙草の燃焼と同時に凶器の爪楊枝が灰になって消えるという発想に己を賞賛した。毒がなんなのかとか、どうやって煙草に爪楊枝を差し込むかはあまり深く考えた記憶が無い。
 短編小説は模糊とした印象をそのまま手持ちの語彙で表したものであった。ブロッコリーを見上げる蟻はそれを巨木と感じるのかとか、時計盤の上で暮らす人間が長針と短針が重なる瞬間に潰されないように奮闘する話とか、そういったものだったと思う。
 もちろん男女が登場する小説を書いたこともある。毎週月曜日に夫が妻を殴って、水曜日に妻が喘息の発作を起こす話しなんかはとても
 ドン、
 と部屋が揺れたので思索をやめる。
 室内を見回しても特に変わった様子は無い。眉をひそめるとまたドン。手元のコーヒーが波打った。室内灯から垂れる紐を見上げるとドン。立ち上がりざまにドン。耳をすませばドン。どうやら音は背後の壁から聞こえるらしい。隣室と接した織物調の白い壁紙を見つめると、またぞろ大きな音が響き、僕は浅見夫人の話しを思い出した。
 隣人に誰かが越してきてそいつは変わった女だそうだ。
 小さく嘆息して頭を振る。引越し初日に騒音問題だ。
 隣室からの振動は収まるどころか勢いを増している。連続して壁が打ち鳴らされている。いったい何をしているというのだ。
 すると壁から何かが飛び出てきた。僕の肩が跳ねて喉から空気が漏れる。壁から小指ほどの長さの黒く細い棒が飛び出てきた。音が少しの間止まって、それからまた壁が揺れる。
 僕は突如現れた棒を見た。なんだか判然としないので顔を寄せると先端が鋭利なことに気づく。指で触ろうとすると、僕の目の前にもう一本棒が生えた。打ち抜かれた木屑と防火板の灰色の粉末がカーペットに落ちた。
 これは釘だ。
 壁から釘が生えてきた。僕は壁から離れて二本の釘を見る。また一本生えた。しばらくするともう一本。さらにもう一本。コーヒーを手に取る間にもう一本。こうして僕がコーヒーを飲み終わる頃には合計十三本の釘が壁から生えていた。それら全てが僕の部屋に先端を突き出している。
 僕の生活が脅かされていた。このまま日常を送る気にはなれそうもない。ある日買い物から帰って壁一面が釘だらけになったら人間はどう反応すべきだろう。どうもこうもない。迷惑だ。文句を言わなければならない。人の部屋に釘を貫通させてはいけない。そんな隣人愛せない。
 僕は洗面所で口を濯ぎ、苦いコーヒーの汁を流した。それから今度は大きく嘆息して、苦言を呈すために隣室へと向かう。
 椿があしらわれた菓子器が僕を出迎えてくれた。雪椿の堆朱が夏を締め出している。
 夫人は僕に隣人と仲良く過ごせと言った。まるで釘を刺すように。
 丁寧に呼吸をしてドアを打つ。よし行こう。
 トン、トン、トン。

sage